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恋を質に入れた日

作者: 三角
掲載日:2026/02/27

 路地裏の湿った空気が、地下へ続く階段に溜まっている。

 看板はない。ただ、鉄の扉に「質」と書かれた小さな紙が貼られているだけだ。


 俺はコートのポケットの中で、拳を握ったり開いたりした。手汗がじわりと滲む。

 扉を開けると、線香と古本が混ざったような匂いが鼻をついた。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から、声がした。

 白髪を無造作に束ねた老婆が、虫眼鏡片手に座っている。ショーケースには時計や指輪ではなく、色とりどりの小瓶が並んでいた。

 青白く光るもの、どす黒く濁ったもの。それらはすべて、誰かが置いていった「記憶」だ。


「査定をお願いしたいんです」


 俺はカウンターの椅子に座り、震える声で言った。

 老婆は顔を上げず、「何を売るんだい」と問う。


「……一番、価値のあるものを」


 俺は喉の渇きを覚えながら続けた。


「彼女と出会った日のこと。それから、彼女を世界で一番愛しいと思った瞬間の感情……いくらになりますか」


 老婆の手が止まった。

 ゆっくりと顔を上げ、俺の目を見る。その瞳は色素が薄く、俺の顔をはっきりと映し出す。心底まで見透かされている気分だ。


「一番の幸せを売るのかい」

「金が必要なんです。彼女の手術費が、どうしても足りない」


 借金をし、親族に頭も下げ、それでも足りない。それならばもう、自身を切り売りするしかない。

 老婆はふん、と鼻を鳴らし、細い指を俺の額へ伸ばした。

 ひやりとした感触。

 次の瞬間、額の奥から熱い塊が引きずり出されるような感覚に襲われた。


「ふむ」


 老婆の手には、琥珀色に輝く宝石のような光の粒があった。

 薄暗い店内で、それはあまりに美しく、温かい脈動を放っている。


「極上だね。純度が高い。これなら、あんたの望む額になるよ」

「……そうですか」


 安堵と共に、強烈な喪失感が胸に満ちる。


「ただし」


 老婆が釘を刺すように言った。


「いいかい。これを置いていけば、あんたの中から『愛の根拠』が消える。彼女を大切だと思う義務感は残るがね。胸を焦がすような熱は、もう脱け出てしまったんだ」


 俺はアイの顔を思い浮かべた。

 病院のベッドで、点滴に繋がれた細い腕。


「構いません……彼女が生きてさえいれば、それでいい」


 老婆はニヤリと笑い、琥珀色の光を小瓶に封じ込めた。

 チャリ、と音がして、俺の胸の中にあった温かい場所が、ぽっかりと空洞になった。



 半年が過ぎた。


 街路樹が色づき始め、乾いた風が吹く公園のベンチ。

 隣にはアイがいる。

 手術は成功し、彼女の頬には血色が戻っていた。


「ハルト、見て。空が高いね」


 アイが指差す先には、突き抜けるような青空が広がっている。

 彼女の横顔は綺麗だと思った。

 だが、それだけだ。

 かつて感じていたはずの、胸の奥がキュッとなるような痛みも、触れたいという衝動も、ここにはない。


「……そうだな。ずいぶん涼しくなった」


 俺は努めて明るい声を出し、彼女の肩に手を回そうとした。

 けれど、腕が重い。

 彼女の肌に触れる直前、脳裏に別の映像がノイズのように走った。


 「ごめんね、ごめんね」と泣きながら謝る、やつれ果てたアイの顔。

 融資を断られ続け、ストレスからひどい胃痛に苦しんだ夜。


 質屋で高く売れたのは「美しい記憶」だけだった。

 手元に残ったのは、看病の疲労、金策の焦燥、先の見えない不安といった「嫌な記憶」ばかり。

 今の俺を構成しているのは、アイへの愛しさではなく、アイによってもたらされた苦労の山だった。


「……ハルト?」


 アイが不安げに俺を見上げる。

 その瞳が揺れている。

 彼女は敏感だ。俺の中にある空虚さを、とっくに感じ取っているのかもしれない。

 『私が病気だったせいで、ハルトは疲れてしまったんだ』

 そんなふうに思わせている自分が、どうしようもなく情けなかった。


「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだ」


 嘘をつくたびに、心の中の空洞が暗く濁っていく。

 俺はもう、彼女を愛していないのだろうか。


「そろそろ帰ろうか。風が出てきた」


 俺は逃げるように立ち上がった。

 アイは寂しそうに微笑み、「そうだね」と短く答えた。


 帰り道、空が急に暗くなり、大粒の雨がアスファルトを叩き始めた。

 俺たちは駅の軒下へ駆け込んだ。


 湿った冷気が流れ込み、埃っぽい匂いが立ち込める。

 その時だった。


「けほっ……」


 アイが胸を押さえ、苦しげに咳き込んだ。

 気管支が弱い彼女にとって、急激な気圧の変化と冷気は毒だ。

 ヒュー、ヒュー、と喉の奥から嫌な音が鳴る。

 顔色が瞬く間に白くなり、彼女の膝ががくりと折れた。


「――ッ」


 大丈夫か、と声をかける余裕さえなかった。

 俺の頭が状況を理解するより早く、身体が弾かれたように動いていた。


 俺は膝をつき、倒れ込む彼女の身体を支える。


「息を吐いて。吸おうとしなくていい、まずは吐き切って」


 左手で鞄を探り、ペットボトルの水を取り出す。キャップを開け、一口だけ口に含ませる。

 冷たすぎないか、指先で温度を確認する癖がついている。


「大丈夫だ、焦るな。俺がいる」


 背中をさする手のひらから、アイの鼓動が伝わってくる。

 早鐘のような心音。震える肩の薄さ。

 それが、俺の掌に痛いほど馴染んでいた。


 何百回と繰り返した夜があった。

 発作に怯える彼女を抱きしめ、朝が来るのを待ち続けた時間。

 眠気と戦いながら背中をさすり続けた日々。


 ああ、そうか。

 俺は気づいた。

 ときめきは消えた。高揚感もなくなってしまった。

 けれど、俺の身体には染み付いている。

 彼女の痛みを自分の痛みのように感じ、彼女が苦しければ反射的に手が動く。

 それこそが、俺たちを繋ぎ止める最も強固な繋がりだったのだ。


「……はあ、っ……ふぅ……」


 アイの呼吸が次第に整っていく。

 青白かった頬に、少しずつ赤みが差してきた。

 彼女は俺の腕の中で、涙目のまま小さく笑った。


「ありがとう」


 俺は彼女の背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。


「気にするな。俺は、そのためにここにいるんだ」


 そう答えると、胸の空洞に、じんわりと熱いものが満ちていくのを感じた。

 それはかつての恋心とは違う。もっと静かで、揺るぎない何かだった。


 雨は通り雨だったようだ。

 雲の切れ間から差した夕日が、濡れた路面を照らしている。


 俺たちは肩を並べて歩き出した。

 いつもの帰り道だが、少し遠回りをすることにした。

 あの路地裏の前を通るルートだ。


 質屋のショーケースが、夕日を反射して光っている。

 ガラスの向こうに、琥珀色の小瓶が見えた。

 あれは俺の初恋だ。

 甘くて、切なくて、美しい、俺とアイの始まりの感情。


「ハルト?」


 俺はショーケースから視線を外し、彼女に向き直った。

 そして、そっと彼女の手を取った。


「アイ」

「なに?」

「最寄り駅の近くに、新しいクレープの店ができたんだ。今度行ってみないか」


 俺はショーケースには背を向けた。

 過去の輝きに頼る必要はない。

 俺の手には今、確かな感触がある。


「……うん。行きたい」


 アイが握り返してくる力は、雨の前よりも少しだけ強かった。

 俺たちは歩き出す。

 二度目の初恋は、ここから始まるのだ。

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