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第一章 辞令

 閻魔庁の執務室で、大量の書類を前に頬杖をついて船をこいでいる大柄な高官を、側近がそっとつつく。高官は、はっと目を開けると側近が差し出した書類を一瞥(いちべつ)し、眠そうな声で尋ねた。

「民部省の陰陽師の男子(おのこ)は、冥府に来て何年になるかの」

「もう七百年は経ちましょう」

「ふうむ」

高官は顎ひげをなぜた。おもむろに紙を一枚取り何ごとかを書きつけ、側近に手渡した。

「あの者にはよい経験となろう。この件は佐伯匡(さえきたすく)に当たらせよ」

側近が下がると、小野篁(おののたかむら)は気怠そうに山と積まれた訴状に手を伸ばした。



分厚い台帳をめくっていた若い官吏がふと顔をあげる。艶のある長い黒髪を一つに束ね、縹色(はなだいろ)の水干を身につけている。官吏と呼ぶにはまだあどけない少年に見える一方、憂いをおびた切れ長の目は齢を重ねた者にも見えた。

少年官吏は台帳を手に立ち上がり、(しとみ)をすこし持ち上げた。外から流れこむ空気を思い切り吸い込むと、少年は蔀を下ろし、ふたたび台帳に目を落とした。


冥府民部省戸籍課長が書庫代わりの分室を訪ねて来たのは、それから間もなくのことだった。

「先ほど上から通達があってな。一つ数が合わないらしい」

そう言うと一通の書状を差し出した。少年官吏がそれを受け取り右手をかざすと、かすかに甘酸っぱい匂いが立ちのぼる。それを見た課長はにや、と笑った。

「小野様がおぬしをご指名とのことだ。処理が済んだら出張(でば)ってくれ。真相究明の上、報告を上げるように」

「え、出張ですか」

少年の顔がわずかにこわばる。

「佐伯匡殿、おぬしの職務は資料整理に(あら)ず。それはさておき、勤務中は烏帽子(えぼし)をかぶれと言ったろう」

そう言い残すと課長は分室から出て行った。

少年は持っていた台帳を棚に戻し、文机の上の書類をかき分け硯箱(すずりばこ)に手を伸ばした。(はさみ)(くし)をとりだし(ふところ)に入れると、書棚に放置したままの烏帽子を横目でちらと見たが、書状だけを手に外に出た。


民部省は冥府の中心部の一角に位置している。広大な省内の敷地を東へ進みながら、少年官吏は手に持った書状を開いた。そこには「新井清一郎 男 二十一」と書かれている。そして紙から立ちのぼる変わった匂い。少年は書状をたたみ、懐へ入れた。


東門を抜け小半時ほど歩くと、冥府の(きわ)に行きつく。ここから先は無限の闇が広がっている。彼方を見やるとぼうと暗く(かすみ)がかって果てが見えない。

少年は立ち止まると、手印を結び陰陽師の呪文を唱えはじめた。しばらくすると(もや)の中にもくもくと雲海が広がった。少年は呪文を唱えるのをやめ、躊躇(ちゅうちょ)なく雲の上に足を乗せ歩き出した。

しばらく右へ左へと歩を進めたのち、ある所でつ、と立ち止まる。少年は腰をおとし雲の中に両手をさし入れ、なにかを手繰りはじめた。雲に見えていたものは無数の白い糸だった。少年は何重にも絡みもつれた糸の束を持ち上げ、一筋の黒い糸をより出した。かすかに書状と同じ匂いがする。懐から柘植(つげ)の櫛を取り出し、きつくからみついた一本の白糸をていねいに()きほぐすと、鋏を取り出し黒い糸をぷつりと切った。

「かように執着したとて、もう現世(うつしょ)にはおらぬのに」

少年が独りごちると、黒い糸は甘やかな匂いとともに煙のように消え失せた。


少年官吏は戸籍課に戻ると現世への出張申請を提出し、半紙の束を持って役所を後にした。


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