03_紫紺の薪
自動ドアが開く。午前5時。本来なら夜明け前の時間だ。だが、私が感知したのは、湿った生暖かさだった。アスファルトが放出しきれなかった熱気と、ビルの排気口から吐き出される澱んだ温風。それらが混ざり合って全身にまとわりつく。
空を見上げる。ビルの谷間の狭い空が明け始めている。太陽が昇る。それさえも、今の私には脅威だ。あれは1億5000万キロ彼方にある巨大な核融合炉が、この星を灼くために再稼働した合図だ。
ビルの壁に手をつく。コンクリートのざらついた感触から、微かな熱が伝わる。冷房の効いたサーバールームから出たせいで、外の世界の「有機的温度」に対して、異常なほど鋭敏になっている。
「……眩しいな」
独り言は、雑踏にかき消された。駅へ向かって歩き出す。早朝から街は稼働し始めていた。始発の電車が動き出し、人々を都心部へと送り込み始めている。すれ違う人々を見る。以前の私なら、彼らの疲れた顔に同情しただろう。
だが今の私には、彼らが人間に見えなかった。彼らの輪郭はサーモグラフィのように色分けされていた。コートの下にある肉体の中心で鼓動する心臓。一定の温度を保つためだけに、細胞は酸素を燃やし、熱を排出する。
――燃えている。
彼らは「燃焼」しているのだ。有機物を取り込み、運動エネルギーと熱エネルギーに変換する、自律歩行型の焼却炉。
何度も強く目をこする。だが、その奇妙な「フィルター」は剥がれない。現実の風景の上に、あの「夢」で見た概念が、重なって見える。人は電子であり、熱だ。彼らが動けば動くほど、システム全体の温度が上がり、無秩序が加速していく。その光景は、精緻で機能的な「美しさ」をはらんでいた。
ぐう、と腹が鳴った。
その身体反応が、思考を中断させた。脳がエネルギー不足を訴え、補給を要求しているアラート。
私は、駅前の24時間営業の牛丼屋へと足を向けた。
自動ドアが開く。ピンポン、という安っぽい電子音。一歩足を踏み入れた瞬間、濃厚な「有機物の気配」が直撃した。醤油と砂糖が煮詰まった甘辛い匂い。酸化した脂の重い空気。ウッ、と喉が鳴った。いつもなら「食欲をそそる匂い」が、今日は巨大な生物の胃袋の中に迷い込んだようにむせ返る。
カウンターの数人の客は、皆無言で背中を丸めて座っている。ただ黙々と、目の前の丼に向かい、箸を動かす。私は券売機で「並盛」を押した。硬貨を入れる。
席に座り、水を一気に飲み干す。冷たい水が、少しだけ吐き気を抑えてくれる。その時、隣の席の男が丼の中身をかっこむ音が飛び込んできた。
ズズッ、ズズズッ。 クチャ、クチャ。 ゴクリ。
肉が噛み砕かれ、唾液と混ざり合い、胃へと落下していく音。
――給油だ。
これは人型ボイラーへの、燃料投下作業だ。男の胃袋が蠕動し、酸を分泌し、投下された有機物をドロドロに溶かしている。細胞内で燃やされ、体温となって放射される。その熱が、じんわりと隣に座る私の肌にも伝わってくる。気持ち悪い。
「お待たせしました」
目の前に丼が置かれる。茶色く煮込まれた肉の死骸と、白く輝くデンプンの塊。私は割り箸を割った。これはただの牛丼だ。私はお腹が空いているだけだ。そう言い聞かせるが、本能では今からこの物質を「薪」としてくべると認識している。終わりのない燃焼作業を継続するために。
私は肉を口に運んだ。甘辛い脂とタレの温度。奥歯が繊維を断ち切り、舌が唾液と攪拌する。本来は味覚で美味しいと感じるのだろう。ただ、今私が感じるのは化学反応としてナトリウムイオンが神経を刺激し、グルタミン酸が脳の報酬系回路を強制的に発火させているという科学的事実だ。
ゴクリ。
食塊が食道へ落ち、胃袋の底から灼けるような熱が立ち上る
着火した。
実際に、私という人型ボイラーに火が入ったのだ。反応熱が、血液という冷却水を介し、指先へ、脳へ、そして心臓へと循環していく。
――ああ、燃えている。
私は箸を動かし続けた。理性では吐き気を催しているのに、我が肉体はもっと燃料をよこせと歓喜している。隣の男の咀嚼音と、私の咀嚼音がシンクロする。私たちは隣り合う人間ではない。同じ規格で作られた、二基の焼却炉だ。
気づけば、丼は空になっていた。水を飲み干し、逃げるように席を立つ。会計を済ませる間も、店員の顔を直視できなかった。彼もまた燃えていた。
店を出ると、早朝の冷気が頬を撫でる。だが、内部温度は下がらない。身体の内側から、何かが問いかけてくる。なぜ熱が出る? なぜ食べる? なぜ生きている?
私は駅のトイレへ駆け込んだ。洗面台の蛇口を捻って、冷たい水を顔に叩きつける。
一度、二度、三度。顔を上げ、鏡を見る。
「……なんだ、これは」
そこに映っていたのは、人間の形をした「亀裂」だった。皮膚は半透明に透け、その奥でどす黒いマグマが脈打っている。血管がパイプラインとして浮き上がっている。眼球があるはずの場所では、二つの暗い穴の奥底で、あの紅い残り火が揺らめいている。
――同型。
そうだ。知っていたはずだ。私は、この真実を、ずっと前に教わっていた。
記憶の扉が、暴力的にこじ開けられる。
***
西日が差し込む教室。演壇には白髪の加藤教授。
『いいかい、君たち。生命とは、奇跡でもなんでもない』
教授の声が、鼓膜で再生される。
『多くの学者は、生命を「秩序を作るシステム」だと称賛する。だが、それは間違いだ』
教授は黒板を叩いた。白い粉が舞う。
『生命は、法則に逆らってなどいない。むしろ、法則に「加担」しているのだ。それも、無機物よりも遥かに効率的に、狡猾に』
『我々生命は、秩序を作るために生まれたのではない。「秩序を維持する」という口実のもとに、周囲のエネルギーを大量に取り込み、それを熱とゴミに変えて、撒き散らす』
教授の目が、ギラリと光った。
『宇宙は待ちきれないのだ。もっと早く、もっと激しく、エネルギーを使い潰したい』
『君たちが恋をして、悩み、働き、戦争をする。その全ての活動には、莫大なエネルギーが必要だ。つまり、君たちが必死に生きれば生きるほど、宇宙全体のエネルギーは加速的に消費され、宇宙はより早く「死」に近づくことができる』
『君たちは、優秀な「破壊装置」なのだ』
***
――破壊装置。
幻覚はもう消えていた。そこにあるのは、青白い顔をした、ただの疲れた男だ。だが、私にはもうわかっていた。私は、生きるために食べているのではない。燃やすために、燃やされているのだ。
私は濡れた顔を拭いもせず、トイレを出た。駅のコンコースは、通勤ラッシュの始まりを迎えていた。数千、数万の人間が、改札という狭いゲートに向かって殺到している。
彼ら一人一人が、小さな炎に見える。
会社へ行き、働き、悩み、情報を消費し、経済を回す。
その全てが、宇宙を温めるための熱量保存則に従った儀式。
私は人混みの中に足を踏み入れた。私もまた、一つの炎となって燃え尽きるために。だが、彼らと私には、決定的な違いがある。彼らは、自分が何のために燃えているかを知らない。私は、知っている。
「戻るか。薪を、くべに」
私の呟きは、熱気を含んだ雑踏に吸い込まれていった。




