02_蒼白の密室
無機質な電子音が私の意識を叩き起こす。
目を開けると、そこは均一な青白い光に満たされていた。
サーバールーム。
壁一面に並んだ黒いラックが、無数の青色LEDを明滅させ、ブゥゥゥゥン……と低い唸り声を上げている。設定温度19度。半袖の肌には寒すぎるはずの空気が、嫌な寝汗を冷やしていく。
心臓が早鐘を打っている。肋骨の内側で必死に押さえつける。あの「夢」が、こびりついて離れない。
――まただ。
無意識に、胸の手術痕をさする。3年前の事故。一週間の昏睡。あの時、酸欠の脳が見た光景。時間が経てば消えるはずだった。だが、それは消えるどころか、日ごとに解像度を増している。最初はただの赤い光だったが、今では亀裂の一本一本、熱の揺らぎ、そしてあの「信号」が、不気味なリアリティで迫ってきた。
「……はぁ、はぁ……」
呼吸を整え、デスク上のペットボトルを掴む。表面の結露の冷たさが、火照った身体を鎮める。水を流し込むと、食道を落ちる冷たい感覚が、脳内に響く幻聴を、現実のファンの音で上書きしてくれる。
私は大きく息を吐き出し、トリプルディスプレイに向き直った。仕事に戻らなければならない。あの圧倒的な星の死に比べ、ちっぽけで卑近な現実へ。
私の職務は「ソーシャル・アナリスト」。SNSの感情データを収集し、炎上リスクを予測する仕事だ。今夜の案件は、数時間前に投下された、人気俳優の不倫スキャンダル。画面上には、リアルタイムで吸い上げられたいくつもの投稿データが、滝のように流れている。
『裏切られた』 『気持ち悪い』 『死んでほしい』 『前から胡散臭いと思ってた』
以前の私は、この一つ一つに「人間」の顔を見ていた。女子高生のショックや会社員の鬱憤を。
だが、今夜はどうにも言葉が頭に入ってこない。文字を目で追っても、意味を結ばない。
疲労のせいか。それとも、さっき見た夢が網膜にこびりついているせいか。画面を流れる文字の列が、単なる「明滅する信号」に見える。誰かがキーボードを叩いたその運動エネルギーが、電気信号に変わり、光ファイバーを通り、このディスプレイ上の画素を光らせる。
そのプロセスが生々しい。文字の背後にある「熱量」を感じる。モニターの文字が、微かに赤く滲む。膨大な悪意のデータが、「温度」を持って、こちらの網膜を焦がし始めるような錯覚。
私は首を振ってキーボードを叩く。
「可視化、実行」
画面上で解析アルゴリズムがデータを再構築する。 メインモニターの背景が黒に染まり、無数の白い光点が浮かび上がる。
中央の発火点――週刊誌のアカウント――から、白い光が広がる。接触した白い点は、瞬く間に攻撃的感情を示す「赤色」へ変色する。隣接するノードからさらにその先へと次々に感染していく。情報のパイプラインを通じ、爆発的な速度で赤色が増殖する。
その光景を眺めながら、私は不謹慎にも「美しさ」を感じていた。
……綺麗すぎる。
人間の行動には、もっと「ゆらぎ」や「ノイズ」が混じるはずだ。「本当かな?」という躊躇いや、文脈を理解しない茶化し。それらの影響で拡散の波はもっと歪になるのが自然だ。だが、目の前のグラフは、あまりに滑らかで速い。「どちらへ流れるか」という迷いがない。まるで「自然の摂理」であるかのように、膨大な情報が、抵抗の少ないルートを選び、最短距離で拡散している。
「うわ、真っ赤だな。地獄絵図だ」
背後でドアが開く音と共に、呆れたような声がした。深夜シフトの先輩だ。手にはコンビニの袋。ツナマヨおにぎりの生活感あふれる匂いと、微かなタバコの臭いが混じる。その「生活の臭い」に、私は少しだけ現実に引き戻された気がして、息をついた。
「これは、パンデミック級ですね」
「どいつもこいつも、元気だねえ。明日は平日だぞ?」
先輩は隣の椅子に座り、モニターを覗き込んだ。その横顔は、いつもの倦怠感に包まれている。目の前の「炎上」も、ただの日常だ。
「他人の不幸が大好物なんだな。正義の味方気取りで石を投げるのが、一番手軽なストレス発散だからな」
先輩はおにぎりのフィルムを剥がした。静かな部屋に、パリパリという音が、耳障りに響く。
「ストレス発散……ですか」
「そうさ。一種の娯楽さ。お祭りみたいなもんだ」
先輩は軽快に笑い、おにぎりを頬張る。だが、私の頭の中では、その「娯楽」という言葉が妙に引っかかった。
娯楽? 祭り?
本当にそうだろうか。この赤色は、彼らが「楽しんで」生み出した色なのか?
私は画面の中の、ある一つの赤い点をクリックして詳細ログを開いた。アカウント名『正義の鉄槌』。ログを見て、私は息を飲んだ。タイムスタンプが異常だ。02:14:03, 02:14:15, 02:14:28……。この10分間で20回連投している。文面は罵詈雑言の嵐。「死ね」「消えろ」「許さない」。文法は乱れ、感嘆符ばかり。推敲した形跡も、思考した形跡もない。
画面の向こうにいる彼は、暗い部屋。ブルーライトに照らされているのだろう。上がった心拍数。浅い呼吸。開いた瞳孔。画面を叩く指先。脳内では攻撃性を司る神経伝達物質が過剰分泌され、駆け巡っているはずだ。
彼は今、楽しんでいるのか?いや。この連投速度は、快楽というより発作に近い。
彼は、「苦しい」のではないか?
彼の中に、処理しきれない膨大なエネルギーが溜まっている。労働、不安、抑圧。行き場のない「不満」が、限界まで高まっている。彼は、怒りたくて怒っているのではない。自分の中のバランスを保つために、高まりすぎたエネルギーを、情報の熱に変えて外へ捨てたかったのだ。そうしなければ、彼というシステムが破裂してしまう。
――これは、ボイラーの安全弁だ。
不意に、そんな思考が脳裏をよぎる。星が余剰なエネルギーを光と熱に変えて宇宙へ捨てるように、この画面の向こうにいる数万人の人間たちもまた、自らの内部エネルギーを低下させるために、必死で「排熱」しているのではないか。SNSという巨大な排熱機関を使って。
ゴクリ。
先輩のおにぎりを飲み込む音が聞こえた。有機物を分解し、エネルギーを取り込む、これは給油作業だ。先輩は取り込み、画面の向こうの彼らは吐き出している。入力と出力。インプットとアウトプット。この部屋全体が、巨大な熱交換システムの一部に組み込まれているようだ。
「……先輩」
「ん?」
「彼らは、怒りたくて怒っているんじゃないのかもしれません」
私の呟きに、先輩は手を止めた。
「あ? どういうことだよ」
「……排熱です」
「はい熱?」
口に出してから、しまったと思った。だが、自分の意思とは裏腹に、私の頭の中に浮かんだ冷たいロジックを言葉にしていた。
「彼らの中には不安定なエネルギーが溜まっている、それを何とかして『捨てる』ために、人間の脳で『怒り』や『正義』という感情にして排出しているのではないでしょうか」
言い終えて、私は何を言っているんだと思ったが、先輩は口の動きを止め、まじまじと私を見ていた。その目は、徹夜明けでおかしくなった後輩を見る、憐れみの色が混じっていた。
「……お前、大丈夫か?」
先輩は食べかけのおにぎりを袋に戻し、私の顔を覗き込んだ。
「顔色が土気色だぞ。変な理屈こねくり回してないで、少し横になったほうがいい」
「……いえ、大丈夫です。ただの、妄想です」
私は強引に笑ってみせた。
「そうか……まあ、無理はするなよ。俺はタバコ吸ってくるわ」
先輩は逃げるように席を立ち、サーバールームを出て行った。再び、私一人がこの密室に残された。
静寂が戻ってくる。だが、その静寂は、先ほどまでと違って感じられた。
ブゥゥゥゥン……。
それは数十台のサーバーの音。だが、今の私の耳には、巨大な生き物の呼吸音に聞こえた。電気を喰らい、計算という代謝を行い、エネルギーを吐き出し続けるシリコンでできた生き物だ。
私は、視線をメインモニターへと戻した。真っ赤に染まったネットワーク図。 数千のアカウントが、新たな罵倒を、新たな怒りを、新たな「エネルギー」を吐き出し続けている。
その赤い光の明滅を見つめているうち、私の視界が再び歪み始めた。
――似ている。
モニターの映像と、瞼の裏に焼き付いている「あの夢」の映像が重なり合う。自らの巨大な質量に押し潰されまいとして爆発する、紅い巨星。社会という巨大な圧力に押し潰されまいとして爆発する、群衆の感情。
スケールが違うだけだ。構成要素が、水素原子か、人間かの違いでしかない。そこで起きている物理現象の「構造」は、不気味にも完全に一致している。
私は認めたくなかった。人間には「心」がある。「意志」がある。星のような単なるガスの塊とは違う。だが、この数千人の行動パターンが、個人の自由意志によるものとしては、あまりにも均一で、数理モデル通りすぎた。まるで、最初からそうなるようにプログラムされた「散逸構造」の一部かのように。
もし、そうだとしたら?
「人間」というのは、食物を取り込み、情報を取り込み。それを体内で分解し、攪拌し、最終的に「感情」という名のエネルギーに変換して、この冷え切った宇宙空間へと吐き出すための、精巧な有機的パイプでは?
私たちが「生きている」と感じているこの喜びも、苦しみも、すべてはボイラーが燃焼する際に発する、副次的なノイズと同じだとしたら?
「……そんな馬鹿な」
私は首を振った。私は今、こうして考えている。悩んでいる。恐怖している。この「意識」こそが、ただの物理現象ではないことの証明じゃないか。
しかし、モニターに映る赤い光は、私の否定をあざ笑うかのように、一層激しく明滅した。その赤い光が、私の顔を照らしじんわりと熱くする。いや、これは私の脳が、この不都合な真実に触れたことで活性化し、ブドウ糖を激しく消費し、頭蓋骨の中で発熱しているのだ。
この熱さえも、「システム」の一部だとしたら。
私は、自分の身体が自分のものでなくなったような疎外感を覚えた。この手も、この心臓も、この脳みそさえも。何か巨大で目に見えない「主人」のために、せっせと薪をくべ続けるための道具に過ぎないのではないか。
サーバールームの低い駆動音が耳の奥で増幅するが、それはもう機械音ではなかった。
――燃やせ。
――もっと燃やせ。
――止まるな。冷えるな。
数十台のサーバーと、画面の向こうの数千人の人間と、そして私自身の細胞が、一斉にそう合唱しているように聞こえた。私は青い密室の中で立ち尽くした。私がどこへ逃げようと、私が「生きている」限り、熱を出し続け、燃焼システムに加担し続けてしまうからだ。
モニターの赤い光が、私の瞳の奥で、静かに、決して消えることのない残り火のように揺らめいていた。




