序
「キヨ、お前が留守にしている間に、お兄様はすっかりよくなったのよ。
話したり、ひとりで立って歩くこともできるの。もうひどい咳もしないでしょう?
きっとあの方が下さったお香のお陰ね。
ほら見て、すやすやと眠っているわ」
佐緒里は兄の手を握ると、女中頭のほうを振り返りうれしそうに笑った。
キヨはゾッとして、両手で佐緒里の肩をつかんで揺さぶった。
「お嬢様、しっかりなすってください!清一郎様は、」
だが佐緒里は微笑を浮かべて兄の手をかたく握りしめたまま、頑として清一郎の傍から動こうとしない。キヨは障子を開け放ち、大声で何度も男衆の名を叫んだ。
「だれか、はやく来ておくれ!平蔵!だれか、はやく!」
キヨの尋常でない叫び声を聞き、使用人の平蔵が離れに駆けつけた。長いこと閉ざされていた障子が開かれ、異様な匂いがする部屋の中を恐る恐る覗きこむと、平蔵はぎょっとして棒のようにその場に立ちつくした。
佐緒里を抱きかかえ、必死に部屋から出ようとする女中頭のキヨ
血で真っ赤に染まった布団
口から胸元へおびただしい血を流して息絶えている清一郎
死んている兄の手を握り、うれしそうに笑いつづける佐緒里
まさに地獄絵図だった。
キヨは呆然としている平蔵を叱りつけ、二人がかりで甘酸っぱい香の匂いと、血と排泄物の臭いが充満する部屋から佐緒里を引きずり出した。
「ねえキヨ、お香を焚いてちょうだい。お兄様が咳をしないように」
佐緒里は虚ろに笑いつづけた。




