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着流し姿の大柄な男がのれんをくぐり、店に入ってきた。立派な顎ひげをたくわえ、眼光鋭く威厳のある佇まいである。若い男が一人で飲んでいる卓子に歩み寄ると、その正面に腰をおろした。
「大尽、久しぶりだな」
若い男は手に持った硝子のコップを卓子に置いた。
「熱燗、ぬるめて頼む」
大柄な男は低く太い声で店主に言った。
「おっかねえ声出すな。ここは閻魔庁じゃねえ」
大男は顎ひげをなぜた。
「与四郎殿、あの男子はどうだ」
「どうみても半人前だ。なぜ現世によこした」
燗をつけた徳利と盃が卓子に置かれると、若い男がすかさず徳利を手に取り、大男に酒を注ぐ。大男はぐい、と酒をあおった。
「かなり昔の話になるが」
今度は手酌で酒を注ぐと、大男はまたぐい、と酒をあおった。そして遠い昔の話を始めた。
「あれは後鳥羽天皇の御代だったか。現世での仕事を終え冥府に戻ろうかという時、従者が得体の知れぬ霊力を感じるというので、確かめることにした。案内された先は備前の、死人が葬られておる場所じゃった。己の墓の上にうずくまる男子がいた。殺されたのだろう、悲しみと絶望がとぐろのように男子を取り巻いておった。貴殿も知ってのとおり、死してなお未練や遺恨を抱き、現世に留まろうとする者どもに、冥府の官が干渉することはない。だが、その男子の霊力は無視するにはあまりに強大じゃった。血筋なのか、陰陽道の修行の所為か、この男子をそのまま現世に捨て置いては、後々面倒になると考えた。強すぎる負の情念が、やがて怒りや恨みに変わり、男子を鬼に変えるは必定。強い霊力で邪鬼悪鬼どもを従え、邪霊を取り込み、恨みの対象は個を超え、咎のない衆生にまで及ぶ。祟りとなる前に芽を摘んだ。思い返してもみよ、道真公、将門公の御霊を鎮めるのに、我々がどれだけ骨を折ったか。
「冥府であやつの情念が薄らぐまで、わしの下に置くことにした。だが記憶がある限り、完全に情念を消すことはできぬ。七百年間、あやつは冥府の官吏として律を学んだ。そこで貴殿の助けを借りたい」
与四郎は黙って麦酒を飲み干した。
「大将、するめ炙ってくれ。あと麦酒もう一杯」
「あやつはもう物の分別はつくはずだ。内なる憎悪に駆り立てられ道を違わぬよう、導いてやってくれぬか。この通りじゃ」
篁は頭を垂れるそぶりを見せ、チラと与四郎を見た。
「なぜ、そこまであいつに肩入れする。個人の事情に介入しないのが役人じゃねえのか」
「あやつの霊力は確かに秀でておってな。冥府でもなかなか重宝しておる。だが、己が情念を制御できねば、これより先の任務は遂行できぬ。分かるな、わしのいう意味が」
「ふん、小野篁配下の陰陽師として冥府の汚れ仕事をやらせる前に、まず己の怒りと憎悪を御せるようにしろ、ってことか。生憎、それは俺がどうこうできるもんじゃねえ」
篁は顎ひげをなぜると、今度は猫なで声を出した。
「そこをな、貴殿の憐れみと慈しみの心で、よしなに・・・あの男子が殺されたのは、まだ元服前だったのだ。かわいそうと思わんか?貴殿は子どもが好きだろう?」
与四郎はぼりぼり頭を掻くと、面倒くさそうに言った。
「閻魔帳を見せてくれ」
篁は袂から分厚い帳簿を取り出し卓子に置いた。与四郎は帳簿を手に取り、ぱらぱらと頁をめくった。あるところで手を止め、読みながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「異母兄とその母が匡にしたことは犯罪だ。相応の罰を受けたんだろうな?人を呪わば穴二つってのは、元々あいつら陰陽師から出た言葉だからな。
匡の母親、鶴は息子の霊力の高さに気づき、子に期待した。延いては子に託すべきではない己の業を、鶴はあいつの使命にすり替え、背負わせた。母の業を背負わされた子の苦しみに、目を向けなかった。母親を、無償で慈しんでくれる存在と信じていた子供は、深く傷ついただろう」
与四郎はため息をつくと、帳簿を卓子にほっぽり出した。
「のう、与四郎殿。男子のため、ひいては冥府のため、一肌脱いではもらえぬか」
ゲソを嚙みながら、与四郎はしばらく麦酒の泡が浮き上がっては消えるのを眺めていたが、不意に篁を見て、ニヤリと笑った。
「わかった、引き受けよう。代わりに閻魔庁の予算を、ちょいとこっちに融通してもらおうか」
「・・・まったく、抜け目のない御仁だ」
篁は盃に残った酒を飲み干すと、帳簿を袂にしまった。




