第八章 反魂香(1)
翌日、匡と与四郎は再び巣鴨の癲狂院を訪れたが案の定、面会は断られた。
二人が病院の中庭のベンチに無言で座っていると、白衣を着た三十過ぎの男が声をかけてきた。
「君たち帝大生か」
怪訝な顔で立ち上がった二人に男は言った。
「僕も帝大の出身でね。懐かしいな、その学帽。ここへは見舞いか」
「ええ、同級生の妹が入院しているのです」
与四郎が返事をしたが、匡はうっかり頭にある事を言ってしまった。
「その男は肺を病んで死んだのだが、不可解な点があり、どうも腑に落ちない」
与四郎が肘で匡を小突いたが、遅かった。
「君たちの同級生は結核で亡くなったのか。前途有望な若者が、気の毒なことだ。それで、君は何が腑に落ちないんだい」
白衣の男は、匡の言葉に興味を持ったようだった。
「僕は林鱗太郎、外科医だ。ここの医者に頼まれて、ある患者の様子を診に、週に一回この病院に来ている」
林医師はベンチに腰かけ、二人にも座るよう促すと、こんな話を始めた。
「僕の専門は外科なんだが、独逸に留学している間に外科以外の病気のことも色々と学んでね。結核は西洋医学でも完治はできないのだが、患者はサナトリウムという施設で静養するのが主流だ。山の中などの空気のきれいな所で、毎日外気浴をさせ、滋養のある食事をとらせる。患者はできるだけ心身の緊張がない状態で、のんびり読書などして過ごす。余程重症でない限り、一定の効果は得られているようだ。我が国でもこのような療養所を開設する話があるが、入所にはかなりの費用がかかるから、まあ金持ちしか入れないだろう。
「あれは三年間の留学を終えて帰国する前に、英国の友人のところへ寄った時のことだ。外国に長くいると日本語を話す機会がなくて、次第に気が滅入っていく。無性に日本語で話したくてね。その友人の下宿に日本からの留学生が数人集まって、皆でよもやま話に花を咲かせた。その中に、非常に英語が達者な奴がいて、英国のジャアナルに載っていた記事の内容だが、医者のお前にはきっと面白かろう、と話してくれたのが、英国での阿片の話だ。そう、日本では禁制のあの阿片だ。
「英国で阿片は百年以上前から、非常に安価な鎮痛薬として広く使用されてきた。町の靴屋、パン屋、仕立屋などで手軽かつ安価に入手することができた。庶民にも気軽に使用されていた阿片だが、次第に英国内でも中毒性と依存性が認められるようになった。痛みに対して、同じ量を使っても効き目がなくなる。よって徐々に使用量と回数が増える。使用をやめると激しい禁断症状に襲われる。こうなると既に阿片中毒になっている。
「興味深いことに、英国で阿片は鎮痛、鎮咳、止瀉として用いるだけではなく、結核、熱病、百日咳、コレラなどの治療薬としても用いられているそうだ。もちろん、阿片は特効薬ではないから、病気を根治することはない。ただ、強い痛みを和らげるには有効だ。モルヒネも、阿片と同じ芥子から作られるからね。
「独逸から日本に帰国する途中、乗っていた船が上海に寄港したんだ。船で顔見知りになった支那語を話す貿易商が、上海を案内してくれると言ってね。租界をぶらぶらした後に、面白い所があるといって連れて行かれたのが鴉片館、まあ阿片窟だ。僕は試さなかったけど、その阿片窟では数人の西洋人が長椅子に寝そべり、まどろむように煙管で阿片を吸っていた。なんとも退廃的な光景だった。僕は手巾で鼻と口をおさえていたが、阿片窟の中は煙と甘酸っぱい独特の匂いが充満していた。長居するような所ではないから、すぐに退散した。
「それで癲狂院には門外漢の僕がなぜ、ここの患者を診ているのかというと、先日、用があってこの病院に来た時に、様子がおかしい患者がいるから、洋行帰りのお前の診立てを聞きたい、と言われてその患者に会ったんだ。患者の髪や着物に、阿片窟で嗅いだのと同じ匂いがしみついているのに気が付いた。付き添いの女中がいうには、患者は肺病の兄のために毎日、ある香を焚いていたと言う。症状からみて、阿片中毒になっているだろう。
しかし一体、その患者はどうやって阿片を手に入れたんだろうね?」
林医師は匡の顔を見た。
「先生がおっしゃている患者とは、新井佐緒里さんですか」
「そうだ。君たちの同級生の妹さんだ。気の毒だが、あれだけ衰弱していては、もう長くないだろう」
林医師はぽつりと言うと、立ち上がった
「君たちは同級生の死について佐緒里さんに聞きたいことがあるのかも知れないが、彼女はもう、話ができる状態には戻らないだろう」
そう言い残すと、林医師は病院に入って行った。




