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第5話 見殺し

そのまま、二日が過ぎた。

陸からは、翌朝にメッセージが来ていた。

――映像、見ますか。データで送れます。

私は「見ます」と返した。 その日のうちに、データが届いた。私は保存した。保存しただけだった。

陸は、催促をしてこない。

束は、輪ゴムをかけて引き出しに戻した。二枚目から先は、まだ読んでいない。

陸が文字で並べたものは、机の上に置ける。黒いコート。暗い色の肩掛けトート。行きは閉まっていた口。帰りは閉まりきっていない口。そこから出ている白いもの。

二十三時五十一分の退出。

一つずつなら、別々に見ていられる。

再生ボタンを、私はまだ押していない。

その夜、ノートパソコンを開いた。

*

謝れなかった人へ

マンションの防犯映像が残っていた。データは、私の手元にある。まだ、再生していない。

見れば何かが増えるからではない。増えないからだ。あの映像に、顔は映っていない。わかるのは、コートの色と、鞄の口の状態と、時刻だけだ。

紙に書き出せば、それは並んだ事実のままでいられる。 けれど映像では、閉じた鞄で入っていく人影と、白いものをのぞかせて出てくる人影が、同じ人物の動きとしてつながる。

屋上で何をしたかは、映っていない。

それでも、別々に置いていた事実が、一つの出来事に近づいてしまう。

だから今日は、別のことを書く。また逃げているのだと思う。逃げながらでも、書いておきたいことがある。

美月を、私は救えなかった。

亡くなる少し前、美月の電話の声は、少しずつ低くなっていた。よく笑う人だったのに、笑う位置がずれていった。

私は気づいていた。気づいて、聞かなかった。

亡くなる一か月前、彼女は私の部屋で、読んでほしいものがある、と言った。誰にも見せていないものがある、と。私は、落ち着いたらね、と答えた。あの日、私は重版の電話のほうを、必要以上に長く聞いていた。

自分のことで精一杯だった、と書くのは、半分だけ本当だ。本当は、あんなにまぶしかった人が、私と同じ高さまで下りてくるのを、私はどこかで安心して見ていた。

だから私は、美月を救えなかったのではない。救わなかった。

この三年、私はその不作為を「見殺しにした」と呼んできた。 電話の声の変化に気づきながら、聞かなかったこと。読んでほしいと言われながら、先延ばしにしたこと。 「見殺し」の意味を、そこまでに限っていた。

けれど前回、私は、美月が落ちる瞬間を見た、と書いた。 書いたあとで、同じ言葉の重さが変わった。

「見殺しにした」と書けば、私は動かなかった人間の側にいられる。手を下した人間ではないと、自分に言える。

私は、いちばん重い罪を認めているつもりで、自分を傍観者にしておける動詞を選んでいた。

もうひとつ、書かなければならないことがある。

この連載を始めてから、私は美月の書いたものを読み返している。サークルの会報。ノートの余白。人に見せるつもりのなかった走り書き。

読み進めるほど、頁をめくる間が長くなった。

美月の文章の中に、私の文章があった。

順序が逆だ。私の文章の中に、美月があった。

言い回しが重なっていた。比喩が重なっていた。息を継ぐ場所まで、彼女のものだった。

全文を写したわけではない。段落ごと持ってきたわけでもない。 少なくとも、表立って指摘されることはなかった。だから私も、気づかないふりができた。

影響を受けた、と書きたくなる。借りた。似てしまった。移った。親しい人の話し方が移るように、と。そう書けば、私はまだ許される側にいられる。

そして私は今、この程度のことしか書いていない。言い回しをいくつか、という話にしている。

美月が死んだ年の夏に発表した、あの一篇のことは、書いていない。

あれは、いくつか、では済まない。

昨日、母が部屋に来た。

連絡はなかった。合鍵を持っている。何度言っても、母はその鍵を手放さない。

帰ると、電気がついていた。母は玄関で待っていたのではなく、寝室のほうから出てきた。

換気してたのよ、と母は言った。

雨の日だった。窓は、閉まっていた。

母はコートも脱がずに、私の前に立った。

「遥香。もう、書くのをやめなさい」

声は静かだった。有無を言わせない静けさだった。

「美月さんのことは、もう書かないで。あなたが書くことではないでしょう」

なぜ、と私は聞いた。母は答えずに、もう終わったことにしなさい、と言った。

私は、別のことを聞いた。

「三年前のあの夜、私、家にいた?」

母の表情が、一度だけ止まった。ほんの一瞬だった。それから、いつもの顔に戻った。

「何を言ってるの。あなたは、あの夜、家にいたじゃない。ずっと、私と一緒にいたでしょう」

私は、あの夜ずっと家にいたわけではない。 あの夜、あの駅を降りて写真を撮っている。

少なくとも、「ずっと家で母と一緒にいた」という母の言葉と相反する。

母は、嘘をついている。

ここで母のせいにするのは簡単だ。母が私にそう思い込ませた、と書けば、私はまた軽くなる。

そうではない。母は三年前に一つの文章を差し出して、今も同じ形でそれを言う。私は一度も、それを訂正しなかった。訂正しない文章は、長く置けば、事実の顔をする。

嘘をついたのは母だ。使ったのは、私だ。

帰り際、母は私の頬に手を当てた。子どもの頃から、そうしてきたように。

かわいそうな、私の遥香。あなたは、何も悪くない。

その手は、あたたかかった。

(第五回・了)

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