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第九章 調伏(4)

 与四郎は失神した佐緒里を抱きかかえると、部屋の隅に横たえた。形代(かたしろ)は女の怨霊に姿を変え、佐緒里を取り返そうと鋭い牙で今にも与四郎に襲いかかろうとしていた。だが、与四郎には一向に動じる気配はなく、畳にあぐらをかくと、怨霊に向かって優しい口調で話しかけた。

「鶴子、お前に会うのは久しぶりだな。言いたいことがあるなら、言ってみろ。聞いてやる」

女の怨霊はしばらく不服そうに、小刻みに揺れていた。

「・・・わたしは男子を生んで 嫁としての責任を果たした

それなのに肺病に(かか)るなんて 清一郎は 悪い子

だから折檻(せっかん)した 死ぬまで 苦しめばいい

清一郎は あの人にそっくり

幼い頃から 屁理屈ばかり 父親の肩をもつ

産褥(さんじょく)で苦しんでいるときも あの人はいなかった

褒めてくれたのはたった一度 清一郎を生んだ時だけ

わたしの価値は 子を産むことだけ

佐緒里はいい子

佐緒里はわたし

佐緒里は好いた人にお嫁入りして ずっと大事にしてもらう

妾なんか作らせない そんなこと 絶対に許さない・・・」

次第に形代はカタカタと大きく揺れ動き、怒りを(あら)わにした。

「そうか」

与四郎は慈愛に満ちた眼差しで怨霊を見つめたまま、静かに語りかけた。

「なあ、鶴子。元々お前は幼子(おさなご)を残して先に逝くことが、心残りだったんだろう?

子にとって母は慈しみ、庇護してくれる唯一の存在だ。清一郎と佐緒里にとって、お前の代わりはいない。

だが死後も現世に留まるうち、お前は次第に母性と理性を失い、恨みと執着だけが残った。

どうやらお前は清一郎を自分の夫と混同しているようだ。お前の中には、夫への恨みつらみが強く残っているのだろう。

夫を許せないのなら、許さなくていい。

だが我が子を、清一郎と佐緒里を苦しめて何になる。お前が腹を痛めて産んだ子だろう。

思い出せ、初めて清一郎と佐緒里を胸に抱いた日のことを。

俺は知っているぞ。お前が大事そうに清一郎を抱いて、お宮参りに連れて来た日のことをな。清一郎はぐずって泣いてばかりだったが、お前はもう忘れてしまったか?

お前は辻を通るたび、必ず足を止めて地蔵に清一郎の健やかな成長を祈願していたな。

お前が清一郎を慈しみ、大事に育てたからこそ、あいつは賢く、妹を思いやる優しい男に成長したんだ。自分を誇らしいと思わないか。なあ、鶴子」

怨霊の姿が大きく揺らぎ、動揺しているのが見て取れた。怨霊を取り巻く憤怒の渦が徐々に力を失い、小さくなっていった。やがて牙をむくのをやめた鶴子の頬に、涙が流れた。与四郎は幼子を(さと)すように言葉を続けた。

「母性を思い出したか。

お前にとって佐緒里はいつまでたっても赤子のまま、自分の分身だと思っているんだな。

いつか佐緒里が嫁に行って幸せになることで、お前は自分の結婚をやり直せると思っているんだろう?だから娘と現世に強く執着する。

だがな、鶴子。佐緒里が幸せになると、やがてお前は佐緒里に嫉妬し始める。(しま)いには佐緒里が不幸になることを望む。

なぜだか分かるか?

お前は佐緒里にはなれないからだ。幸せなのは佐緒里であって、お前ではない。お前が欲しくてたまらなかったものを、佐緒里が代わりに手に入れたら、お前は満足するか?幸せになれるか?

答えは否だ。

()()()()が望むものを手に入れなければ、()()が幸せにならなくては、お前の無念は晴らされない。俺たちが放っておけば、お前は佐緒里が幸せになるように、その後、不幸になるように仕向けていくだろう。

でもな、鶴子。

佐緒里は血を分けたお前の娘だが、お前の分身でも、お前の所有物でもないんだよ。

お前が焦がれるほど欲しいものは、佐緒里が欲しいものではないんだ。

だから、佐緒里に人生を返してやってくれないか。

これ以上、佐緒里をお前の恨みの犠牲にするのはよせ。俺の言うことが分かるな?」

怨霊から深い哀しみが、煮えたぎる蒸気のように立ち上っていた。女の霊は低く(うめ)いた。

「・・・さみしくて・・・虚しくて・・・悔しくて(たま)らなかった・・・毎日夕餉の支度をして・・・お酒と肴を用意して・・・ずっと待っていたのに・・・あの人はいつも、いつも帰ってこない・・・そんなにあの女に惚れているなら、なぜわたしと結婚した・・・妾に主人を取られた可哀想な嫁と嘲笑(わらわ)れ・・・父母には恥と言われ・・・顔に泥を塗られても、それでも子どもたちのために辛抱していた・・・」

「お前が辛い思いをしていたのは、よく分かった。冥府でお前が受けるべき罰を、俺が肩代わりしてやる。

だからお前はもう、恨みも執着も全部捨てて、身軽になれ。いいな?」

与四郎は合掌(がっしょう)すると真言を唱え始めた。

「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ・・・・・・・・・・・・・・・・」

次第に怨霊から潮が引くように哀しみがやわらいでいった。やがて、その顔は穏やかな表情へ変わっていった。

「来世ではきっと、お前が望む幸せを手に入れろよ」

与四郎が笑って言うと、鶴子は微笑んで会釈をした。その姿は徐々に薄くなり、細い一筋の黒い煙となり、天に向かって昇っていった。



「おい、匡。聞こえるか。ったく、受け身くらい取れ」

「・・・うう」

匡は立ち上がろうとしたが、左腕に激痛が走り、再び床に倒れ込んだ。

「しょうがねえな」

与四郎は匡の右腕を掴んで、引っ張り上げた。どうにか立ち上がった匡は、柱に寄りかかって身体を支えた。与四郎は失神したままの佐緒里を、ひょいと抱きあげ、廊下に出て行った。

「キヨさん、佐緒里さんが失神した。医者を呼んでくれないか」


往診に呼ばれた医師は、佐緒里の脈と瞳孔、血圧を確認した。用意された洗面器で手を洗うと、傍で心配そうに見つめるキヨに言った。

「衰弱してはいるが、命には別条ない。気を失っているだけだ。目を覚ましたら、少しずつ滋養のあるものを食べさせるように。若いから回復も早いでしょう」

すでに日が暮れて、あたりは薄暗くなっていた。キヨが医師と看護婦を見送った後、匡と与四郎も屋敷を辞した。


 駅に向かう道すがら、不意に与四郎は立ち止まると、真面目な顔をして匡に言った。

「お前に言っておくことがある。

七百年前、子どもだったお前にとって、鶴は無償で慈しんでくれるはずの母だった。もしお前がもっと長く生きていれば、母親を一人の人間として、情を切り離して見ることができたかも知れない。残念ながら、その機会がお前に与えられることはなかった。

幼くして母の業を背負わされ、異母兄に殺されたお前には、七百年経っても消えない怒りと憎しみが心の奥底にくすぶっている。

先刻のように、己の怒りのままに術を使えば、いつかお前は怨霊に殺されるか、(おのれ)が鬼に成り下がる。

お前の課題は、己の怒りと憎悪を手放すことだ。それができないなら、せめて飼いならせ」

匡は痛む左腕を押さえ、与四郎を見つめた。

「与四郎殿は一体・・・何者なのだ」

「俺か?俺はただの食いしん坊だ」

与四郎はハハハと笑った。

「それは答えになっていない」

「たいした者じゃねえ。それより、帰って治三郎に手当してもらえ。それから、お前の任務はなんなのか、考えろ」

そう言うと、与四郎は宵闇の中に姿を消した。

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