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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

かつて死神と呼ばれた女は、平穏に過ごしたい

作者: an

書き殴ったものです

 その日は、ひどく強い雨が野を叩き続けていた。


 纏う黒い外套は水を吸って重く、鳥の嘴のような黒い仮面の縁から雫が落ちる。呼吸のたび、面の内側が白く曇る。


 その黒い死神のような、男とも女とも分からない人物は柄の長い大鎌を立て、足の裏で泥の吸いを測った。吸って、離す。次の一歩の深さが決まる。


 辺境同盟地・ザハル湿原。前線は崩れかけ、旗手の赤布が横倒しに揺れている。


 魔族の列は湿原の奥から波のように押し寄せ、角の列が雨に黒く光る。兵たちの背は濡れて、呼吸がばらついている。


 その間に、漆黒の影が一つ。


 列の端、槍と槍の隙。泥に沈む一歩と、軽く跳ねる二歩。三歩目で地が固まる。支点が手に来る。


 踏み込み。

 刃、半月。

 首が、雨と共に落ちた。


 二つ目は返し。手首の角度だけで軌道を変える。雨で重くなった外套の裾が視界の端を払う。

 三つ目は前。柄を滑らせ、肩の高さで止める。骨ごと断ち切らない。首根は薄い。刃がそこを通ればいい。


 鈍い音、短い震え、倒れる重さ——その順番が揃えば、次に移れる。


「仮面だ……!」

「嘴の面だ!」

「鈴の音がきた……!」


 悪魔のような、鳥の嘴のような黒いマスクのすぐ下に下げられた小さな金具が、刃筋の反動で触れ合い、その度かすかな鈴音が立つ。


 しかし、降り注ぐ雨の音がそれを薄める。だからこそ、より近い者だけがその音を聞く。


 槍の穂先がその黒い外套を避けて開き、その間を影が駆け抜ける。


 その影は、列に加わらない。その影の役目は、道を作ること。ただひたすらに、道を鮮血で彩るのみ。


 まるで死を運ぶような大鎌が半月を描く毎に、怒号が手前に迫る。角持ちの首魁が前に出た。


 肩幅が広く、体幹が強い。こういう相手は一撃が重い。重いなら、支点を奪う。


 死神は半歩だけ前に置き、柄で顎を軽く跳ね上げる。露出した喉を、短い弧で払う。鈴がまた鳴る。仮面の鼻梁を雨が滑り、視界の水が細かく割れる。首魁が膝から折れた瞬間、敵列の前歯が抜けたみたいに中央が空いた。


 死神は嘲笑うかのように、そこへぬるりと入り込む。


 左から二体。右から一体。刃は大きく回さない。広げれば遅くなる。半円、半円、四分円。重さは刃の先に集め、身体は軽く。泥が足首を掴む前に、次へ。


 「押せ、いま押せ!」


 死神の一振りは、兵の指揮を高め、魔族の戦意を確実に削いでいく。


 槍の列が、死神が魔族を屠った跡に続く。穂先が雨の糸を断ち、足音が一拍ずつ揃っていく。


 死神はそれすら意に介さず、振り返りもしないまま首を刈る。刈った瞬間、前へ進む。止まらない。止まれば泥に足を取られる。止まらなければ、雨は味方だ。


 四つ目は角の根元、五つ目は頸椎の二番目。六つ目は肩から。

 七つ目で鈍い手応えがあった。刃が骨に触れ、反動が柄を伝って掌を鳴らす。


 刃先の水を払う。水が飛沫になって面に散る。面の孔から世界が歪んで見える。歪んでいても、首の位置と重心は変わらない。変わらないなら、問題はない。


 敵列の左翼が食い遅れ、右翼が詰まった。角笛が鳴ったが、雨に吸われて遠い。死神は気ままに、死をばら撒くのだ。


 八つ目を落とし、九つ目は転倒した背から。十、十一、十二──数は増えると曖昧になる。曖昧でも、手順は崩さない。崩れれば、刃に余計な荷重が乗ってしまう。


 湿原の木道に乗る。板が水を含み、足が滑る。滑る前に滑る分を計算に入れる。踏み切りの角度を変え、柄の末端をわずかに重く握る。


 前の二体を刈った瞬間、右から槍が伸びた。視界の端。柄で受け、肩で回し、逆手で返す。首の位置に刃が戻る。鈴が低く鳴った。反動の音だ。

 後ろで、味方の槍が魔族の肉を貫く音が幾重にも響いている。苦痛、悲鳴──そんな、戦場にはぴったりな音も、混じりあっている。


 前を切る。

 後ろに返す。

 左に払う。

 右に払う。


 ひたすらに大鎌が魔族の波を切り裂き、雨粒に血を混じらせる。誰も影に触れることは、叶わない。


 「後列、前進——!」


 誰かが命じる。声が通るようになった。怒号が命令に変わる。


 敵の背中が増えてきた。死神は追い込みすぎない。戦士でない者に興味は無い。必要なのは、脅威を排除することだけ。勝利のために。


 雨脚が一度強くなり、すぐ弱まった。仮面の面に走る水が細る。視界が広がる。


 湿原の向こう、黒がばらける。その境目に、さっき顎を跳ねた角持ちの首魁よりも大きい影が立っていた。二本角。背が高い。足場の悪さをものともしない踏み込み。


 死神はそれを脅威と見たか、瞬時に駆け出した。


 正面から入ると見せて、一足だけ左にずらす。相手の右足が泥に取られる。肩の線が前に倒れた瞬間、喉の線が伸びる。そこに、短い弧。


 刃が触れ、筋が切れ、首が落ちる。そして鈴が鳴る。大きい影が倒れた音は、雨の音より少しだけ重かった。


 左右が止まり、次に揺れ、次に後ろを向いた。もはや、勝敗は誰の目にも明らかであった。


「か……勝った……!」


 最初に叫んだ兵の声は震えていた。震えはすぐに太くなる。二人、三人、十人。


「勝った、勝ったんだ……!」

「押し返してやった!」

「仮面だ、あの仮面が切り開いた!」

「鈴だ、あの鈴が鳴るたびに落ちた、見たか!」


 槍の穂先が空に向き、石突が板を叩く。乾いた打音が雨に重なっている。


 伝令が駆けた。濡れた外套に巻いた布の下から赤い札が覗く。


「報告——ザハル湿原、突破! 仮面の者、前列切り開き——」


「なんと書く?」と訊かれて、伝令は少しだけ言葉を探した。探して、言い切る。


鈴鳴(れいめい)の死神、ザハル突破!」


 口にされた呼び名が、早い。旗手がそのまま叫び、鼓手が太鼓に同じ節を刻み、門番が角笛で合図を返す。夜には焚き火の縁で、語りが形になった。


——雨の夜、黒い嘴の死神が来た。

——鈴が鳴るたびに首が落ちた。

——死神は敵に死を運び、軍に勝利を運んだ。


 明日には兵站の隊へ、明後日には市へ、その次には港の酒場へ行くことだろう。


「鈴鳴の死神」──その名が。


 静けさが戻る。雨の層の中に自分の息だけが残った。死神は一人、大鎌の刃に布を当て、血と雨を拭った。赤はすぐに薄くなり、金属の色が戻る。刃に映った仮面が、雫で揺れて見える。


 足元の泥はぬかるみのままだ。板の端を踏み、沈む前に次に移る。振り返って、己が作り出した景色を眺める。倒れた者は動かない。雨で薄まった血が、先程よりも広がっていた。


 仮面の内側で息を吐く。面が温い。息が頬に戻る。戻った息は、自分の匂いがする。鉄と皮と、少しの香。師の工房で嗅いだ匂いに似ている。


 舌で奥歯を押す。()()がぐらついた。ぐらつく歯を舌で押さえ、死神はくすりと笑った。


 刃を包み、外套の内側に小さな鈴を押し入れる。鈴は小さい。小さくても音は残り、音が残れば、誰かが思い出すのだろう。


 きっとこの湿原にも、名がつくのだろう。


 たとえば「鈴導の渡り」や、「鈴鳴の浅瀬」なんかだろうか。勝手に決める者はどこにでもいる。名は一人で出歩き、そうして時を越え、語り継がれて行くのだろう。


 雨が弱くなる。雲の縁が薄くなり、遠くで雷が去る。濡れた草から立ち上がる匂いが強くなる。血の匂いは雨に洗われ、土に変わる。


 死神は背を向け、歩き出す。足跡を深く残さないよう、踵を浅く置く。板を離れると、泥がまた吸った。吸われる分だけ歩幅を縮める。


 後ろで誰かが「生きてる」と言い、もう一人が「鈴が鳴ってる」と言った。死神が鳴らした鈴ではない。雨が刃に触れて鳴った音だろう。


 けれど、兵共は忘れない。この戦場を支配していた、小さな鈴の音を。


 湿原を抜け、低い土手の陰に雨だまりができていた。そこまで来て、やっと足を止める。風が弱く、仮面の孔から入る空気が少し冷たい。


 「……疲れた」


 ここで初めて、戦いの外のことを考える。将来のことだ。


 そうだ、雨が止んだら、甘いパンを食べたい。外はぱりっとして、中はふかふかのやつ。蜂蜜を少し塗って、熱いうちに。


 将来は大きな湯沸かしを手に入れて、香りの良い草を入れて、お湯を注いで、あったかい匂いで部屋いっぱいにしたい。


 注ぐカップは薄いカップじゃなくて、両手で包めるような丸い椀がいい。


 それと、やわらかい枕をひとつ。自分の匂いが少し移るまで、毎日同じ向きで寝てみたい。夜中に起きず、朝まで眠って、夢を覚えていたい。


 窓際には小さな鉢に香草を植えよう。葉を指でこすると、すぐ匂いが立つやつ。風が通るたびに、葉が揺れて音がするかな。


 風鈴もひとつ吊るす。金属じゃなくて、焼き物の軽いやつ。風が吹いたら、小さく鳴るだけのもの。今度は、心安らぐような音で。


 字をもっと上手に書けるようになりたい。大きい字と、小さい字。買い物の札を、自分で書いて、棚に並べてみたい。


 自分の名前も、いつか棚に置くみたいに、まっすぐ言いたい。誰かがそれを呼んだら、ちゃんと返事をしてみたい。


 あとは、いつも持ち歩く包みを作る。布と糸と針、草の束を少し。飴を二つ。ひとつは自分、ひとつは誰かに。


 山羊の背を撫でてみたい。あたたかくて、毛が少しからまっていて、指に油がつく感じを知りたい。山羊乳を温めて、蜂蜜を落として飲んでみたい。


 小さな鍵のかかる戸がほしい。中からかける鍵。夜になったら鍵をかけて、朝になったら外す。ただそれだけを、毎日繰り返したい。


 それから——香。たくさんの香りを覚えたい。乾いた草、湿った木、火の匂い、雨上がりの土。どれが好きか、自分で決めたい。


 誰かと笑うことも……少しやってみたい。大きな声じゃなくていい。肩が震えるくらいでいい。


 喉の小さな鈴に触れる。冷たい。音は鳴らない。


 舌で乳歯を押す。まだ抜けない。抜けたら、布で包んで、師匠に見せに行きたい。


 行けるだろうか、行きたい。甘いパンを二つ買って、ひとつを師匠に渡す。熱いうちに。


 そんなふうに、戦いじゃない日の予定を、いくつも頭に並べていく。並べられるだけ並べたら、少し胸が軽くなった。


 大鎌を拾い上げる。柄の重さは変わらない。でも、足は少し軽い。


 私は仮面の嘴をほんのわずか上げ、空気を吸う。雨の匂いの向こうに、乾いた草の匂いがした。


 歩き出す。


 今はまだ戦の道の上にいる。けれど、いつか——夢見た小さな店の道へ。香と草と、ただの湯気のある場所へ。


 その日まで、刃は振る。


 けれど、いつかは──



###



「ミナ、いるかい?」


 戸板が開き、陶の風鈴がチリンと小さく鳴った。


 いつもの声だ。常連の魚屋のおばさん——イネスが、籠を片手に立っていた。ミナは薬研から顔を上げる。


「はい。今日は何にしましょう」


「この前の膝の塗り薬、よく効いたよ。あとね、夜が浅くてさ。眠りの香りを少し強めにしてもらえる?」


「それは良かった。そうですね……そしたら、前の配合にラベラ草をひと摘み足しましょう。香りは柔らかいけど、息が深く入ります」


「そうかい。それじゃあそれで頼んだよ、ミナ」


 棚には乾いた草と瓶、紐で綴じた紙の束。奥の小机で私は刻み、煎じ、すり潰す。湯気は甘く、火は低く、外のざわめきは遠い。薬研の歯が低い音を立て、指先に伝わる振動が落ち着きを連れてくる。


 香袋を縫うあいだ、イネスは世間話を続けた。市場の値段、川の増水、来月の灯祭り。干し魚が少し値上がりしたとか、港に新しい屋台が来たとか、どうでもいいような話。だが、ミナはこのくらいがちょうどいいと感じていた。


「そうだ、追悼の日が近いだろ? 線香も少し分けておくれ。親方があの日の話ばっかりするんだよ。二十五年だってさ」


「はい。灰が残りにくい方と、香りが淡い方と、どちらにします?」


「淡い方。目が痛くならないやつでお願いするよ」


「承知しました」


 ——二十五年。


 魔族たちとの戦争から、もうそれだけの月日が経った。戦の記録は年表の行におさまり、古い見張り台は灯だけを残して、今は商隊の目印を兼ねている。


 辺境同盟は魔族軍を北へ押し返し、条約が結ばれ、街道は広がり、荷車の車輪が土ではなく石を踏むようになった。王都には新しい橋が架かり、名板には「ザハルの夜に思う」とだけ刻まれている。


 酒場では昔話が売り物だ。雨の夜の仮面、首が落ちる音、鈴の音。呼び名は鈴鳴(れいめい)の死神。本当にいたのかどうかは、語り手の値段次第——そんなふうに笑いながら、人は今夜の飲み代と明日のパンの話に戻っていく。


「ミナ?」


「ああ、すみません、ぼんやりしてました。香袋、三つ。線香は十本を二束、淡い方です」


「ありがとねぇ。あんたの店は落ち着くよ。ここだけ時間がゆっくりだ」


「火を低くしているから、かもしれません」


 ミナたちはふっと笑いあうと、イネスは銀貨を置いて籠を肩にかける。


「また来るよ、ミナ」


「ええ、お待ちしてます。イネスさん」


 戸が閉まり、陶の風鈴がもう一度鳴った。店の中はすぐに静かになる。ミナは火を少し絞り、薬研の中身を別の皿に移す。机の端には、小さな木の箱。蓋は閉じてあり、紐がほどけないように結んである。


 箱をさらりと撫で、少し笑う。なんでもない、今となってはただの思い出の品だ。処分しても良かったのに、どうしてか捨てられずにいる。


 戸口の鈴ではなく、陶の風鈴が風で鳴る。心地よい音色が肩に落ち、ミナは目を閉じる。


「……うん、いいね」


 机に戻り、ラベラ草を刻む。指に香りが移る。瓶の蓋を外す音、湯気の立ち方、糸の通り。どれも繊細で、ひとつずつ触れると気持ちが整う。壁には暦。赤い印のところに「追悼」とある。年に一度、国中で火を低くして、名前を読む日。暦の端には、誰かが書き足した小さな字。「ザハルから二十五年」。綺麗な字じゃない。ギルドで配られた紙の真似だろう。


 ミナはそれを見て、火を少しだけ足した。過去を温めるためではない、湯の温度を外に合わせるために。今日は少し、肌寒いから。


 午前の終わりに、旅芸人が喉飴を三つ。喉の痛みが少しと言うので、ミナは薄荷をほんの少し減らした配合を提案した。


「明日、港広場でやるんだ。声が持つといいんだけどね」


「開演前に舐めてください。終わったら蜂蜜湯を」


「へえ、これは効きそうだ」


 そう言って、旅芸人はひらりと手を振って店を足早に出て行った。


 昼前、手習いの子が「字を書いて」と小銭を握って来る。帳面の空きに、その子の名前を大きく書き、紙をちぎって渡す。自分の名前が香の匂いに混じるのが嬉しいらしく、両手で掲げて帰っていった。


 昼、ミナは店の奥で簡単な食事をとる。固いパンにチーズを挟み、湯気を吸い込む。外は人の声、車輪の軋み、遠くの水音。たまに、港の方角で太鼓が鳴る。時折思い出したように火加減を見て、瓶の数を数え、帳面に線を引く。


 午後、配達の少年が荷を運んできて、戸口で転びかけた。ミナはさっと手を伸ばして箱を支える。


「大丈夫?」


「す、すみません! 今日、道がぬかってて……」


「いいよ、気をつけてね。よかったらこれ、飴。一つは自分に、もう一つは誰かに」


「えっ、ありがとうございます!」


 少年は両手で飴を受け取り、何度もお辞儀をして去っていく。彼の背に貼られた配達札が風でめくれ、また戻る。ああいう紙の質は、湿気に弱い。ミナは次の納品書に油取り紙を足しておこうと心に留めておいた。


 夕方、灯がひとつずつ入る頃、いつもより少し早く「本日おしまい」の看板を裏返した。


 鍵を内側からかけ、灯を一つ落とす。ミントが少し揺れた。窓の外を、子どもたちの笑い声が流れていく。路地の猫が伸びをし、塀の向こうへ消える。今日は雨にならなかった。明日は、乾いた香草がもう少し軽くなるかな。


 机に戻り、木の箱に視線が止まる。今度は触れずに、通り過ぎる。紐は固い結び目のまま。箱の重さは、いつもと変わらない。私は息を整え、針穴の向こうの灯を見据えた。


 ——二十五年。


 長い時間が経って、気付けば街は平らになった。人は笑い、祭りの話をし、値段で文句を言い、眠りの香りを求める。香りは、誰の名も呼ばない。ただ、そこに留まる。留まって、深く息をさせる。


「すーっ……」


 私はいま、そこにいる。名前を呼ばれて、返事をする。呼ばれない日は、自分で自分を呼んでやる。「ミナ」と。


 外で、陶の風鈴が風に触れた。低い灯が木の枠を照らし、影が短く動く。ミナは最後の灯を落とし、戸口に手を当てる。


「おやすみなさい」


 夜の空気が、ゆっくりと戸の木目に染みていく。遠くに太鼓。近くに笑い声。足音がほどけて、やがて静かになる。求めていた平穏は、目の前にある。手の届く場所に。それがどれほど尊いか、私はよく知っている。だから、今日も火は低く、香りはやわらかく。明日もまた、同じような日が始まるのだろう。


 ミナは棚の瓶を一列だけ指で整え、窓辺の鉢にもう一度だけ水を落とした。ミントの葉が光り、すぐにいつもの暗さに戻る。戸に鍵を掛け直し、部屋の奥へ。布団の端をめくると、乾いた草の匂いがする。横になり、静かに目を閉じた。


「今日は、どんな夢が見られるかな」



###



 朝の夕影庵は、火を低く、湯気を薄く。薬研の歯がゆっくり回り、紙の音が小さく重なる。


「ミナさん、眠り香は前の配合で」


「わかりました。今回は薄荷(ハッカ)を少し減らしますね」


 桶職人が肩こりの膏薬を買い、旅芸人が喉飴を三つ。魚屋のイネスは線香を淡い香りで、といつもの調子だ。


「ねぇミナ、聞いた? “死神”の話」


「ああ……最近お客さんも噂していますね」


「なんでも、黒いフードで鈴を鳴らして、人を脅してお金を巻き上げるって話みたい。先週は近くの路地でもあったそうよ」


「そうなんですね……夜はあまり出歩かないほうが良さそうですね」


 ミナの言葉に、イネスさんはうんうんと頷く。


「まったく……死神だなんて、二十五年も前の話よ? 今も生きているかもわからないっていうのにねぇ」


 二十五年前。戦場を駆け抜けた黒い影は、今では過去の遺物となっていた。年齢や性別も不詳。その体躯などから30台前後と推定されていたが、病気や事故、モンスターなどの被害などから多くの人間は50代頃には命を落とす。そのことから、死神は既にこの世を去ったと考える者がいても不思議ではなかった。


「そうですね。ただ、死神かどうかは別として、危険なことは事実です。イネスさんも用心してくださいね」


「あら、ありがとうね。ミナも気を付けるのよ」


 そう言いつつ会計を済ませてイネスが店を出ると、陶の風鈴が一度鳴る。扉が閉まるのを見届けた後、ミナは深く椅子に腰かけて天井を見上げた。


「死神……か……」


 この一月、死神と呼ばれる輩が街で小さな騒ぎを起こしているらしい。黒いフード、鈴の音、わざとらしい呼び声。港で二件、路地で一件。噂は数を増やしながら曖昧になり、誰かがそれを「鈴鳴(れいめい)の死神」の再来だと囃し立てた。


「くだらない……」


 死神なぞ、特段良いものでもないだろうに。金のためであれば、使える存在ということだろうか。


 ふるふると頭を振って思考を払う。今となっては、私には関係ない。昼は戸を開け、夜は戸を閉める。この問題は私にとって、それで終わりだ。


 昼過ぎになると、ミナは薄荷とラベラ、月桂の束を求めて市場へ足を運んでいた。道中、子どもたちが焼き物の小鈴で遊んでいた。チリン、という軽い音。それを耳が拾うと、胸が少し固くなる。歩みはそのまま。角をひとつ曲がる。子どもたちはすぐ別の遊びに移って、音は消えた。


 夕刻、看板を裏返し「本日おしまい」。戸に鍵をかけ、火を落とす。窓辺の鉢に水をやり、薬研を布で拭く。いつもの日常が去ろうとしていたその時、路地の方で甲高い笑い声と、押し問答のような声がした。


「なぁなぁ、一杯だけだって。付き合えよ」


「やめてください、迷惑です」


 そっと路地を覗いてみれば、酔った男が三人。ふらついた足取りで、背の低い少女を囲んでいる。


「知り合い……では流石にないようね」


 少女の背中には小包。靴は新品。見るからに歩き慣れていない足だ。男たちの方は……冒険者だろうか。傷のついた鎧や大きな斧を見るに、その少女とは雰囲気がかけ離れている。


「なにをなさっているんですか?」


 男たちがこちらを見た。ひとりが鼻で笑う。


「ああ、なんだぁ薬屋か。お前には関係ねぇだろ」


 しっしとあっちへ行けと言わんばかりに手を振る。ミナは表情一つ変えず、言葉を返した。


「そういうわけにもいきません。最近はなにやら物騒な噂もありますから、もうお帰りになられては?」


「あ?ああ……死神だかなんだかってやつか。そんなん、俺らブランブル・クロウズにかかれば恐れるに足らん!」


「さっすがロークさんですぜ!」


「そういうことだ薬屋。それとも、お前も俺らと遊んでいくか?」


 下卑た笑みに、ミナは思わず発しそうになった舌打ちをぐっと抑え込み、努めて笑顔で返した。


「いいえ、遠慮しておきましょう。私も、その子も」


「んなつれないこというなよ、絶対楽しいからよ──」


 ロークと呼ばれた大男がミナの肩を掴む。ミナはその親指の付け根を軽く押し、手を外へ回してやる。関節が抜けるほどではない。支点を変えるだけで、ロークの体はあっさりと地面へと落ちた。


「て、てめえ!」


 二人目が殴りかかる。大振りで、雑な拳だ。ミナは半歩だけ下がり、拳の外側を払ってから前に出る。男の肘の下に自分の肘を当て、肩で押す。男の体重が斜めに流れて、膝が折れてそのまま石畳へと転がった。


 ミナが三人目を睨むと、その男は目に見えてたじろいだ。歩幅が詰まる。


「ま、まて……!冗談だ、冗談!悪かっ──」


 男の肩がこちらに寄る瞬間、ミナは半歩だけ前へ入り、胸元に来た手首を外へ捌く。すれ違いざまに背中へ掌を軽く添えると、男の体重が勝手に前へ転がった。石畳の上で男の足が空を切り、くるりと宙を舞った。どすん背から落ちた拍子に息がふっと抜け、男はすとんと意識を失った。


「っ……この女、なんだよ」


「あなた方の言うように、ただの薬屋です。……ですが、その薬屋に地面に転がされている人間が、()()死神に勝てると?」


 肘をついて上体を起こしたロークにそう問うと、ロークはぐっと言葉に詰まったようだった。


「早く行きなさい」


「覚えておけよ……」


 ロークはそんな恨み言を一つ残すと、もう一人の男とともに気絶した男を抱えてそそくさと去っていった。ローク達がいなくなったのを見届けて、ふうと息を吐く。絡まれていた少女を見れば、その顔には未だ恐怖や不安の色が滲んでいるようだった。


「大丈夫?」


「す、すみません。ありがとうございます……」


 少女の息が上がり、声が少し震えている。


「ご迷惑をおかけしました……」


「そうね。あなたみたいな女の子が、こんな時間に出歩くものじゃないわ」


 その少女はきゅうと縮こまり顔を曇らせる。


「返す言葉もありません……」


 その様子にミナは肩を竦めて、ぽんぽんと少女の頭を撫でてやった。


「まあ、なにもなかったからよしとしようか。次からは気を付けるのよ」


「は、はいっ!」


 少し元気を取り戻した少女に、ミナはくすりと笑いかけ、灯りのある通りまで連れていった。


「ここからは人通りがある。だから帰るなら、この道を真っ直ぐ」


「はい……」


 明かりに照らされた少女の顔をよく見る。齢は十五ほどだろうか。女の子にしては珍しく、短めの髪。腰には小さな袋が下げられており、使ったことがないであろう鞘に収まった小刀が、居心地悪そうに腰に鎮座していた。


「……っ」


 少し顔を歪める少女。その腕には小さいが擦り傷があった。ミナはポケットから軟膏を取り出すと、彼女の腕を取って傷に薄く塗り始めた。


「沁みない?」


「あ、大丈夫です……すみません、なにからなにまで」


「いいのよ、私は薬屋だもの。これが本業だからね」


 処置が終わり、それじゃあ、と別れようと思い少女を見ると、彼女のまっすぐな視線と鉢合った。


「お願いがあります」


「な、なにかしら……」


 どうも、嫌な予感というのは当たるものだ。


「厚かましいお願いとは、存じております。けどその上で、どうかお願いいたします」


 ああ、鈴の音が、遠くで聞こえる。なんとなく、なにかが変わる。そんな気がした。


「あなたの、弟子にしてください」

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