第九章 調伏(3)
「おい、匡」
便所の窓格子越しに、与四郎は外にいる匡に呼びかけた。与四郎に気づくと、匡は格子窓の下に来た。
「首尾はどうだ」
「結界を張った。あの方角から強い霊気を感じる。佐緒里殿の部屋に違いない」
「お前、どうやって佐緒里の部屋に忍び込むんだよ」
「あそこから入る」
匡が指さしたのは、台所の勝手口だった。
「は?開けたら、間違いなく女中がいるぞ」
「問題ない。では後程」
「おい、待て!」
与四郎が制止するのも聞かず、匡は勝手口に向かって行った。
「ったく」
与四郎はため息をつくと、便所を出て台所を探し始めた。入り組んだ廊下を進んで行くと、何かが倒れる音がした。与四郎は音がした方へ走った。
そこは台所だった。与四郎が中を窺うと、匡が立っていた。術をかけたのだろう、女中が床に倒れている。
「おい、もっと穏便に動け。怨霊は俺たちが屋敷に入りこんだことに、とっくに感づいているだろうが」
匡は無表情な顔で与四郎を一瞥すると、抑揚のない声で言った。
「佐緒里殿の部屋は向こうだ」
そう言うと、廊下を歩き出した。与四郎は無言で匡の後を少し間をあけてついて行った。屋敷の中は広く、迷路のように廊下が入り組んでいて、瀟洒な扉や、襖で締め切られた部屋がいくつも並んでいた。匡はまるで屋敷内を熟知しているかのように、迷いなく屋敷の奥へ進んでいった。突如、匡は足を止めた。
「あの部屋だ」
小声でそう言うと廊下の奥を指さした。襖で閉め切られている部屋の中は廊下からは見えなかった。だが、強い霊気は確実にその部屋から放たれていた。
「これを持って行け」
与四郎はポケットから丸めた半紙を匡に渡した。匡は半紙の中を検め、髪を数本抜き取り、息を吹きかけた。そして自分の両手首に巻き付けた。
「怨霊の名を伝えておく。鶴子だ」
「・・・鶴、子?」
その名前を聞いた瞬間、匡の目に憎悪が宿ったのを与四郎は見逃さなかった。
匡は躊躇なく、佐緒里のいる部屋の襖を開け放ち、中へ入った。与四郎は部屋には入らず、廊下から十畳ほどの部屋の中を覗きこんだ。
佐緒里は、部屋の中央に敷かれた布団の上に正座していた。くるりと振り返り、匡を凝視した。薄紅色の浴衣を着た佐緒里の頬は痩せこけ、血の気が失せた青白い顔をしていた。そして真っ赤に充血した目で匡を睨みつけていた。
匡は呪文を唱え始めた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前・・・・・・」
呪文を唱えながら、空中に四縦五横の格子を描き、防御結界を張った。
佐緒里は正座したまま、無言で匡を睨んでいた。結界を張り終えると、匡は形代となる人形を取り出した。そして真言を唱えながら手印を結んだ。
「佐緒里殿の身体から離れよ」
匡は五芒星の描かれた霊符を佐緒里に向かって投げつけた。
「ふふふ」
佐緒里は可笑しそうに笑うと、すっと身体をねじって霊符をよけた。
「お前が糸を切った陰陽師ね。まあいいわ、清一郎は肺病で遅かれ早かれ死んでいた。そうでしょう、佐伯匡」
怒りと焦りで匡の頭は真っ白になった。なぜ術が効かぬ?なぜ、身体が動かぬ?
「名は呪いというでしょう?お前の奥深くから憎しみが溢れ出てくるのが分かるわ。わたしを殺したくて仕方ないのね?でも、そんななまくらな術じゃ、鼠一匹、殺せやしない」
佐緒里は立ち上がり、畳に膝をついた匡の前に立ちふさがった。
「わたしを調伏したいのなら、佐緒里もろとも殺すがいい。佐緒里はわたしの分身なのだから。佐緒里だけ生きながらえても、生ける屍となんら変わらない」
佐緒里は匡を見下ろし、フン、と唇を歪めて嘲笑った。この笑い方を、知っている。私を殺した男と同じ笑い方だ。その刹那、匡の胸にどす黒い憎しみが込み上げてきた。
・・・殺してやる・・・匡は口の中で呪文を唱えると、自由になる両手を伸ばし、佐緒里の首を掴んで渾身の力で締めあげた。両手首に巻き付けた髪が式神となり、匡に加勢する。佐緒里の顔が苦痛に歪み、匡の両腕を掴んで振り放そうとする。やがて佐緒里の顔色は紫色に変わり、両腕が力なくだらり、と垂れ下がった。それでも匡は佐緒里の首を絞め続けた。
「よせッ!佐緒里が死んでしまう!」
与四郎の制止も、怒りに我を忘れた匡の耳には届かなかった。与四郎は舌打ちすると、匡に向かって片手をかざした。次の瞬間、強い衝撃が匡を撃ち抜き、その動きを封じた。
「・・・な・・にをする、与四・・郎どの・・」
匡は驚いた顔で与四郎を見た。
「黙れ!おとなしくしていろ」
与四郎は部屋に踏み込むと、床に倒れ込んで肩でぜいぜいと息をしている佐緒里の頭に手をかざした。
「鶴子、佐緒里から離れろ」
そう言うと、佐緒里の頭から黒い靄を引き抜き、形代に投げつけた。




