恋を質に入れた日
路地裏の湿った空気が、地下へ続く階段に溜まっている。
看板はない。ただ、鉄の扉に「質」と書かれた小さな紙が貼られているだけだ。
俺はコートのポケットの中で、拳を握ったり開いたりした。手汗がじわりと滲む。
扉を開けると、線香と古本が混ざったような匂いが鼻をついた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、声がした。
白髪を無造作に束ねた老婆が、虫眼鏡片手に座っている。ショーケースには時計や指輪ではなく、色とりどりの小瓶が並んでいた。
青白く光るもの、どす黒く濁ったもの。それらはすべて、誰かが置いていった「記憶」だ。
「査定をお願いしたいんです」
俺はカウンターの椅子に座り、震える声で言った。
老婆は顔を上げず、「何を売るんだい」と問う。
「……一番、価値のあるものを」
俺は喉の渇きを覚えながら続けた。
「彼女と出会った日のこと。それから、彼女を世界で一番愛しいと思った瞬間の感情……いくらになりますか」
老婆の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、俺の目を見る。その瞳は色素が薄く、俺の顔をはっきりと映し出す。心底まで見透かされている気分だ。
「一番の幸せを売るのかい」
「金が必要なんです。彼女の手術費が、どうしても足りない」
借金をし、親族に頭も下げ、それでも足りない。それならばもう、自身を切り売りするしかない。
老婆はふん、と鼻を鳴らし、細い指を俺の額へ伸ばした。
ひやりとした感触。
次の瞬間、額の奥から熱い塊が引きずり出されるような感覚に襲われた。
「ふむ」
老婆の手には、琥珀色に輝く宝石のような光の粒があった。
薄暗い店内で、それはあまりに美しく、温かい脈動を放っている。
「極上だね。純度が高い。これなら、あんたの望む額になるよ」
「……そうですか」
安堵と共に、強烈な喪失感が胸に満ちる。
「ただし」
老婆が釘を刺すように言った。
「いいかい。これを置いていけば、あんたの中から『愛の根拠』が消える。彼女を大切だと思う義務感は残るがね。胸を焦がすような熱は、もう脱け出てしまったんだ」
俺はアイの顔を思い浮かべた。
病院のベッドで、点滴に繋がれた細い腕。
「構いません……彼女が生きてさえいれば、それでいい」
老婆はニヤリと笑い、琥珀色の光を小瓶に封じ込めた。
チャリ、と音がして、俺の胸の中にあった温かい場所が、ぽっかりと空洞になった。
半年が過ぎた。
街路樹が色づき始め、乾いた風が吹く公園のベンチ。
隣にはアイがいる。
手術は成功し、彼女の頬には血色が戻っていた。
「ハルト、見て。空が高いね」
アイが指差す先には、突き抜けるような青空が広がっている。
彼女の横顔は綺麗だと思った。
だが、それだけだ。
かつて感じていたはずの、胸の奥がキュッとなるような痛みも、触れたいという衝動も、ここにはない。
「……そうだな。ずいぶん涼しくなった」
俺は努めて明るい声を出し、彼女の肩に手を回そうとした。
けれど、腕が重い。
彼女の肌に触れる直前、脳裏に別の映像がノイズのように走った。
「ごめんね、ごめんね」と泣きながら謝る、やつれ果てたアイの顔。
融資を断られ続け、ストレスからひどい胃痛に苦しんだ夜。
質屋で高く売れたのは「美しい記憶」だけだった。
手元に残ったのは、看病の疲労、金策の焦燥、先の見えない不安といった「嫌な記憶」ばかり。
今の俺を構成しているのは、アイへの愛しさではなく、アイによってもたらされた苦労の山だった。
「……ハルト?」
アイが不安げに俺を見上げる。
その瞳が揺れている。
彼女は敏感だ。俺の中にある空虚さを、とっくに感じ取っているのかもしれない。
『私が病気だったせいで、ハルトは疲れてしまったんだ』
そんなふうに思わせている自分が、どうしようもなく情けなかった。
「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだ」
嘘をつくたびに、心の中の空洞が暗く濁っていく。
俺はもう、彼女を愛していないのだろうか。
「そろそろ帰ろうか。風が出てきた」
俺は逃げるように立ち上がった。
アイは寂しそうに微笑み、「そうだね」と短く答えた。
帰り道、空が急に暗くなり、大粒の雨がアスファルトを叩き始めた。
俺たちは駅の軒下へ駆け込んだ。
湿った冷気が流れ込み、埃っぽい匂いが立ち込める。
その時だった。
「けほっ……」
アイが胸を押さえ、苦しげに咳き込んだ。
気管支が弱い彼女にとって、急激な気圧の変化と冷気は毒だ。
ヒュー、ヒュー、と喉の奥から嫌な音が鳴る。
顔色が瞬く間に白くなり、彼女の膝ががくりと折れた。
「――ッ」
大丈夫か、と声をかける余裕さえなかった。
俺の頭が状況を理解するより早く、身体が弾かれたように動いていた。
俺は膝をつき、倒れ込む彼女の身体を支える。
「息を吐いて。吸おうとしなくていい、まずは吐き切って」
左手で鞄を探り、ペットボトルの水を取り出す。キャップを開け、一口だけ口に含ませる。
冷たすぎないか、指先で温度を確認する癖がついている。
「大丈夫だ、焦るな。俺がいる」
背中をさする手のひらから、アイの鼓動が伝わってくる。
早鐘のような心音。震える肩の薄さ。
それが、俺の掌に痛いほど馴染んでいた。
何百回と繰り返した夜があった。
発作に怯える彼女を抱きしめ、朝が来るのを待ち続けた時間。
眠気と戦いながら背中をさすり続けた日々。
ああ、そうか。
俺は気づいた。
ときめきは消えた。高揚感もなくなってしまった。
けれど、俺の身体には染み付いている。
彼女の痛みを自分の痛みのように感じ、彼女が苦しければ反射的に手が動く。
それこそが、俺たちを繋ぎ止める最も強固な繋がりだったのだ。
「……はあ、っ……ふぅ……」
アイの呼吸が次第に整っていく。
青白かった頬に、少しずつ赤みが差してきた。
彼女は俺の腕の中で、涙目のまま小さく笑った。
「ありがとう」
俺は彼女の背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
「気にするな。俺は、そのためにここにいるんだ」
そう答えると、胸の空洞に、じんわりと熱いものが満ちていくのを感じた。
それはかつての恋心とは違う。もっと静かで、揺るぎない何かだった。
雨は通り雨だったようだ。
雲の切れ間から差した夕日が、濡れた路面を照らしている。
俺たちは肩を並べて歩き出した。
いつもの帰り道だが、少し遠回りをすることにした。
あの路地裏の前を通るルートだ。
質屋のショーケースが、夕日を反射して光っている。
ガラスの向こうに、琥珀色の小瓶が見えた。
あれは俺の初恋だ。
甘くて、切なくて、美しい、俺とアイの始まりの感情。
「ハルト?」
俺はショーケースから視線を外し、彼女に向き直った。
そして、そっと彼女の手を取った。
「アイ」
「なに?」
「最寄り駅の近くに、新しいクレープの店ができたんだ。今度行ってみないか」
俺はショーケースには背を向けた。
過去の輝きに頼る必要はない。
俺の手には今、確かな感触がある。
「……うん。行きたい」
アイが握り返してくる力は、雨の前よりも少しだけ強かった。
俺たちは歩き出す。
二度目の初恋は、ここから始まるのだ。




