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第六章 留学生(1)

 清一郎の家を出てから、匡と与四郎はしばらく無言で歩いていた。

「腹が減った。せっかく横浜に来たんだ、なにか食って帰ろう」

与四郎は耐えかねたように言った。

「横浜といやあ牛鍋(すきやき)だな。それとアイスクリンを食って・・・」

「あの家では怨念や死霊の気配をまるで感じなかった」

ぽつりと匡が言った。

「じゃあ清一郎は成仏して冥府に行ったんじゃねえか?」

「では現世に留まっていた死者とは、いったい誰なのだろう。あの黒い糸が、清一郎でないとすれば」

与四郎は学帽を脱ぐと、額の汗を拭った。

「とにかく飯が先だ。頭が働かねえ」


 結局、高価な牛鍋は諦め、南京町で支那料理を食べることになった。

「あーあ、牛鍋食ってみたかったな。でも食ったら帰りの汽車賃がなくなっちまう」

与四郎はぶつくさ言いながら、南京町の目貫通りにある大きな店構えの料理屋に入った。

円卓に通されると、品書きから与四郎がすらすらと料理を注文していく。

雲吞湯(ワンタンスープ)叉焼(チャーシュー)白灼蝦(ゆでえび)芹菜炒魷魚(イカのいため)肉包子(にくまん)、あと飯二つ。お前も好きなものを頼め」

与四郎から品書きを渡されたが、すべて漢語で、何が書いてあるのかまるで分からない。

支那人の給仕が来て、手際よく小ぶりな茶器に普洱茶(プーアルちゃ)を注ぐと、回転台に急須を置いて去っていった。匡は品書きの解読を諦め、熱い茶を飲んだ。

 まもなく料理が運ばれてきた。プン、と牡蛎油(オイスターソース)の匂いが鼻孔をくすぐり、空腹を刺激する。

「これは茹で海老、あれは烏賊(イカ)の炒め物、で雲吞スープに叉焼、豚肉だ。まあ話のタネに食ってみろ」

与四郎が小皿に料理を取り分け、次々と匡の前に置いていく。

「こんな御馳走は見たことがない」

匡は驚きながら、叉焼を一枚、口に運んだ。

「うまい!」

「だろ?」

与四郎は笑って烏賊を頬張る。

しばらく夢中で料理を食べていると、蒸篭(せいろ)が運ばれてきた。

「肉饅頭た、これもうまいぞ」

与四郎は蒸篭の蓋を開けて、湯気のたつ肉饅頭(にくまん)を匡に見せた。

「饅頭?」

「小麦で作った皮の中に、豚肉と筍、野菜なんかを入れて蒸した饅頭だ。冷めないうちに食え」

「・・・饅頭は、食べない」

匡は茶碗に残った飯をかき込んだ。

「俺ももう食えねえ。治三郎の土産にしよう。おーい、これを包んでくれ」

与四郎は給仕を呼び、ぬるくなった茶をごくりと飲んだ。

「で、なんの話をしてたんだっけ?」


 匡は書状を取り出し、与四郎に見せた。

「新井清一郎 男 二十一、それとこの匂いが手がかりか。帝大医学部の王(なんとか)という支那人が見舞に香を持ってきた、とキヨは言ってたな」

「その香を反魂香と言っていたのもひっかかる」

匡は天井を見つめ、古い記憶をたぐるように言った。

「反魂香というのは、死者を蘇らせることができる霊薬だ。漢の時代、武帝が亡くなった寵妃を反魂香を使ってその姿を見た、と古い書物にある。道士が霊薬を使って作ったとされるが、誰もその作り方を知らない。はたまた、そんな香が実在したかどうかも定かではない」

「そんないわくがあるのか、あれ。徳川の治世の頃、怪しげな奴がよく売ってたぜ、反魂香」

「それは(まこと)か?」

匡は驚いて与四郎を見た。

「猿の肝だの、蝙蝠(こうもり)の丸焼きだの、得体の知れないゲテモノを霊薬と偽って、煎じて飲めば病に効くって触れ込みでな。病が重く、助かる見込みのない者は、藁にもすがる思いで買い求めたんだろう」

与四郎は回転台から急須を取り、茶を白い茶器に注いだ。

「その王某は新井の家で帝大医学部の学生と名乗った。最高学府の、しかも医学部の学生が、まさか(まが)い物をもってくるとは誰も思うまい。新井の家族は王を信用して、奴が持ってきた香を焚いた。が結局、清一郎は死んだ。王某に直接、話を聞くのが早いな。なぜこの香をわざわざ新井の家まで持ってきたのか。帝大に行けば探し出せるだろう」

肉饅頭の包みを匡に手渡すと、与四郎は椅子から立ち上がった。

「明日は本郷の帝大で人探しだ。さ、アイスクリンを食いに行くぞ」


 帰りの機関車で居眠りしている与四郎の向かいで、匡は考えを巡らせていた。あの香が本物の反魂香でないなら、一体、あれは何なのだ。そして死して現世(うつしよ)に居続ける者が清一郎でないのなら、誰が現世に留まっているのか。私が切った黒い糸は、一体誰なのか?・・・考えても答えは浮かばない。匡は諦めて目を閉じた。

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