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第二章ー⑤

 じりじりと夏が押し寄せる。教室の空調は最低限にとどめられてとても快適とは言えない。公立校の嫌なところだ。私立さんは冷房がんがん利かせとるんやろなぁ。


 この不快な室内で期末テストを受けさせるとか正気を疑う。これが終われば夏休み、なんて開放感は微塵もない。


 集中できてないのは、気温のせいもあるが、約束の日が近づいてきているからで。テストなんて受けてる場合じゃねえとか、まだできることが残ってるんじゃないかとか、色々考えてしまう。


 でもひなたが、当たり前にテスト範囲をおさらいして対策してたのは安心材料だ。投げやりになったっていい。彼女がその気ならこんな試験受ける意味もないのだから。

 なら僕は、その日を彼女の人生で最良の一日にしてみせる。


 過去の不幸は起きてしまったことで、なかったことにはならない。積もり続けた負債もたんまりある。けれど、それでも今を幸福だと言えるよう。将来に希望が持てるよう。


 そのために、僕のすべてを捧げよう。




「おはよう」

「はよぅ」


 眠れなかったのか、ひなたはすでに覚醒した様子で返事をよこす。なるほど、意識はしてるらしい。


「おめでとう」

「大人の仲間入りしました」

 18歳になった。僕も彼女も。あの絶望的な状況からここまでこぎ着けた。


「いきな……んむぅ!」

 愛しさが爆発した。抑えるつもりもない。堪能する、ひなたの感触すべて。


「……ぷぁ。歯磨き前のキスはマナー違反」

「ごめんって」


 身体をすり合わせ、絡ませ合って、まだここにいる喜びを噛みしめて。


「おいおいおい。やる気満々ですわ」


 これも本当に申し訳ない。下心など意識させたくはないんだけど、がちがちになってしまっていた。


「犯されるー。朝からけだものー」

「しないよ。今夜のお楽しみですよ」

「はるさん、予告えっちとか女の子はくそ萎えるからダメだよ。ムードに流されちゃったって言い訳が乙女には必要なんだよ」

「何を今更」

「今更だけどそういうの大事にする人がモテるんです」

「ひなた以外にモテなくていい」

「今日もカレの愛が重い」


 ぐにゃぐにゃいちゃついてると時間なんてあっという間に過ぎていく。さっさと支度して出かけよう。今日は一日中デートなんだから。


 楽しかった。彼女が隣にいるだけで、なんでもない時間が色づいて見える。大した規模じゃない動物園も、半分以上閉店した地元の寂れたアーケードも、窮屈で鬱陶しい繁華街へ向かう電車も。


 すべてが、かけがえのない時間に思えた。

 一人じゃない、二人だからこう思えるのだと。

 ひなたにとってもそうであってほしい。僕と過ごすことで、世界を楽しむことで、生きててもいいんだって。


「なんか場違いだよねわたしたち」

「こんないい席用意して貰ってソフドリなのは本当に申し訳ない」


 宿泊するホテルでのディナーは、学生の身分では背伸びしすぎだった。周囲は服装がビシッときまった美男美女のカップルや、孫もいそうな年齢の夫婦が多く、僕らのような半人前が来る場所ではなさそう。ここぞとばかりに奮発していい部屋取ったもんだから、こんな夜景の映えるムード満点の席へ案内されてしまった。


「こういうお高いところって、頼めば野暮なこと言わずにお酒出してくれそうだけど」

 仮にそうだとしても頼むつもりはなかった。

「なに? 酔いたい気分なの?」

「わたしももう大人の女よ」

「ひな、気取るならそれっぽい表情ださなきゃ」

「むずいー。彼にめちゃくちゃにされてもいいと内心思いつつもこっちから誘うのは癪なので匂わせでその気にさせる女の表情ってどんなん」


 あ、めちゃくちゃにしていいんだ。


「ムード壊すなよ」

「はるさんが言うかなぁ」

「僕たちには早かったかね」

「うむ。お酒飲める年齢になったらまたこよう」


 この言葉がその日、一番嬉しかった。

 また今度の約束ができたことが。




「本当にあなたには頭があがりません」


 湯船で後ろから抱きしめながらひな吸いしてると、神妙な口調で彼女が呟く。


「こんな、わたしなんかのためにさ。よくないんだよ」

「わたしなんか禁止。これでよかったんだよ僕たち」

「や、本当にだめ。わたし、幸せかもって……思っちゃってる」

「かもなんだね」

「約束、したじゃない。だからここまで来られて。今この時間があって。ぜんぶあなたがくれて、あなたから奪って」


 奪ってくれて構わない、と、こちらが伝えたとて彼女の罪悪感は拭えないのだろう。


「そんなわたしが、幸せなんて、やっぱり、ダメなんだけど、でも……」

 たどたどしい。震えるような声音。

「返せるものなんだろって思って。今までくれた分……あの、わたしのぜんぶ、今夜あげます」


 なら僕は、君の未来が欲しい。君とこれから先も過ごしていく時間が欲しい。


「あなたの…………、に、して……」


 涙が溢れそうだった。結実したのだ、僕の努力が。彼女をがんじがらめにする過去の重荷より、僕との今を選んでくれた。


 ここは二人きりのスイートルーム。

 壁の薄いアパートでもなければ邪魔する他人もいない。

 遮るものはなにもなかった。

 だから被せる必要もないと感じた。


 僕のを彼女が受け入れる。隔たりなしの繋がり。溶けて、溶けて、混じり合う。身体だけじゃない。心も一つになっていく。


 なんて温かいのか。こんな幸せがあっていいのか。荒波を乗り越えてきた分、募る感動もひとしおだ。


 これから先は、もっと晴れやかに生きよう。


 こんな素敵な女の子が隣にいるんだ。それだけで雲一つない晴天だ。


 愛し繋がり抱きしめて、僕らは意識が途切れるまでずっと、そうしてた。




「いいセンスしてますね~。高かったでしょうに」

「喜んでもらえたならなんてことない」


 翌朝の帰り道、プレゼントした腕時計を太陽にかざしながら歩く。とても気に入ったらしい、当社比口角が上がっていた。徐々に取り戻していくのかもしれない。


「学校どうしよう。着けてったら浮く? パパ活ブランドバッグネキ認定されるかなぁ」


 夏休み明けの話に意図せず笑みがこぼれてしまう。


「僕に貰ったんだって言えばいいだろ」

「やー。はるさんが金持ちだってしれたらゲス女が寄ってくる」

「嫉妬してるの?」

「するかもしれないから、あんまり隙を見せちゃダメ」


 そんな心配せんでも。僕がひなた以外に靡くわけなかろ。

 今までよりいちゃいちゃが100倍楽しいんだが。あっという間に家に着いてしまった。


「お母さん起こさないようにね」


 忠告され、慎重にアパートのドアを開けた。


 躱せたのは、いつかこういうことがあると身構えていたからで。


 油断するわけがない、ただ一度甘い夜を過ごしたぐらいで、警戒を解くわけないだろう。


 神様というのは意地悪で、人に過酷な運命を課すのが趣味なのだから。


 奇声を上げながら包丁を構え突っ込んでくる母。およそ人間の形相ではなかった。鬼とか怪異のたぐいに近い。その照準がひなたであることを確認すると僕は、実母の腹を蹴り飛ばした。


 衝撃で取り落とした包丁を掴み、部屋の奥へぶん投げた。


 部屋の中は変わり果てていた。障子がびりびりに破けている。あちこちで皿が割れている。一晩で空けたとは思えない量の酒瓶が散乱していた。

 覚悟はしていたはずだ。容赦はしない。

 うずくまる母に追加の一撃を見舞う。血が繋がっていようと、かつての事情を鑑みようとも、許せないこともあるんだ。


 言葉として認識できない醜悪な雄叫びを上げている。唯一聞き取れたのは『泥棒猫』くらいのもんだ。無断で朝帰りしたのがまずかったのかもしれない。もうこの人には、僕しかいないのだから。配慮が足りなかった。


 小刻みに全身を震わせながら、取り落とした包丁を必死に探している。


 憎しみだけが彼女を繋ぎ止めていた。


「もうやめろ。やめてくれよ……」


 危害の意思を見せるなら、僕は止めなくてはならない。万が一にもひなたに手出しはさせない。


 だから蹴り続ける。


 心が痛えよ、ちくしょう。


 やがて、動く気力もなくなったのか。


「いぁだ……いがないで……」


 その言葉は僕に向けられたものか、それとも……。

 母は泣いていた。あの日からずっと泣いているのに、未だ悲しみは枯れないままなのだ。


「ごめんね」


 暴れられると困るので、救急よりは警察だろう。連絡をしてようやく、人心地ついた。


 無事守り切った僕は、ひなたの方を向き直る。


 彼女は、声も表情も無くして佇んでいた。


 どうして、戻ってきちゃうんだろうな。

 なんで、幸せを噛みしめたまま生きていけないんだろう。

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