11_黒鉄の狼煙
記憶のチャンネルが切り替わる。私の意識は、過去という泥沼から引き上げられて浮上していく。
次に私の脳に流れ込んできたのは、目が眩むほどの「純白」だった。
かつてない高さから世界を見下ろしていた。「集光タワー」最上階、統括執務室。私の視界は、現在の父の視界と同期していた。
(勝ったのだ……)
父の心の声が響く。老いさらばえ、死を数日後に控えた男の、しかし確信に満ちた歓喜の声。
(夢見た理想郷を、俺はこの手で現実に変えた。見ろ、この美しい流体を。誰も争わない。誰も迷わない。エネルギーロスが極限までゼロになった、永久機関のような社会)
父は本気でそう思っていた。目の前の光景を、人類史における最高到達点だと信じ、震えるほどの達成感に浸っている。
だが――。
父は、私に同じ熱狂と覚悟を改めて教えたかったのだろう。だが、今の私(娘)の論理回路は、冷徹なエラーを吐き出していた。
父の意識は「紅い巨星(熱狂)」を夢見ているが、眼下の現実は「灰色の岩(凍結)」だ。高速で動いているはずの人々が、私には静止画のように見える。なぜなら、そこには「変化」がないからだ。「不確定要素」がゼロの世界。それは物理学的に言えば、時間が止まっているのと同じだ。
(お父様、あなたは矛盾している)
私の思考回路が、父の狂気を解剖していく。
父は「究極の燃焼」を目指してアクセルを踏み続けた。だが、皮肉にもその到達点は、対極にある「絶対零度の凍結」と見分けがつかない状態になってしまったのではないか。
生き過ぎた秩序は、死と同じだ。極まった速度は、静止と同じだ。
「素晴らしい……」
父の意識が響く。彼は気づいていない。自分の作った「炉」の火が、熱死を起こしていることに。
(……受け入れられない)
以前の私なら、父のこの達成感に共鳴していただろう。私もまた、このシステムの一部として設計されたのだから。だが、あの母の記憶を見た今、私はこの白い世界を見て「吐き気」を催していた。
***
ブツンッ。
リンクが強制解除された。現実に戻る衝撃で、私は畳の上に倒れ込んだ。
顔を上げる。夕暮れの和室。目の前には、70代の父がいる。彼は満足げに笑っていた。そこには、かつてのギラついたエンジニアの面影はない。仕事をやり遂げた隠居老人のような、不気味なほどの穏やかさがあった。
「……見たか」
父が静かに言った。その声には、揺るぎない確信があった。
「効率の果てにある、この完全な社会。……これこそが、私が彼女(母)の命と引き換えに手に入れた、人類の『正解』だ」
父は端末を指差した。
「私の処分を確定しろ。そして、この完璧なシステムを一ミリたりとも狂わせるな。この美しい世界を永遠に維持しろ」
それが、父の遺言だった。
「私の創ったこの世界を、永遠に守り続けろ」という、身勝手な呪い。
私は、拳を握りしめた。拒絶しなければならない。管理者として、この「間違ったシステム」を破棄しなければならない。
私は、あえて能面のような顔を作った。
「……一つ、確認させてください」
「なんだ?」
「もし、私がその維持命令に背いたら? もし私が、あなたが排除した『ノイズ』を、この世界に招き入れたら?」
私の問いかけに、父の目がわずかに細められた。怒りではない。そこにあったのは、知的な好奇心だった。
「なるほど」
父は頷いた。
「確かに、システムの堅牢性を証明するには、ストレステストが必要だな」
彼は、私の小さな反逆を「親への復讐」として受け取っていない。あくまで「システム管理者としての提案」だと解釈しているのだ。
「悪くない提案だ。私が死ぬまであと72時間ある。その間にこの世界を攻撃してみろ。私のシステムがいかに揺らがないか、その身で確認してから引き継ぐといい」
圧倒的自信。彼は、私が本気で壊そうとしていることに気づいていない。いや、もしかしたら気づいているのかもしれないが、「壊せるわけがない」と高をくくっているのだろう。
(……テストだと思っているなら、それでいい)
私は、震える指で端末を操作した。
『対象ID:XXXXXX。安楽死プロセス予約。執行:72時間後』
「……では、私が責任をもってこの世界の最後のテストを開始します」
「ああ、楽しみにしているよ」
父は満足げに窓の外を向いた。
「あと3日。……いい景色だ」
私は立ち上がった。
もう振り返らない。背中に父の視線を感じながら、私は和室を出た。
廊下を歩きながら、私は自分の中のモードを切り替える。娘としてのではなく、冷徹なハッカーとして。
父のシステムは堅牢だ。正面からの攻撃では傷一つつかない。だが、完璧だからこそ、「脆さ」があるはずだ。父が「効率」のために切り捨てたもの。「無駄」だと断じて削除した、人間の生物的な限界。
(見せてあげるわ)
私は、タワーのエレベーターに乗り込んだ。
(あなたが作った世界が、いかに脆弱なガラス細工か。それを証明する)




