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04_黒体のパレード

 線香の煙が、会場の空気を濁らせる。私はハンカチで口元を覆い、呼吸を浅く保とうとしていた。


 あの日。牛丼屋から、オフィスに戻った直後のこと。非常階段の下、アスファルトの上に咲く赤い花。けたたましいサイレン。


 『靴が揃えられていました。突発的な自死でしょう』


 刑事の言葉。書きかけの謝罪メール。殺人的な残業記録。 全ての証拠が、彼を「過労による悲劇的な自殺者」として定義づけていた。



 鼻腔を刺激する線香の香り。


 本来なら厳粛な香りのはずだ。だが、私はそれをただの化学反応と認識する。有機物が不完全燃焼を起こし、炭素粒子を撒き散らしている臭い。



 不謹慎なことを考えるな。


 私は心の中で怒鳴りつけた。先輩が死んだんだ。感情を動かして、涙腺を刺激しろ。人間らしく振る舞え。



「――南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」


 僧侶の読経が、一定の周波数で鼓膜を叩く。言葉としての意味を失った、音波振動だ。その振動が、参列者たちの脳に対し、強制的に「厳粛」という同調へチューニングしていく。


 システム全体を安定させるための、音響制御。


 ――違う、やめてくれ



 ふと顔を上げ、周囲を見渡した。



 黒。黒。黒。 視界を埋め尽くす喪服の群れ。



 だが、彼らが人間に見えない。



 吸熱体ヒートシンク


 彼らは「黒体ブラックボディ」となって、この場に充満する「先輩の死」という巨大なエネルギーを、その身に吸収しようとしている。啜り泣く声。白いハンカチ。排出される涙。彼らはシステムが出すエネルギーを、皆で分担して吸収し、涙という冷却水を排出することで、平衡状態を取り戻そうとしているだけだ。


 これもまた、社会という巨大な熱機関が正常運転に戻るための、排熱処理クーリングの儀式なのだ。



 私は、友人の葬儀の最中に、参列者を熱交換器の部品として観察しているこの視線を狂気に感じ震えた。あの夢を見てから、私は何か決定的な「人間性の回路」を焼き切られてしまったようだ。



「……ご焼香をお願いします」


 事務的な声に、背中を押され列が進む。ベルトコンベアに乗せられた製品のように、祭壇の前へと運ばれていく。


 遺影の前に立つ。先輩が笑っている。まだ彼が「良質な燃料」として燃えていた記録データ。


 抹香をつまむ。乾燥した粒子を炭の上に落とす。ジュッ、と微かな音がして煙が立ち上る。


 その煙は空調の風に乗り、拡散していく。形を失い、薄まり、空間へ溶けていく。



 ――散逸。


 先輩は死んで自由になった。肉体という窮屈なものを失って原子レベルで解放され、エネルギーとして還った。もうレポートを書く必要もない。上司に頭を下げる必要もない。そう、これは祝福すべき物理現象だ。


 私は目を強くつぶり、合掌した手を額に押し付けた。どうした、祈れ。頼むから祈ってくれ、私。物理法則はどうでもいい。ただ、先輩の魂の安らかな眠りだけを願ってくれ。


 だが、閉じられた瞼の裏側には赤い残像が明滅していた。私の脳は、祈りの言葉さえも、中身のない言葉かのように破棄していた。涙は出なかった。体内の水分が、脳の過剰な演算熱を冷やすために浪費されていた。



 席に戻ると、隣の部長が赤い目を擦りながら話しかけてきた。


「……辛いだろうが、彼らの分まで、お前が頑張るんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋に衝撃が走った。彼の分まで?それは、「彼の分まで燃えろ」という意味か?彼が燃やし尽くせなかった命の残りを、私が引き継いで、焼却炉にくべろと言うのか?


 部長の顔を見る。彼もまた、燃えていた。充血した目。脂ぎった肌。荒い呼吸。彼自身もまた、会社というシステムに燃やされている燃料だ。彼はそのことに気づいていない。「頑張る」という言葉が、「燃え尽きる」までのプロセスの言い換えでしかないことに。


 怖い。無自覚に薪をくべ続ける、盲目的な世界が怖い。そして、その残酷な仕組みを「理解」した自分が怖い。


「……はい」




 出棺の時が来た。クラクションが長く、低く響く。それはシステムの一部が永久停止シャットダウンしたことを知らせる警告音だ。


 霊柩車が動き出し、先輩の体が運ばれていく。これから火葬場へ行く。そこで高温に晒され、炭素を酸化させ、白い結晶だけを残し、大気へと還っていく。


 その光景を想像した瞬間、「安堵」が広がった。


 ――ああ、なんて完璧なプロセスなんだろう。



 その思考が浮かんだ直後、私は自分の太ももを強くつねった。人が死んだんだ。なぜ「完璧」と感じる?俺は、あの夢の「炉」の一部になり果てたのか?


 霊柩車が見えなくなる。黒い参列者たちがそれぞれの燃焼活動へ戻っていく。私は一人、駐車場に残された。コンクリートの照り返しが眩しい。空を見上げると皮肉なほどの青空。1億5000万キロ彼方の核融合炉からのエネルギーが照らしている。



「……誰か」


 私は呻くように呟いた。


 誰か、教えてくれ。この世界の実相は「熱処理場」なのか?


 もし私が狂っているのなら、病院へ行って薬を飲めば、また「悲しい葬式」を取り戻せるかもしれない。だが、もしこれが「真実」だとしたら?もし、世界の狂気の「図面」を見てしまったのだとしたら?



 ふと、視界の端で煙が揺れた。斎場の煙突から吐き出された、薄く、儚い煙。その軌跡を目で追った瞬間、私の網膜にある光景が甦る。空の青色は、古びた黒板の深緑色へと変わり、煙の白さが、舞い上がるチョークの粉に見える。線香の臭いは、あの乾燥した教室の埃っぽい匂いに塗り替えられる。



 記憶の彼方から、あの教授の声が聞こえてくる。



 加藤教授。


 『散逸』を語る物理学者。あの日の彼は、黒板を叩きながら、舞い散る粉を愛おしそうに見つめていた。


 彼が語っていたのは、比喩ではない。もしかして、彼も今の私と同じように、「見て」いたのではないか。 この世界は巨大な焼却炉であり、私たちがその薪であることを。彼はその絶望的な景色を、あの教室でたった一人、凝視していたのだ。



 確かめなければ。



 この狂気が、私だけのものか、それとも彼も共有していた真実なのかを。それは磁石に吸い寄せられる砂鉄のような、物理的な不可抗力だった。



 指が勝手に動き、ポケットからスマートフォンを取り出す。震える指先が、大学のデータベースを検索する。


 『加藤 義一』


 名前があった。連絡先は大学ではなく、郊外にある個人研究所のような住所になっている。


 私はスマートフォンを握りしめた。


 行こう。


 私は喪服のネクタイを緩め、タクシー乗り場へと歩き出した。背後では、薄い煙が立ち上っている。先輩が、空へ還っていく。私はもう振り返らなかった。


 振り返ればまた、その煙を「美しい」と思ってしまうに違いなかったからだ。


挿絵(By みてみん)

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