第五章 事の次第
「清一郎様がお亡くなりになった日は、姉が危篤の電報が届いたものですから、お暇をいただいて郷里に帰っておりました。六月に入ってから清一郎様の容態は悪くなる一方で、お医者様も手の施しようがなく、往診の帰り際にはいつも渋いお顔をなさるばかりでした。
「私が留守にする間、清一郎様のお世話は妹の佐緒里様が引き受けてくださいました。
幼い頃からたいへん仲のよろしいご兄妹で、清一郎様は六つ下の佐緒里様をたいそうかわいがっておいででした。奥様は佐緒里様が一歳の頃にお亡くなりになり、旦那様はもっぱら妾宅に入りびたりで、お屋敷にはほとんどお帰りになりませんので、清一郎様は幼い妹を不憫に思っていらしたのでしょう。
病人の世話といっても、日に三度、お食事と水差しを離れの廊下に置いてくるだけで、使用人も労咳をおそれて、めったに離れに近づこうとはしませんでした。
「ご存じかも知れませんが、清一郎様には蔦子様という許嫁がいらっしゃいましてね。旦那様と古くから付き合いのある生糸商のご息女で、清一郎様の四つ下でしたかしら。清一郎様が大学を卒業されたら結婚すると両家で取り決めておられたんですけれどね。清一郎様がお元気だった頃、学校がお休みの日には蔦子様と、佐緒里様もお連れになって、カフェーや観劇にお出かけされていたものでした。人見知りの佐緒里様も、蔦子様にはなついておいででしたが、清一郎様がこんなことになってしまわれたので、縁談は破談になりました。
「清一郎様が肺病に罹り、下宿からお屋敷に戻ってこられたのは、大学の三年生に進級してひと月と経たない頃でした。跡継ぎとして大きな期待をかけていたご長男の清一郎様が、肺病を患い大学を休学してお屋敷に帰ってきたことに、旦那様はたいそう気落ちされていました。肺病に罹患した者が全快することなど、ございませんでしょう?ご家族や使用人に伝染らぬよう、清一郎様は北側の離れで療養されることになりました。離れは母屋と廊下で繋がっておりますが、長い間使われておりませんでしたので、清一郎様が戻られる前に、女中と手分けして離れを片付けました。
「清一郎様が離れで療養をされるようになって、ひと月ばかりたった頃でしょうか。晩に食事を離れに運んだ時に、佐緒里様が障子ごしに清一郎様とお話しされているのを見たのです。その時は、佐緒里様に病が伝染ったら大変なことになると思い、すぐお部屋へ戻るよう、きつく言ったのです。佐緒里様は淋しそうなお顔をされましたが、黙って母屋に戻られました。障子の向こうから、清一郎様が佐緒里を叱らないでやってくれ、と細い声でおっしゃるのが聞こえました。お二人ともかわいそうでなりませんでした。どうも佐緒里様はたびたび女中の目を盗んでは離れを訪ねていたようです。さすがにお部屋にお入りになることはなかったと思います。
「不謹慎なことでございましょうが、佐緒里様は清一郎様がお屋敷に戻られると知った時、少し喜んでおられました。旦那様はほとんどお帰りになりませんし、お母様もお亡くなりになっていて、おひとりでお屋敷ですごされるのがお淋しかったのかもしれません。ただ、清一郎様がたいそうお痩せになって、青白くやつれたお顔でお屋敷に戻られた時は、随分と驚いたご様子でした。清一郎様のお加減が日に日に悪くなっていくのに心を痛めておいでで、だんだんと佐緒里様の食も細くなり、痩せていかれました。
「私は朝昼夕と食事を離れに運んでおりましたが、先月の二十日頃から食事に手をつけずに廊下に置いたままになっていることが増えておりました。障子越しに清一郎様にお声がけしても、ひどく咳き込んでおられて、何度か喀血もされたので、その度にお医者様をお呼びしました。最後にお呼びした往診の帰り、お医者様は予想より病の進行が大分速い、と暗いお顔で仰っていました。
「あれは七月十日のことでした。はっきり覚えているのは、その前日に電報を受けとり、郷里に帰る許可をいただいたからです。夕刻に帝大の学生と名乗る人が見舞いといって屋敷を訪ねてきたそうです。七月に入ってから清一郎様の容態は芳しくなく、激しい咳と喀血を繰り返しておられました。
その学生が訪ねてきた時、私は所用で外出しておりました。お屋敷に戻ると、佐緒里様が清一郎様のご学友が見舞を持ってきてくれたと嬉しそうにおっしゃいました。佐緒里様が見舞の小さな包みを開くと、豆粒ほどの黒いお香がひとつかみほど入っていました。その学生は病に効果がある反魂香が手に入ったので、清一郎様に持ってきたということでした。佐緒里様は、お兄様がよくなったらお礼をしたいと、その学生に名前を尋ねたそうです。その学生は東京帝大医学部の三年生で、王模と名乗ったそうです。大変流暢に我が国の言葉を話すので、まさか支那人とは思わなかったと佐緒里様はおっしゃっていました。
その日の晩、佐緒里様に頼まれてその学生が持ってきた香を焚き、清一郎様のお部屋にそっと入れました。咳がひどくなるようなことがあれば、すぐに下げようと思い、しばらく廊下に座って様子をうかがっておりました。清一郎様はたいして咳もせず、眠っておいでのようでした。とくに問題ないと思い、香はそのままにして母屋に下がりました。
翌朝、郷里に発つ前、気になって清一郎様の様子を確かめに離れに行きました。清一郎様が起きている気配がしたので、廊下からお声がけしましたら、めずらしく気分が良いとおっしゃっていました。前日にご学友がお見舞にみえて、病に効くお香を持ってきてくれたとお伝えしましたら、清一郎様は王某という留学生なんていたかな、とすぐに思い出せないご様子でした。それから八日間、郷里に帰ることをお伝えして屋敷を出ました。
「姉の葬儀に参列し、お屋敷に戻ったのは七月十九日の朝でございました。清一郎様の具合が気になっていたので、いつもより早くお屋敷に上がりました。母屋に佐緒里様のお姿がなく、女中に聞いても口ごもるばかりなので、もしやと思い離れに行きましたら、すでに清一郎様はお亡くなりになっていました。
その日以来、佐緒里様はまるで別人のようになられてしまって・・・清一郎様がお亡くなりになったことが受け入れられないご様子で、ひどく取り乱しておいでで」
キヨは話しながら不幸な兄妹を憐れんだのか、うっすらと涙を浮かべていた。
「それは・・・お気の毒なことです」
与四郎はキヨを慰めるように言った。
「では、その王某という支那人が持ってきた反魂香と、この書状の匂いが同じということか?」
匡は書状を手にキヨに尋ねた。
「はい、間違いありません。私が最初に香を焚きましたから、変わった匂いだと思って覚えております。それと・・・離れの部屋と同じ匂いがします」
「離れを見せていただけないか」
「それは・・・」
キヨの顔に困惑した表情が浮かんだ。労咳病みが使っていた部屋を、好んで見たがる者などいない。
「清一郎様がお亡くなりになってから、離れの部屋のものはほとんど燃やしてしまったのです。寝間着や布団、畳もです」
「では、その反魂香はまだ残っていますか?」
与四郎が尋ねると、キヨは言いにくそうに答えた。
「どうも佐緒里様がすべて焚いてしまわれたようでした。残っていたとしても、燃してしまったと思います」
匡は落胆した表情を浮かべた。与四郎はキヨに礼を述べ、ふたりは清一郎の家を後にした。




