私の名前を呼んだことがないのに、愛してるなんて言われても困ります
「こちらは私の妻です。どうぞよしなに」
公爵クラウス・フォン・ヴェルナーの声は、いつだって完璧だった。
低く落ち着いて、過不足なく、社交の場にふさわしい温度で。
ただ一つだけ——。
名前を、言わない。
3年前の婚礼の日からずっと。「妻」「奥方」「公爵夫人」。どれも正しい。どれも私だ。でもどれも、私じゃない。
「リーゼル・フォン・シュタールという名前が、この屋敷のどこかに存在しているのかしら」
社交の場から馬車に揺られて帰る道中、独り言がこぼれた。隣に座る夫は書類に目を落としたまま、聞こえていないふりをした。
——あるいは、本当に聞こえていなかったのかもしれない。
私の声は、この人にはいつだって届かない。
*
クラウスは、名前を間違えない人だった。
領内の村長の名前を覚えている。使用人の子どもの名前を覚えている。先月1度だけ挨拶した隣国の商人の名前まで覚えている。
なのに。
「奥方、今夜の晩餐のことだが」
3年間、1日も欠かさず、「奥方」。
最初の1年は、政略婚だからそういうものだと思った。2年目は、距離を縮めたくないのだと察した。3年目の今は——もう、何も思わなくなった。
嘘だ。本当は少しだけ、痛い。
「——承知しました。手配しておきます」
夫の領地経営を支えるのは嫌いではなかった。外交書簡の翻訳、来客の段取り、領民の陳情整理。3年分の仕事は確かにここにある。
ただ、私自身はどこにもない。
そんな日常に、小さな棘が刺さったのは春の初めだった。
*
「クラウス、久しぶり!」
玄関ホールに響く明るい声。
伯爵令嬢マルガレーテ・フォン・リントは、クラウスの幼馴染で、この世で最も遠慮のない女性だった。
金髪を揺らして駆け寄る彼女に、夫は——。
「マルガ。遠路ご苦労だったな」
——マルガ。
愛称で。
自然に。
呼吸するように。
「奥方、マルガレーテの部屋の手配を頼めるか」
「……承知しました」
振り向いた夫の目は穏やかだった。悪意はない。無自覚なのだ。たぶん、それが一番つらい。
その夜、寝室の扉を閉めてから、3年間で初めて決めた。
——もう、いい。
名前すら呼べない相手と、夫婦を続ける理由がない。
*
「ハンナ、離縁の手続きについて調べてもらえますか」
翌朝、侍女のハンナに頼んだら、お茶を盛大にこぼされた。
「お、お、奥様……っ!?」
「驚かせてごめんなさい。でもこれは合理的な判断です」
「合理的って……そういう問題じゃ……!」
ハンナが慌てて持ってきた離縁関連の法令集は、想像以上に分厚かった。
「……婚姻の解消は、相互の合意、もしくは王家の裁定による。ただし、領地帰属に関する取り決めが存在する場合は、先に財産分与の——」
3行読んで頭が痛くなった。
「……これ、結婚するより離婚する方が面倒なのでは?」
「だからやめましょうよ!」
「法律が面倒だからやめる、という判断はしません。手続きの煩雑さと婚姻の継続は無関係です」
「そういうところですよ奥様……!」
ハンナは涙目で法令集を抱きしめていた。この人は本当に、私より私のことで泣いてくれる。
「……ハンナ。ありがとう。でも、決めたの」
「旦那様は——旦那様は、奥様のことを——」
「ええ。『奥方』と呼んでいるわ。3年間ずっと」
「いえ、あの、そうなのですが、そうではなくて……!」
ハンナが何か言いかけたが、そこにクラウスが通りかかったので、会話は途切れた。
「奥方、午後の来客の件だが」
「——承知しました」
ハンナが何とも言えない顔で私を見ていた。
*
荷造りは静かに始めた。
3年分の衣装を選り分け、持ち込んだ本を整理し、実家に送る手紙を書いた。
その途中で、どうしても必要な書類があって、クラウスの書斎に入った。
引き出しを開けたとき、紙の束が滑り出した。
拾い上げて、目を疑った。
——リーゼル。
夫の筆跡で、私の名前が書かれていた。
1枚ではない。何枚も。何十枚も。
『リーゼル、おはよう』
『リーゼル、今日の花は綺麗だったので』
『リーゼル——いや、やはり』
『リーゼル、と。呼ぶ練習を。すれば。いつか』
最後の1枚は、文字が乱れていた。
『リーゼル、』
それだけで終わっていた。
呼びかけだけ。その先がない。何度も書いて、何度も止めて、インクの染みだけが残っている。
「……何をしているのですかこの人は」
声が震えた。笑ったのか泣いたのか、自分でもわからなかった。
——練習しているのだ。この人は。
3年間、私の名前を呼ぶ練習を。
それなのに、1度も、声にできずにいたのだ。
紙束の底に、少し古い便箋があった。日付は2年前。
『彼女の名前を呼んだら、政略の体裁が保てなくなる。それでも——』
そこでインクが途切れていた。
「それでも」の先を、この人は2年間書けずにいる。
便箋を元に戻した。
手が震えていた。
——それでも。
書いてあるだけでは、足りない。
どれだけ練習しても、声にならなければ。
私は「奥方」のまま、この家を出ることになる。
*
3日後、マルガレーテとお茶をした。彼女は悪い人ではない。天真爛漫で、裏表がなくて、だからこそ時々残酷だ。
「ねえリーゼル。クラウスのこと、何て呼んでるの?」
「……公爵閣下、と」
「——え?」
マルガレーテのティーカップが止まった。
「夫婦でそれ!?」
「ええ」
「いやいやいやいや。3年でしょ? 3年間ずっと?」
「はい」
「クラウスの方は?」
「『奥方』です」
「…………」
マルガレーテが深いため息をついた。
「あのね。クラウスってずっとそうなのよ。大事なものほど距離を取る。子どもの頃からそう。飼い犬にも3ヶ月名前つけなかったし」
「私は犬と同じ扱いということですか」
「違う、そうじゃなくて……いや、原理は一緒かも。ごめん」
少しだけ笑った。3年ぶりに、こんなくだらないことで笑った気がする。
「マルガレーテ。一つだけ聞いてもいい?」
「なに?」
「あの人は、私の名前を知っているの?」
マルガレーテが目を丸くした。
「——知ってるに決まってるでしょう。あの男がどれだけ……」
言いかけて、口をつぐんだ。
「……ごめん。これは本人が言うべきことだわ」
*
荷造りを続けた。
メモを見てしまった今でも、私の答えは変わらなかった。
書いてあるだけでは足りない。声にしてくれなければ。
「奥様……まだ、続けるのですか」
「ええ」
「あの、旦那様は奥様のことを——」
「知っています。『妻』でしょう?」
「いえ、あの、そうなのですが、そうではなくて……!」
ハンナが両手を握りしめていた。彼女はたぶん、何かを知っている。でも主人の秘密を侍女が明かすわけにはいかないのだろう。
「大丈夫よ、ハンナ。あなたのせいじゃない」
「……奥様のせいでもありません」
それは、そうかもしれない。
その夜、眠れなくて庭に出た。
月が明るかった。薔薇園のベンチに座ろうとしたら、先客がいた。
——クラウスだった。
月明かりに照らされた横顔は、いつもの完璧な公爵ではなかった。少し疲れていて、少し寂しそうで。
「……お隣、よろしいですか」
「——どうぞ」
名前は出なかった。
でも、少しだけ席を詰めてくれた。
「……月が綺麗ですね」
「ああ」
会話はそれだけだった。
それだけで、隣にいた。
名前もなく、役割もなく、ただ2人で月を見ていた。
——こういう時間があるから、諦められない。
諦められないから、つらいのだ。
翌朝、朝食の席で。
「奥方、今日の予定だが」
何も変わっていなかった。
*
マルガレーテの送別茶会が開かれた日のことだ。
私は裏方で段取りを整え、いつも通り隅に立っていた。
マルガレーテの友人の令嬢たちが、華やかに笑っている。その輪の中で、誰かが言った。
「ヴェルナー公爵の奥様って、いつもいらっしゃるの? 存在感がなくて気づかなかったわ」
笑い声。悪意というより、事実の確認。
「ええ、よく言われます」
私が答えると、場が少し静まった。
「名前すら呼ばれませんので。気づかれないのも仕方ありません」
氷が落ちたような沈黙。
マルガレーテが顔色を変えた。令嬢たちが目を逸らした。
——言うつもりはなかった。でも、もう隠す理由もなかった。
その沈黙を、扉の音が破った。
「——マルガレーテ」
クラウスだった。
彼の目は、穏やかではなかった。
「今、何と言った」
マルガレーテではない。発言したのは別の令嬢だ。でも、クラウスの目はマルガレーテに向いている。
「クラウス、私じゃ——」
「お前がいる場で、彼女のことを笑わせたな」
「笑わせてない! っていうか、名前呼ばないのはそっちじゃない!!」
マルガレーテが叫んだ。
クラウスが固まった。
「……それと、これとは、話が違う」
「違わないと思う! 3年間『奥方』って呼んでおいて、他人に名前の話されたら怒るの、矛盾でしょ!!」
令嬢たちが目を白黒させている。私も目を白黒させていた。
マルガレーテは正しい。完全に正しい。
「——全員、席を外してくれ」
クラウスの声は静かだったが、有無を言わせなかった。
令嬢たちが速やかに退室した。マルガレーテがハンナに引っ張られながら「がんばれクラウス!」と叫んでいた。ハンナが泣いていた。何の涙かは不明だった。
2人きりになった。
クラウスは、私の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……3年間」
声が低い。いつもの公爵の声ではなかった。
「3年間、呼べなかった」
「——知っています。書斎のメモを見ました」
クラウスの顔から血の気が引いた。
「……見たのか」
「ええ。『リーゼル、おはよう』から始まって、50枚ほど」
「…………」
「最後のメモには、『彼女の名前を呼んだら、政略の体裁が保てなくなる。それでも——』と書いてありました。2年前の日付で」
クラウスが目を閉じた。
「——その先を、聞いてくれるか」
「……どうぞ」
「名前を呼んだら、もう……ただの政略婚だと、自分に言い聞かせられなくなる」
目を開けた。まっすぐに、私を見た。
「お前が望んでこの婚姻を選んだわけではない。それなのに俺が名前を呼んで、距離を詰めて——その権利が、俺にあるのかと。ずっと」
不器用だ。呆れるほど。
3年間、名前を呼べなかった理由が、「権利がないと思ったから」。
「旦那様」
「……」
「私が何も感じていないと思っていたのですか」
「……いや」
「3年間、あなたの隣にいたのは、政略だったからだと?」
「……そうでは」
「では、なぜ私が荷造りをしているのか、わかりますか」
クラウスの目が揺れた。
「——名前を呼んでもらえない場所に、いつまでもいられないからです」
その言葉に、クラウスの唇がわずかに震えた。
長い沈黙。
そして——。
「——リーゼル」
3年分の沈黙が、たった4文字で壊れた。
低く、かすれて、不器用で。
練習したはずなのに、声が震えていた。
「リーゼル」
2度目は、少しだけ澄んでいた。
「お前の名前を呼ぶ権利がないと、ずっと思っていた。だが——荷造りの話を聞いて、初めてわかった。権利の問題じゃない。呼ばないことが、お前を傷つけていた」
「……3年かかりましたね」
「ああ。遅い男で、すまない」
「謝らないでください。——もう1度、呼んでもらえますか」
「リーゼル」
3度目は、静かで、あたたかかった。
涙が頬を伝った。拭わなかった。3年分だから、少しくらい流してもいい。
「……私も、お呼びしてよろしいですか」
「……ああ」
「——クラウス」
彼の耳が赤くなった。完璧な公爵の顔が、一瞬だけ崩れた。
隣の部屋から、ハンナのすすり泣きとマルガレーテの拍手が聞こえた。盗み聞きしている。
*
翌朝。
朝食の席で、クラウスが少し咳払いをした。
「——おはよう、リーゼル」
昨夜より、少しだけ自然だった。
「おはようございます、クラウス」
ハンナがお茶を注ぎながら静かに泣いていた。もう泣かなくていいのに。
その日の晩餐会で、来客に紹介する場面が来た。
クラウスが口を開いた。
いつもの「こちらは私の妻です」が来ると思った。
「——ご紹介します」
一呼吸。
「私の妻、リーゼルです」
その声が少し震えていたことに気づいたのは、たぶん、私だけだった。
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