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私の名前を呼んだことがないのに、愛してるなんて言われても困ります

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/10

「こちらは私の妻です。どうぞよしなに」


 公爵クラウス・フォン・ヴェルナーの声は、いつだって完璧だった。

 低く落ち着いて、過不足なく、社交の場にふさわしい温度で。

 ただ一つだけ——。


 名前を、言わない。


 3年前の婚礼の日からずっと。「妻」「奥方」「公爵夫人」。どれも正しい。どれも私だ。でもどれも、私じゃない。


「リーゼル・フォン・シュタールという名前が、この屋敷のどこかに存在しているのかしら」


 社交の場から馬車に揺られて帰る道中、独り言がこぼれた。隣に座る夫は書類に目を落としたまま、聞こえていないふりをした。

 ——あるいは、本当に聞こえていなかったのかもしれない。

 私の声は、この人にはいつだって届かない。



    *



 クラウスは、名前を間違えない人だった。

 領内の村長の名前を覚えている。使用人の子どもの名前を覚えている。先月1度だけ挨拶した隣国の商人の名前まで覚えている。

 なのに。


「奥方、今夜の晩餐のことだが」


 3年間、1日も欠かさず、「奥方」。

 最初の1年は、政略婚だからそういうものだと思った。2年目は、距離を縮めたくないのだと察した。3年目の今は——もう、何も思わなくなった。

 嘘だ。本当は少しだけ、痛い。


「——承知しました。手配しておきます」


 夫の領地経営を支えるのは嫌いではなかった。外交書簡の翻訳、来客の段取り、領民の陳情整理。3年分の仕事は確かにここにある。

 ただ、私自身はどこにもない。


 そんな日常に、小さな棘が刺さったのは春の初めだった。



    *



「クラウス、久しぶり!」


 玄関ホールに響く明るい声。

 伯爵令嬢マルガレーテ・フォン・リントは、クラウスの幼馴染で、この世で最も遠慮のない女性だった。

 金髪を揺らして駆け寄る彼女に、夫は——。


「マルガ。遠路ご苦労だったな」


 ——マルガ。

 愛称で。

 自然に。

 呼吸するように。


「奥方、マルガレーテの部屋の手配を頼めるか」

「……承知しました」


 振り向いた夫の目は穏やかだった。悪意はない。無自覚なのだ。たぶん、それが一番つらい。


 その夜、寝室の扉を閉めてから、3年間で初めて決めた。


 ——もう、いい。


 名前すら呼べない相手と、夫婦を続ける理由がない。



    *



「ハンナ、離縁の手続きについて調べてもらえますか」


 翌朝、侍女のハンナに頼んだら、お茶を盛大にこぼされた。


「お、お、奥様……っ!?」

「驚かせてごめんなさい。でもこれは合理的な判断です」

「合理的って……そういう問題じゃ……!」


 ハンナが慌てて持ってきた離縁関連の法令集は、想像以上に分厚かった。


「……婚姻の解消は、相互の合意、もしくは王家の裁定による。ただし、領地帰属に関する取り決めが存在する場合は、先に財産分与の——」


 3行読んで頭が痛くなった。


「……これ、結婚するより離婚する方が面倒なのでは?」

「だからやめましょうよ!」

「法律が面倒だからやめる、という判断はしません。手続きの煩雑さと婚姻の継続は無関係です」

「そういうところですよ奥様……!」


 ハンナは涙目で法令集を抱きしめていた。この人は本当に、私より私のことで泣いてくれる。


「……ハンナ。ありがとう。でも、決めたの」

「旦那様は——旦那様は、奥様のことを——」

「ええ。『奥方』と呼んでいるわ。3年間ずっと」

「いえ、あの、そうなのですが、そうではなくて……!」


 ハンナが何か言いかけたが、そこにクラウスが通りかかったので、会話は途切れた。


「奥方、午後の来客の件だが」

「——承知しました」


 ハンナが何とも言えない顔で私を見ていた。



    *



 荷造りは静かに始めた。

 3年分の衣装を選り分け、持ち込んだ本を整理し、実家に送る手紙を書いた。

 その途中で、どうしても必要な書類があって、クラウスの書斎に入った。


 引き出しを開けたとき、紙の束が滑り出した。

 拾い上げて、目を疑った。


 ——リーゼル。


 夫の筆跡で、私の名前が書かれていた。

 1枚ではない。何枚も。何十枚も。


『リーゼル、おはよう』

『リーゼル、今日の花は綺麗だったので』

『リーゼル——いや、やはり』

『リーゼル、と。呼ぶ練習を。すれば。いつか』


 最後の1枚は、文字が乱れていた。


『リーゼル、』


 それだけで終わっていた。

 呼びかけだけ。その先がない。何度も書いて、何度も止めて、インクの染みだけが残っている。


「……何をしているのですかこの人は」


 声が震えた。笑ったのか泣いたのか、自分でもわからなかった。


 ——練習しているのだ。この人は。

 3年間、私の名前を呼ぶ練習を。

 それなのに、1度も、声にできずにいたのだ。


 紙束の底に、少し古い便箋があった。日付は2年前。


『彼女の名前を呼んだら、政略の体裁が保てなくなる。それでも——』


 そこでインクが途切れていた。

 「それでも」の先を、この人は2年間書けずにいる。


 便箋を元に戻した。

 手が震えていた。


 ——それでも。

 書いてあるだけでは、足りない。

 どれだけ練習しても、声にならなければ。

 私は「奥方」のまま、この家を出ることになる。



    *



 3日後、マルガレーテとお茶をした。彼女は悪い人ではない。天真爛漫で、裏表がなくて、だからこそ時々残酷だ。


「ねえリーゼル。クラウスのこと、何て呼んでるの?」

「……公爵閣下、と」

「——え?」


 マルガレーテのティーカップが止まった。


「夫婦でそれ!?」

「ええ」

「いやいやいやいや。3年でしょ? 3年間ずっと?」

「はい」

「クラウスの方は?」

「『奥方』です」

「…………」


 マルガレーテが深いため息をついた。


「あのね。クラウスってずっとそうなのよ。大事なものほど距離を取る。子どもの頃からそう。飼い犬にも3ヶ月名前つけなかったし」

「私は犬と同じ扱いということですか」

「違う、そうじゃなくて……いや、原理は一緒かも。ごめん」


 少しだけ笑った。3年ぶりに、こんなくだらないことで笑った気がする。


「マルガレーテ。一つだけ聞いてもいい?」

「なに?」

「あの人は、私の名前を知っているの?」


 マルガレーテが目を丸くした。


「——知ってるに決まってるでしょう。あの男がどれだけ……」


 言いかけて、口をつぐんだ。


「……ごめん。これは本人が言うべきことだわ」



    *



 荷造りを続けた。

 メモを見てしまった今でも、私の答えは変わらなかった。

 書いてあるだけでは足りない。声にしてくれなければ。


「奥様……まだ、続けるのですか」

「ええ」

「あの、旦那様は奥様のことを——」

「知っています。『妻』でしょう?」

「いえ、あの、そうなのですが、そうではなくて……!」


 ハンナが両手を握りしめていた。彼女はたぶん、何かを知っている。でも主人の秘密を侍女が明かすわけにはいかないのだろう。


「大丈夫よ、ハンナ。あなたのせいじゃない」

「……奥様のせいでもありません」


 それは、そうかもしれない。


 その夜、眠れなくて庭に出た。

 月が明るかった。薔薇園のベンチに座ろうとしたら、先客がいた。


 ——クラウスだった。


 月明かりに照らされた横顔は、いつもの完璧な公爵ではなかった。少し疲れていて、少し寂しそうで。


「……お隣、よろしいですか」

「——どうぞ」


 名前は出なかった。

 でも、少しだけ席を詰めてくれた。


「……月が綺麗ですね」

「ああ」


 会話はそれだけだった。

 それだけで、隣にいた。

 名前もなく、役割もなく、ただ2人で月を見ていた。


 ——こういう時間があるから、諦められない。

 諦められないから、つらいのだ。


 翌朝、朝食の席で。


「奥方、今日の予定だが」


 何も変わっていなかった。



    *



 マルガレーテの送別茶会が開かれた日のことだ。

 私は裏方で段取りを整え、いつも通り隅に立っていた。


 マルガレーテの友人の令嬢たちが、華やかに笑っている。その輪の中で、誰かが言った。


「ヴェルナー公爵の奥様って、いつもいらっしゃるの? 存在感がなくて気づかなかったわ」


 笑い声。悪意というより、事実の確認。


「ええ、よく言われます」


 私が答えると、場が少し静まった。


「名前すら呼ばれませんので。気づかれないのも仕方ありません」


 氷が落ちたような沈黙。

 マルガレーテが顔色を変えた。令嬢たちが目を逸らした。


 ——言うつもりはなかった。でも、もう隠す理由もなかった。


 その沈黙を、扉の音が破った。


「——マルガレーテ」


 クラウスだった。

 彼の目は、穏やかではなかった。


「今、何と言った」


 マルガレーテではない。発言したのは別の令嬢だ。でも、クラウスの目はマルガレーテに向いている。


「クラウス、私じゃ——」

「お前がいる場で、彼女のことを笑わせたな」

「笑わせてない! っていうか、名前呼ばないのはそっちじゃない!!」


 マルガレーテが叫んだ。

 クラウスが固まった。


「……それと、これとは、話が違う」

「違わないと思う! 3年間『奥方』って呼んでおいて、他人に名前の話されたら怒るの、矛盾でしょ!!」


 令嬢たちが目を白黒させている。私も目を白黒させていた。

 マルガレーテは正しい。完全に正しい。


「——全員、席を外してくれ」


 クラウスの声は静かだったが、有無を言わせなかった。

 令嬢たちが速やかに退室した。マルガレーテがハンナに引っ張られながら「がんばれクラウス!」と叫んでいた。ハンナが泣いていた。何の涙かは不明だった。


 2人きりになった。


 クラウスは、私の前に立ったまま、しばらく動かなかった。


「……3年間」


 声が低い。いつもの公爵の声ではなかった。


「3年間、呼べなかった」

「——知っています。書斎のメモを見ました」


 クラウスの顔から血の気が引いた。


「……見たのか」

「ええ。『リーゼル、おはよう』から始まって、50枚ほど」

「…………」

「最後のメモには、『彼女の名前を呼んだら、政略の体裁が保てなくなる。それでも——』と書いてありました。2年前の日付で」


 クラウスが目を閉じた。


「——その先を、聞いてくれるか」


「……どうぞ」


「名前を呼んだら、もう……ただの政略婚だと、自分に言い聞かせられなくなる」


 目を開けた。まっすぐに、私を見た。


「お前が望んでこの婚姻を選んだわけではない。それなのに俺が名前を呼んで、距離を詰めて——その権利が、俺にあるのかと。ずっと」


 不器用だ。呆れるほど。

 3年間、名前を呼べなかった理由が、「権利がないと思ったから」。


「旦那様」

「……」

「私が何も感じていないと思っていたのですか」

「……いや」

「3年間、あなたの隣にいたのは、政略だったからだと?」

「……そうでは」

「では、なぜ私が荷造りをしているのか、わかりますか」


 クラウスの目が揺れた。


「——名前を呼んでもらえない場所に、いつまでもいられないからです」


 その言葉に、クラウスの唇がわずかに震えた。


 長い沈黙。


 そして——。



「——リーゼル」



 3年分の沈黙が、たった4文字で壊れた。


 低く、かすれて、不器用で。

 練習したはずなのに、声が震えていた。


「リーゼル」


 2度目は、少しだけ澄んでいた。


「お前の名前を呼ぶ権利がないと、ずっと思っていた。だが——荷造りの話を聞いて、初めてわかった。権利の問題じゃない。呼ばないことが、お前を傷つけていた」


「……3年かかりましたね」


「ああ。遅い男で、すまない」


「謝らないでください。——もう1度、呼んでもらえますか」


「リーゼル」


 3度目は、静かで、あたたかかった。

 涙が頬を伝った。拭わなかった。3年分だから、少しくらい流してもいい。


「……私も、お呼びしてよろしいですか」


「……ああ」


「——クラウス」


 彼の耳が赤くなった。完璧な公爵の顔が、一瞬だけ崩れた。


 隣の部屋から、ハンナのすすり泣きとマルガレーテの拍手が聞こえた。盗み聞きしている。



    *



 翌朝。


 朝食の席で、クラウスが少し咳払いをした。


「——おはよう、リーゼル」


 昨夜より、少しだけ自然だった。


「おはようございます、クラウス」


 ハンナがお茶を注ぎながら静かに泣いていた。もう泣かなくていいのに。


 その日の晩餐会で、来客に紹介する場面が来た。


 クラウスが口を開いた。

 いつもの「こちらは私の妻です」が来ると思った。


「——ご紹介します」


 一呼吸。


「私の妻、リーゼルです」


 その声が少し震えていたことに気づいたのは、たぶん、私だけだった。

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