美味
「担当の看護師……。」
筆記体でBakery-Nと書かれた白い袋を抱えながら私は呟く。腕に抱える白い袋はいっぱい詰まっていてずっしりと重い。季節はまだ早いがサンタクロースの袋のようだった。もっとも、袋の中身は誰かにあげるものではなく、私とお母さんがおいしく食べるパンなのだが。
袋の中からは絶えずいい香りが漂い、私は持っているだけで幸せな気分になれる。お母さんに重そうだから持とうか、と提案されたら即答で拒否できるくらいには私は今幸せな気分だ。
今は店を出てからの車までの帰り道で、私とお母さんはまだ一言も会話をしていない。相川と言う見知らぬ看護師が挨拶し、脱兎のごとく逃げ出してから、私とお母さんはパンを買うために会話をしていた。その後店を出てからは当然話すことはなくなった。若干重々しい空気は流れてはいるが袋の中の香りが私をどうでもいい気持ちにさせているのも事実であった。
そんな中今の言葉を呟いてみたのだがどうもお母さんには届かなかったようだ。
私の勘であるがお母さんは相川さんを疑っているだろう。私も少しは疑っている。しかし何を疑っているかは自分にもわからない。ただ、相川さんが発した言葉の切れ端が耳のどこかに挟まっているような、そんな違和感を感じるだけだ。大きい病院だし、人の流れも激しいと考えれば昨日の今日で担当が代わるというのもおかしな話ではないだろう。パン屋でたまたま出会って自分が担当している患者だったから驚いて声を上げたが挨拶をしなければならないと思って挨拶をした、これだけを考えれば何も相川さんの動きには矛盾がない。でも普通挨拶するかなぁ。もしかして、几帳面な人とか……?
色々考えるうちに私とお母さんは車に戻っていた。お母さんが鍵を開ける音を聞いた後、手探りでドアの取っ手を探して開ける。袋を持つ手が片手になったことでバランスが悪くなる。長いことはこの体勢ではいられない。私はドアを開けるやいなや車内にするりと体を滑らせる。少し肌寒い外とは違い、車内は太陽のぬくもりに満ちていた。
車内のふかふかのソファに身をうずめるを疲れた足も癒えて自然に笑顔がもれた。
「あら、嬉しそうね。さっきの看護師さんのことでも考えていたの?」
ついにお母さんはその話題を出した。いや、もしかしたらさっきの呟きは聞こえていたかもしれない。聞こえた上であえて何も喋らなかった……?
「相川さん、って言ったよね」
「結構なイケメンだったわよ」
私の目が見えないとばっかりにこの母親は。私だからそのいじわるは寛容できるんだぞ。
「あれ?もしかしてお母さん気に入ったの?」
少し皮肉を込めて挑発してみる。
「えぇ、悪い人ではなさそうよ。あんなイケメン、私はラッキーだと思うけど」
意外な反応であった。てっきり私はお母さんが相川さんのことを疑っているものだと。
そうか、きっとお母さんも私が疑っているものだと思っていたのかも。だからさっき私が呟いたとき話題にしなかった。きっと私は怪訝な顔をして呟いていたから。車内に入って嬉しそうな顔をしている私を見ればお母さんは私の本心が聞けると思ったんだ。
まったく親子でなんで腹の探りあいをしているんだ。少しばかばかしくなった。
「お母さん、あのね」
「どうしたの?菜々」
「私も、相川さんは悪い人だと思わないよ。ただ、いきなり話しかけられてびっくりしただけ。ちゃんと謝ってくれたし、私次の診察行くの楽しみだな」
「あら。意外。お母さんてっきり相川さんのこと、菜々は悪く思ってるものだと思ってたわ」
「でしょ?」
すこし調子に乗って言ってみる。
「でしょってなによー」
お母さんがちょっとむっとした口調で言ってくる。わが母ながらこの人は中身がかなり可愛いと思う。普段人と接するときは外面で真面目な感じを気取ってはいるが、たまに出るこういう面はすごい魅力的だ。きっとお父さんもそこに惚れたのだろう。
「ねぇねぇ、お父さんとどっちがイケメン?」
今までより少し小さいトーンで囁くようにお母さんに尋ねる。
「そうねぇ。お父さんもかっこいいけど最近お腹出てきてるしなぁ。それよりさっきの相川さんは結構締まった体つきだと思うわぁ。今流行りの細マッチョってやつよ、きっと。」
「おかあさんのうわきものー」
お母さんが言ってくれた言葉で相川さんの輪郭を思い描く。顔はイケメン。イケメンといっても比較対象が私にはわからない。隣で歩いてくれたときに周りからチヤホヤされるという概念で捕らえてはいるが。体格は締まっていて細マッチョ。これはなんとなくわかる。なるほど、これはもてそうな人だ。
「彼女さんとか、いるのかな……?」
気がついたら私はそんなことを呟いていた。さっきまで正体がわからず怪しい人だったのに。私は何を気にしているんだ。
「さぁねー」
そんな心を察してか、お母さんは至極どうでもよさそうに呟き、私の抱えている袋の中からパンをひとつ取り出した。
「あっ、ずるい」
私も右手を突っ込みひとつ取り出す。その間にお母さんは小分けされたビニール袋を取り去って私に届く香りの濃度をあげた。濃度が高くなったおかげでおかあさんはブルーベリーパイをとったのだとわかる。
続いて私も袋を取り去るとりんごの香りが広がる。アップルパイだ。
ぱくっと一口かぶりつくとりんごの香りは鼻から抜けて替わりに甘酸っぱい味が口の中に広がる。
「おーいしー」
本当に美味しかった。甘いものは大好きでよく食べるが最近食べた中ではダントツで一番だった。お母さんもおいしそうに食べている。
「こっちも美味しいわよ、食べてみる?」
お母さんに促され口に含むと今度は酸っぱさの際立つ甘みが口の中を支配する。これも美味しい。
「んー、しあわせ」
「また来ようかしらね。今度も相川さんに会えるかもしれないし」
どれだけ相川さんを気に入っているんだと思った。そのとき違和感が頭をよぎる。なんで看護師がパン屋にいるんだろう?これがさっきの唯一ひっかかっていた違和感か。
「ねぇ、なんで相川さん、看護師さんがパン屋にいるの?今の時間ってまだ働いている時間じゃない…?」
「あぁ、お昼休憩だからぱぱっと買いに来たんじゃないかしら」
ぱぱっと?
「もしかしてさ、ここって昨日の病院の近くなの?」
「あら?言ってなかったっけ。すぐそこ病院よ」
初耳である。相川さんに感じていた今までの違和感の引っかかりはお母さんの言い忘れによって起こっていたのか……。
「言ってなかった」
すこしむっとした口調で言ってみる。
「あはは、ごめんなさいね」
「お母さん、明日もここ来よ?」
お母さんは何も言わず私の頭に手を乗せて、そのまま撫でた。
暖かいお母さんの手を感じ、私は袋にもう一度手を伸ばすのであった。