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05_灰白の庭師

 タクシーが砂利を踏みしめる音で、私は微睡まどろみから覚めた。


 「……お客さん、ここであってますか?」  


 不安そうな声で話しかけられる。無理もない。喪服姿の男が、地図にも載っていないような廃墟へ連れて行けと言うのだから。私は紙幣を置き、釣りはいらないと告げ車を降りた。


 千葉近郊のとある山間部。バブル崩壊とともに放棄され、自然に飲み込まれた別荘地。その最奥に、加藤教授の隠居場所――「研究所」と呼ぶにはあまりに粗末な平屋――はあった。


 目の前の光景からは、ここが朽ちている様子が見て取れた。塗装が剥げ落ちた壁。屋根から這い出す蔦。庭を埋め尽くす雑草。ここは、人工的な「秩序」が、自然界の「無秩序」へ還っていく、ダイナミックな移行プロセスの真っ只中にある。ここには、都市のビル群が見せる「形を保とうとする緊張感」がない。あるのは、重力と腐敗に身を委ねる、緩やかな諦観だけだ。


 私はネクタイを引き抜き、ポケットにねじ込んだ。門をくぐる。足元の枯れ葉が、カサリと音を立てて崩れる。玄関のインターホンは壊れていた。引き戸に手をかける。ズズ……と重い音を立て戸が開く。


「……ごめんください」


 返事はない。家の中は、砂漠のように乾燥していた。あるのは、古い紙が酸化した匂いと、微細な埃の匂いだけ。


 靴を脱ぎ、廊下を進む。床板が軋む。壁には、背表紙の取れた洋書や、実験器具が脈絡なく積み上げられている。まるで地層のように。



 一番奥の和室。そこに、彼がいた。


 加藤教授。彼は、文机ふづくえに突っ伏していた。その背中は、あまりにも小さかった。私は近づき、その肩に触れた。


 彼は死んでいた。今日死んだのではない。数週間、あるいは数ヶ月前か。体内の水分が極限まで抜け切り、皮膚が革のように骨に張り付いている。ミイラ化。まるで、思考という激しい代謝活動により体内の水分が蒸発し、燃えカスになってしまったかのよう。


 机の上には、膨大な量のノートが散乱していた。黒い表紙の大学ノート。数十冊、いや百冊はあるだろうか。彼が死ぬ直前まで書き殴っていた、最後の思考の痕跡。


 私は、デスクライトのスイッチに手を伸ばした。カチッ。埃を被った電球が、頼りない明滅を繰り返し、やがて琥珀色の光を灯した。


 その光が、机の端にある一枚の紙片を照らし出した。私は息を呑んだ。それは、殴り書きのようなスケッチだった。黒い背景に浮かぶ、ひび割れた球体。漏れ出すマグマ。不気味な対流模様。  


 

 ――紅い、巨星。


 私の網膜に焼き付いているあの光景と、完全に一致していた。震えが走る。深い共感と共に。


「……あなたも、見ていたんですね」


 あれは幻覚ではなかったのか。私と教授は、この宇宙の深淵にある、巨大な熱源を一緒に見ていた。私は取り憑かれたように最初の一冊を開いた。


 そこに書かれていたのは、教授の『叫び』だった。



 『生命とは、熱力学的な必然である』


 『我々は、秩序を作るために生まれたのではない。秩序を破壊し、エネルギーを増大させるために、宇宙によって設計されたエネルギー消費の加速装置である』


 文字が網膜から脳へ直接飛び込み、シナプスを焼くかのようだ。私はむさぼり読んだ。次のページ。次のノート。


 時間が消失したかのようだった。窓の外が白み、また暗くなるのを、ストロボ写真のように認識した。喉の渇きも、空腹も感じない。私の脳は今、かつてないほど駆動し、教授が数十年かけて蓄積したデータを、猛烈な勢いでダウンロードしていた。


 どれほどの時間が経っただろうか。私は最後のノートを閉じた。


 そこには、教授の到達した「結論」が記されていた。


 『故に我々は、この構造を理解し静かに受け入れなければならない。我々は、宇宙から見たら燃え尽きる運命にある哀れな薪だ。私は観測者として、この美しい崩壊を目に焼き付けて死のう』



 静謐な筆跡。諦念。受容。そして、滅びの美学への陶酔。私はその文字列を見つめたまま、ある疑念にとらわれていた。



 ……観測者?受け入れる?


 本当にそうなのだろうか。あの夢は、あの紅い星は、そんな静かな態度を許していただろうか。あの圧倒的な質量、あの暴力的な噴出。あれは「見ていろ」と言っていたのか?


 違う。 私の本能はあの時、もっと別の命令を受信していた。



 『燃やせ』そう聞こえた。



 『足りない』 そう嘆いていた。



 もし、宇宙が単に「崩壊」を望んでいるだけならば、なぜ我々にこれほどの「知性」を身に着けさせる必要があった?ただ燃えるだけなら、枯れ木でもいい。ただ散らばるだけなら、ガスでもいい。


 だが、我々には意志があって技術がある。文明を作り、核を分裂させ、加速させる力がある。これは「観測」のための機能じゃない。もっと積極的に、もっと作為的に、この宇宙を焼き尽くすための「凶器」として渡されたものではないのか?


 教授は、真理を見た。


 だが、そのあまりの巨大さに足がすくんでしまったのだ。自分を納得させ、思考を止めてしまった。



「……ぬるい」


 教授の理論は理解できる。だが、その態度は決定的にぬるい。宇宙は我々を「燃料」として作っただけなのではない。使い捨てられるのではなく、こちらが主体となって、宇宙を使い潰してやるのだ。


 私は立ち上がった。教授の死体を見下ろす。


「先生。あなたは記録係で満足した。だから、そこで燃え尽きてしまったんですね」


 私はノートを閉じた。これは貴重なデータだ。私の理論の土台となる、重要な基礎設計図だ。だが、結論だけは書き換えなければならない。


 私は部屋を見渡した。この場所。人里離れ、誰にも干渉されず、膨大な資料が眠る廃墟。私は効率的に、冷徹に、この遺産を利用する。



 私は決めた。教授は、社会的には行方不明か、あるいは隠遁を続けている変人として生き続けてゆく。そして私が、この場所の新たな主となる。



「……おやすみなさい」


 私はデスクライトを消した。部屋が闇に包まれる。私は観測者ではない。私は、指揮者コンダクターになる。無自覚に燃えている人類を扇動し、システム化する。それが、あの紅い星に見込まれた者の責任だ。


 私は暗闇の中で、静かに笑った。


挿絵(By みてみん)


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