先パイ
家から職場の私立病院までは車で10分。長くもなく短くもない、家からの区切りをつけるのには最適な時間だと思っている。
通りなれた道の風景も一日経つごとに冬へと向かっていく。秋のこういう感じは見ていてとても風流があると思う。道に生えてる樹が何の木かもわからないが。でもなんか風流があると思う……。なんか……。穏やかに吹く風も少し窓を開けた車内に入ってきてとても気持ちがいい。
そんな空気を感じながら病院に着く。病院に着いたらとりあえず職員は会議室へ向かうことになっている。看護師とすれ違ったりするが、今はまだ夜勤の看護師が引き続いて仕事をしてくれているのでせこせことあわてる様子もない。嗅ぎなれた消毒の匂いをかいくぐり更衣室で白衣に着替えた後、会議に出席する。
会議では入院患者や診療の予約患者のチェックを行う。チェックといっても一人ひとり細かくしている時間はない。全体の人数の増減や、特別に言っておくべき患者がいれば二、三人を上げる程度だ。その後、今日の業務内容を聞かされた後、看護師達は蜘蛛の子を散らすように会議室から去っていく。なるべくはやく夜勤と交代したほうがお互いにケンカを交えずにすむというところからだそうだ。
人と接する職業上、仲間と問題を起こすのだけは避けたいのは当たり前か。
蜘蛛の子を散らし終わった会議室には僕一人だけが残っている。サボっているわけではない。今日の業務内容がいまからあと30分経たないと始められないのだ。全体的に白で塗装された会議室はなかなかに居心地がいい。誰もいない空虚な感じはとても落ち着く。環境も悪くない。椅子に座りながら30分どう過ごそうか考えていると、ふいに新人の後輩のことが気になった。新人といっても今年の春からでもう半年近くなる。それでも失敗の絶えない奴なので座ったばかりの椅子から腰を上げて気になる後輩の監視にでも時間を費やそうかと考えたのだ。
タッチ式のタブレットを右手でいじりながら後輩が向かう入院患者の名前と位置を確認する。増田靖、七十六歳。病棟は東の五階。五階は内科の担当だ。僕もその後輩、関口もいつもは東の五階、内科の担当である。部屋の担当は567号室。かなり奥に配置された部屋を目指し歩く。
歩く中、失敗が重なる後輩のことを考える。ここに来た初日は病棟を迷いに迷い、僕を含めた看護師一同を驚愕させた。もう半年も経つから増田さんの病室に行けているだろうが、若干心配でもある。とてもやる気があり、いい子なのではあるが、たまに頭のネジが飛ぶことがあるのが欠点で、悩みの種ともなっている。今までの苦労を思い出しながらため息をついていると、間もなく567号室にたどり着いた。
「関口さーん」
返事が返ってこないかと思ったが
「はーい」
どうやら病室は間違えてはいないようだ。
「増田さん、おはようございます」
カーテンを開けると同時に増田さんに挨拶をする。
「あ、看護師さん。おはようございます。今ね、点滴を換えてもらっているところなんですよ」
顔をシワだらけにしながら嬉しそうに挨拶を返してくれる。
「すいませんね。ちょっとこいつのことが心配になりまして」
こいつと呼ばれた後輩、関口は集中している。そんなに神経使う作業じゃないだろうに…。
「あははっ。いやいや、しっかりやってくれてるよ」
増田さんはうちの病院の中でもかなりの良識のある入院患者さんだ。うちの病院の他の人のように深夜に怒鳴る人や、入院食をぶちまけたりする人ではない。ほかの病院でもこういった事件は起きているみたいだが。
増田さんがしっかりやってくれてるよと言った10秒後だ。
「えっ!」
突然関口が大声を上げる。見れば換えたばかりの点滴が血液を吸って逆流し始めている。点滴の管を増田さんの鮮血がゆるゆると上っていく。
点滴の逆流を直す作業自体は難しいことではない。落ち着いてやり直せばいいのだが…。
「わぁー!えっ、ちょっちょっと!血が、止まってー!す、すいません、増田さん。急いで直しますから、あ、えっ、ちょー」
いくら個室と言えどもこの大声で叫べば外には駄々漏れだろう。頭を抱えながら関口に呟く。
「落ち着いて、関口さん。大声出さないで。貸して?僕がやるよ」
関口にそう言うと、彼女と入れ替わり点滴の逆流を直す処置を施す。
「先パイ、ありがとうございます」
ボソッともらした後輩の発言には反応せず増田さんに向かって謝罪する。
「ごめんなさい、増田さん。お騒がせしてしまって」
「ご、ごめんなさい」
僕に続き関口も謝罪を述べる。
「あはは、いやいいのよ。こんな老いぼれで失敗してくれるんならな」
皮肉の一切こもってない口調で増田さんは大声で笑う。
「関口さん、って言ったかな。そこの看護師さん。この失敗、是非次に生かしてくださいな」
「あっ、は、はい!」
本当にすみませんでしたと再度謝り、関口と一緒に567号室を後にする。
部屋を出た後、歩きながら僕から口を開く。
「関口さんも直し方は知っていたよね?」
「はい、でも焦っちゃって」
「落ち着けなかった?」
「焦っちゃうと何をどうしたらいいかわからなくなってしまって……」
後輩のしょんぼりとした顔を見ているとこれ以上言及するのは胸が痛くなりそうだった。
僕も甘いんだろうな、と思いながら
「次は色々想定外のことを考えるようにしてね」
努めて優しい口調で言ってしまった。
「はい、がんばります、先パイ迷惑掛けてすいませんでした」
と言い、関口はぺこっと頭を下げる。
じゃあね、と言いながら僕たちはそれぞれの持ち場へと向かう。
ミスを責めるのにも反省させるのも甘いけど、まぁいいか。僕の先パイもこんな感じの甘い先パイだったし。優しい先パイだったな。
昔の自分が見ていた影と重ね僕はそう思った。