10_白銀の決意
記憶が飛ぶ。次の「父」へ転送される。その歪みに紛れ、断片的な情報が脳内にインプットされていく。私が歴史として学んだ、『Burn』をきっかけとして父が世界に与えた影響を身をもって実感する。
『Burn』は、単なるアプリではなくなっていく。人々は効率的な世界を求め、旧体制を崩壊させた。父の書いたアルゴリズムが、この国の経済とインフラを回す「新しい憲法」になっていた。
それには、代償があった。AIへの過度な依存は、人類に未知の『症状』をもたらしていた。自らの直感よりも計算結果を信じ、自らの倫理観よりも最適解を崇拝する病。人々は、自分の頭で「善悪」を判断することに吐き気を催すようになっていたのだ。
父は、それを意図的に仕組んだ。アプリの深層に『あるコード』を混ぜ込んでいた。国会での議論、裁判の手続き、人権への配慮。それら全てを「遅延」と定義し、ユーザーが本能的に憎悪するように仕向けた。
民衆は熱狂した。アプリが指し示す「効率化」こそが、腐敗した社会を浄化する唯一の正義だと信じて。父はあの時志した、指導者となっていった。
***
また意識が着地する。ここは、空調の効きすぎた、寒い部屋だ。かつての薄汚れたアパートではない。霞ヶ関の高層ビルの最上階。執務室の奥。ガラスで仕切られた無菌室。窓の外には、作り変えられた東京が広がっている。
「……数値が、戻らない」
父が、震える声で呟いた。目の前の医療モニターを見つめている。ベッドに横たわっているのは、彼女――母だ。あの夜、隣で笑っていたその顔は、今は白いシーツよりも蒼白で、生命の灯火が消えかけていた。
過労だった。理想を実現するために、彼女は自分の命を削ってシステムを設計し続けた。「燃やせ」というスローガン通りに、彼女は誰よりも激しく燃え、そして燃え尽きようとしていた。
『回復見込み:低』
無慈悲なアラート。だが、国家最高レベルの医療リソースを結集させれば、延命も可能なはずだ。
「頼む、あらゆるドクターを招集しろ!」 父が叫んだ。
「...だめよ」
細い声が、父を制した。母が、酸素マスクの下で微笑んでいた。
「そんなことをしたら、せっかく作り上げたこの世界のシステムが嘘になる」
「システムなんてどうでもいい! 君が死んだら何の意味がある!」
指導者にあるまじき、取り乱した声。だが、母はゆっくりと首を横に振った。
「意味なら、あるわ。あなたがコネを使って例外を作ってしまうと、この世界はまた『不公平で非効率な社会』に戻る。私たちが燃やした旧世代と同じになる。……それだけは、ダメ」
母の瞳には、あの熱狂の夜と同じ、狂信的な光が宿っていた。彼女もまた、父と同じ怪物になっていた。彼女は、自分たちが作った「効率の神」に、自らの命を捧げようとしていたのだ。
「私を処理して。設計者でさえ、基準値を下回れば排除される。その事実こそが、この新しい世界を完成させる『最後のピース』になるわ」
「できない……! 君とお腹の子を殺すなんて……」
「いいえ、子供は助かるわ」
母は、大きく膨らんだ自分のお腹に手を当てた。
「人工子宮への緊急転送プロセスがあるでしょ? 私の肉体は廃棄して、そのリソースをすべて、この子と……あなたのシステムに回して。」
コンコン。無機質なノック音。側近たちがドアを開ける。
「代表、決断を。あなたが『公平』であることを証明してください。これは世界を塗り替えるチャンスです」
外からの圧力。内からの懇願。父は追い詰められていた。自分が作り上げた巨大な機械仕掛けの神に、最も愛する者の生贄を要求されていた。
「……愛している」
「知ってる。だからこそ、最高に美しく、私の命を使い切って」
ギリリ、と歯が軋む音がした。父は端末に向かった。指が動かない。本能が拒絶している。だが、脳に焼き付いた論理が、冷酷に指を動かす。
『コマンド:胎児の摘出および、母体の安楽死処理』
『承認:Yes』
エンターキーを押した。
カチッ。
その乾いた音が、父の中の何かを決定的に壊した。
ピーーーッ。
心電図がフラットになる音。母の瞳から光が消え、単なる有機物の塊へと変わっていく。
同時に、隣の保育器の中で、小さな命――私――が産声を上げた。
「オギャア! オギャア!」
生の叫びと、死の静寂。
その境界線で、父の中の「人間」という名のプロセスが、強制終了された。
悲しみ? 後悔?いいや、違う。父は溢れそうになった涙を拭うことすらしなかった。涙腺から溢れる水分さえも、今の父には無駄な排泄物に思えたからだ。
振り返った父の顔。私は、その表情を見て息を呑んだ。そこにいたのは、もう「妻を失った男」ではなかった。最適化された、冷徹な「システムの一部」だった。
「……処理完了だ」
父は、側近たちに能面のような顔で告げた。「遺体は規定通り、エネルギー資源として還元しろ。娘は教育機関へ。彼女は国の資産として管理しろ」
「は、はい……!」
側近たちが敬礼する。
(ああ……ここだったのか)
私は理解した。父が真の「指導者」になったのは、野望のためではない。父はこの日、誓ったのだ。彼女の死を無駄にしない。このシステムを、二度と誰にも触らせない。不確定な要素が彼女を殺したのなら、この世界から全ての「不確定」を排除する。熱狂などいらない。感情などいらない。必要なのは、永遠に狂わない「管理社会」だけだ。
父は、窓の外で赤く燃える東京を見下ろした。
(ああ、そうだ。これが燃料だ。俺の愛さえも薪にくべたのだから、この火はもう、誰にも消せない。永遠に、地獄の果てまで燃え続けさせる)
父は愛を凍らせて、世界を支配した。
そして私は――母というコストと引き換えに、この凍りついた世界に産み落とされた。




