6 落武者と坊ちゃん
助動詞の間から兜がヌルリと突き出した。玉砂利を踏みしめる足音と共に,日本刀を握り甲冑を身にまとった侍が黒板から湧き出してくる。すり抜けてくる。
教科書を持ち,鴨長明の心情を解説する教師の横を通り過ぎていく。
奥歯をかみ締めた。
何だこれは。
「今日は出席番号24番から……と思わせて2×4で出席番号8番。次の文読め」
「え~?! 」
生徒の非難も,教師の声も,なんら日常と変わらない。それでも俺の目には,黒板をすり抜けて歩いてくる甲冑の侍が映っている。いや,兜を小脇に持った侍も,コントのようにご丁寧に弓矢が甲冑に刺さったままの侍も,月代にロングヘアーな落ち武者ルックスな侍も,黒板から次々と湧き出してくる。
クラスメイトが読むたどたどしい古文に構う事なく,侍達は教室をすり抜けていく。
完全に固まった俺の横も,気づいていないのか真っ直ぐに通り過ぎていく。
汗のにおいも土のにおいも,何もせず。ただ,玉砂利の音だけを響かせて歩いていく。
息を潜め,視線はあわせずに,侍達の気配だけを追う。
最後の一人が通り抜け,彼らは速度を変えずに教室後の壁に突入していく。かと言って,隣の教室から悲鳴が聞こえる事はない。
遠ざかる玉砂利の音に,そっと教室を見渡した。生徒の間を歩きながらの教師の一本調子な解説が続いている。ただそれだけ。
何も変わらない日常。
「じゃあ,次は8×2で16番」
今のは,ナンだったんだ。夢でも見てたのか。
そう思い直したくて俯くと,握り締めた手に気づく。
指先が白くなるまで,シャーペンを握っていた自分の手があった。
そうだ,夢ではなかったんだ。多分。
半熟の目玉焼きが食べたい。
そんなお願いは子どもがするものだ。何で俺が台所のガス台前でフライパンの温度を睨み計らなければいけないのだろう。
「亮太,亮太! 」
「んだよ」
「空焚きはするな。フライパンが痛むだろう」
「だったら自分でやってよ」
「出来ないから頼んでいるんだ。バカもん」
当然のように文句を言ってきたじいちゃんは,鼻から荒々しく空気を吹き出して新聞に視線をうずめる。
本当に,自炊歴二十年なら自分で朝飯ぐらい作ればいいんだ。
「半熟だぞ。半熟」
「民子さんにも,そうやって文句言ってるのか? 」
「言うわけなかろう。身内だから言うんだ。ホレ,さっさと卵を入れろ」
口ばかりは達者なじいちゃんだ。
お手伝いさんの民子さんには優しいようなのは一安心だけど。
油を引いて,手早く卵を二つ鉄板へ落とす。その音に胃袋が催促の声を上げた。
固まっていく白身に胡椒をふりかけ,蓋をかぶせて火を弱める。その隙にコーヒーメーカーからポットを取り出すと,新聞の向こうからカップが無言で突き出される。
本当に,祖父ちゃんは二十年もの自炊をどうこなしてきたのだろう。
俺を引き取ったのは,朝飯の手間を省く為だったのかもしれない。
最後の最後まで迷った全寮制の高校を選択すればよかったかも。赤の他人の間の方が気楽だったかも。
ここにこなければ,妙なものを見ないで済んだ。
自分と同じ顔をした『何か』。壁を突き通って歩く落ち武者達。廊下の壁に掛けられた模写の絵から微笑む『モナリザ』。
アレ以来,俺は妙な現象に多く遭遇している。そして恐ろしい事に,段々と順応している自分に気づいていた。
レオナルド・ダヴィンチの『モナリザの微笑み』の,世界一有名な貴婦人から手を振られて微笑まれた。なかなか稀有な体験じゃないか。
「半熟だ! 火を止めんか」
「じゃあ,じいちゃんが作れよ」
「ワシは作らん」
もうやだ,この人。
溜息をつきながらも,スイッチを消して目玉焼きを皿によそう。食う為には作らねば。
「こら亮太。トーストはどこだ」
「焼いてないよ」
「何! 焼かずに食えというのか」
じいちゃんの声を流して,テーブルに皿を並べる。
俺の好みは,生の食パン2枚に目玉焼きを挟んで食べる。最高だ。
「何だその食べ方は。みっともない。これ,TVをつけて食べるな。まったく涼子はどういう教育をしてきたんだ」
俺の母親であろ自分の娘に文句をいいつつ,ようやく立ち上がる。
朝の情報番組を見ながら,じいちゃんを横目で見てしまう。この人,トースト焼けるのかな。
何しろ,朝は俺に作らせて昼と夜はお手伝いの民子さんが作ってくれる。
そして掃除洗濯も民子さん担当。お茶はペットボトルだし。それも近くの商店街からの配達だ。
じいちゃんはただ絵を描いているだけだ。それもどうせ素人なんだろう。よくは知らない。
俺が小さい頃も,何やら作ってた覚えはあるけれど。
「おはようございまーす」
トースターが焼きあがりのベルを鳴らしたと同時に,玄関から元気良い女性の声。何となく,乳酸飲料を飲みたくなる。
「民子さん,今日は早いですね」
「日中用事があるそうでな」
「すみません。通常は10時からですが,今日は早めで」
「用事があるならお休みすればいいですよ。ねぇ,じいちゃん」
「いえ。とんでもありませんよ」
目尻の笑い皺をますます深くして手早くエプロンを着た民子さんは,俺が使いっぱなしでシンクに置いたフライパンを洗い出す。
本当,民子さんがいなかったらこの家は崩壊するだろうな。
「オレンジでも剥きましょうか」
「おう。お願いできるかね」
白髪混じりで軽くおばちゃんパーマをかけた民子さんが,にっこりと笑いかける。
「坊ちゃんも,オレンジ召し上がりますか? 」
その,坊ちゃんだけはやめて欲しいけど。
次回 6月1日 水曜日に更新予定です。