01_深紅の畔(ほとり)
恐らく、これは夢の中だ。
痛い... 熱い... 寒い...
五感のすべてが、経験したことのない暴力的な入力で侵食されている。
視神経が焼き切れるほどの閃光を感じたかと思えば、次の瞬間に絶対零度の闇に凍りつく。鼓膜を突き破る轟音が響いたかと思えば、真空の静寂が脳を圧迫する。
私は、「個体」としての輪郭を保っているのかさえわからなかった。
手足の感覚はない。皮膚の境界線も曖昧だ。意識だけのガス体となって、この無慈悲な空間に拡散しているようだ。
死ぬ... いや、消える...
私の痕跡が、空間に溶けていく。その引力は甘美で抗いがたく、「もう楽になれ」と宇宙が囁いているようだ。
だが、そこから無理やり繋ぎ止めるものがあった。
...匂いだ。鼻腔などないはずなのに、脳の中枢に直接突き刺さる鋭利な臭気。
焦げ臭いが、木や紙が燃える有機的な匂いではない。プラスチックが悲鳴を上げ、鉄がイオン化する、科学的な「破壊」の余韻のような、オゾンと、鉄錆と、死の匂い。
そこに、色はなかった。光が存在しない、完全なる「黒」。
目を開けているのか閉じているのかもあいまいな虚無。あるのは、全方位から押し寄せる「何もない」という圧倒的な質量だけ。
そして、その虚無の中心に、”それ”は鎮座していた。
網膜の裏側に焼き付いた残像と思った。
滲んだ、深紅の染み。だが、私がそれを認識しようとした瞬間、理不尽なスケールで私の認識領域そのものを塗り潰した。
”それ”は、巨大な球体だった。
あまりに巨大すぎて、遠近法が働かない。手を伸ばせば届くようでもあり、数億光年の彼方にあるようでもある。
”それ”は、生命力に溢れた太陽の輝きではない。どす黒く、淀んだ血のような紅蓮。数百億年分の燃料を燃やし尽くし、死の淵に立たされた老星のような姿。
表面の無数の亀裂からは、粘りつくようなマグマのようなものが漏れ、表面温度の低下によって生まれた対流が、不気味な幾何学模様を描いて蠢いている。
戦っている、と感じた。内部で繰り返される爆発と、自らの強大な質量による重力。その二つの拮抗した力が、ギリギリのバランスで形を保っている。
――美しい。
思考より早く、脊髄反射に近い本能が呟いた。なぜこれほどまでに目が離せないのか。まるで、「これを見ろ」と何者かに首を掴まれ、瞼をこじ開けられているような。
ふと、その巨体がゆっくりと収縮した瞬間、宇宙空間を引き裂くようなプロミネンスが吐き出された。
真空ゆえ音はない。だが、私は確かに、世界がひび割れるような轟音を幻聴した。視界が白く染まる。それは単なる光ではない。暴力だ。あの一撃で、一体どれほどのエネルギーが吐き出されたというのか。地球上の全核兵器を束ねても敵わない。おそらく、惑星を蒸発させ、海を干上がらせ、原子さえ分解する、天文学的熱量。
そのエネルギーが、光の速度で虚空を駆け抜けていく。だが、その先には何もない。文字通り、何もないのだ。受け止める惑星もなければ、その熱で暖を取る生命もいない。
ただ、拡散する。薄まり、引き伸ばされ、冷え切るまで永遠に虚空を走る。
目的がない。受け手がいない。意味がない。
これほど巨大な力が、ただ「そこにある」というだけで、何の仕事もせず死んでゆく。
――もったいない。
その事実を脳が、体が、認知した瞬間、私の胸の奥から、ある感情がせり上がってきた。それは恐怖でも畏敬でもない。もっと卑屈な、貧乏性が高級食材をドブに捨てられるのを見た時に抱くような、やり場のない喪失感。
その思考が浮かんだ瞬間、何かが私の意識を叩いた。
『定義:浪費』
声ではない。思考回路に圧縮データを直接ねじ込まれたような感覚。
低く、重く、絶対的響き。
『認知限界』
間髪入れず、次の信号が打ち込まれる。お前のレベルでは、この現象を「損失」と捉えるのが限界か、と。
『不適合』
否定された。「浪費」ではないなら、この壮絶なエネルギーの死をどう捉えたらいいのだ。
その刹那、ある一つの「概念」が脳内に展開された。言葉ではない。感覚そのものだった。閉ざされた箱の中で、秩序ある形が崩れ、熱となって広がり、均一化していく不可避の流れ。水が高いところから低いところへ落ちるような、絶対的な方向性。
脳が悲鳴を上げた。私はその高次元の概念を処理しきれない。焼き切れそうな寸前、私の言語野がかろうじて、その概念に最も近い一つの単語を弾き出した。
『――散逸』
その瞬間、デジャヴに似た既視感が私を襲う。午後のけだるい日差し。舞い上がるチョークの粉。古びた木製の机の感触。
……大学の階段教室。
――加藤教授が、黒板を叩く。
『熱力学第二法則は、構造を生み出す母体だ』
『エネルギーを取り込み、高エントロピーの排熱として外部へ捨て続けることで、自らの形を保つ。台風も、生命もそうだ』
そうだ。散逸構造。
その時、短い信号音が鳴った。いや幻聴した。正解だ、と告げるような、無機質な音。
『近似解』
急に、目の前の紅い巨星が劇的に変貌した。
それはもう、「死にゆく哀れな星」ではない。巨大な「機能」だ。
自らの身を焦がし、質量をエネルギーに変え、それを宇宙空間というゴミ捨て場へ全力で投棄することで、「平衡状態(死)」に抗っている。あれは、「星として在り続ける」ための壮絶な排熱処理だ。
美しい。最初に感じたあの直感は、間違ってなかった。私は、物理法則という絶対的ルールの上で、限界まで効率化されたシステムが駆動する様を、美しいと感じていたのだ。
だが、なぜ私はこれを見ている?これは走馬灯か? それとも、壊れかけた脳が見せている幻覚か?
疑問を抱いたとき、視界の中の紅蓮が、急速に遠ざかった。いや、カメラのレンズがズームバックするように、私の視点(意識)が、猛烈な勢いで引き剥がされていた。
待て。まだ何もわかっていない。私の思考は、虚空に吸い込まれる。その消えゆく光景に被せるように、脳内にノイズが走った。
『同型』
どうけい? 同じ形? 何と何が?
混乱する私の脳内に、暴力的なイメージがフラッシュバックする。
ドクン。
それは湿った、生々しい、心臓の鼓動。
血管を流れる赤血球。ミトコンドリアでの電子伝達系。細胞内の合成と分解。酸素を吸い、二酸化炭素を吐く。水を飲み、尿を排泄する。情報を食らい、感情を吐き出す。
――気づけ。
強烈な認識の書き換えが発生する。
あの星と、私は同じだ。サイズが違うだけだ。燃やしている燃料が、水素かブドウ糖かの違い。私という存在もまた、何かを取り込み、壊し、熱に変えて宇宙へ捨て続けるだけの存在。
寒気がした。自分の存在意義そのものを、物理的に還元された気分だ。私は人間だ。感情があり、意志があり、人生がある。単なる熱交換器なんかじゃない。
私が必死に拒絶しようとしたそのその時、私の本能への命令が走る。
――燃やせ。
その言葉が、トリガーとなって、プツン、と何かが切れる音がした。意識をつなぎ止めていたケーブルが切断される感覚。
世界が反転する。紅い光が消え、絶対的闇が私を飲み込む。上下の感覚が戻り、重力が全身にのしかかる。
……私は、燃やしていたのだ。
何を?
ひどく大切な、何かを。
取り返しのつかない速度で、灰にしていたのだ




