第二章ー④
「はるぷー」
「何だそのいい加減な呼び名は。おはよう笹塚さん」
始業前、一度ボウリングを共にしただけで接点のほぼないクラスメイトDが話しかけてきた。
「勉強教えて」
お断りだ。バイトのシフトを減らしたのだからひなたと過ごす時間を増やすに決まっていた。そもそもテスト前だけ、僕らお勉強できるチームに話しかけてくる奴が嫌いなのだ。期末考査を月末に控え焦りはじめたのだろう。
「ごめん忙しいから無理」
「えー絶対うそ。バイト辞めて暇だからいつでも誘ってってひなまるが言ってた」
だから名前名前。ひなまるのまるどっから来たのよ。加納雛丸ってめちゃくちゃ強そうだと思いました。
「そのひなまるに僕は勉強教えなきゃならないのだ」
「だから一緒にー」
邪魔すんなコラ。空気読めや。そう言いたいのをぐっと堪える。
「ひなまる」
「どうかした?」
「君は僕と勉強会する。そうだな?」
「めぐも混ぜてほしいのー」
「はるさん、めぐてゃも教えて欲しいそうだよ」
なに? なんて? てゃ?
「ばるさんお願いー」
人を害虫駆除薬みたいに呼ぶんじゃねえ。はるぷーでええやろがい。
周囲の有象無象も話題を聞きつけ群がってきた。
「今日は勉強の日だなー」
「しゃーねえ。受験もあるし、ガチでいっとこ」
「スタバどうせ混んでんべ。どこでやるか」
僕行かないよ? 指導役なんてまっぴらだよ?
「なあみんな。今日はパーッとボウリングでも--」
多人数が一度に喋ってるせいで僕の声は届かない。もともと僕とひなたと笹塚さんの予定決めだったはずなのに、規模が膨らんだ結果、会話の中心は僕らの手を離れてしまった。もう、勝手にして!
「はるさん」
「なに」
「人気者だね」
どこが。こいつらは僕の明晰な頭脳、その知識の泉から溢れゆく水のおこぼれを汲み取ろうとしているだけだ。僕が馬鹿者ならば見向きもされないだろう。
「それは君の欲目だよ」
「ちがうよ。あなたのもともと持ってた資質」
「ひなたの目には僕が四割増しくらいでよく見えてしまうの。心理学的に」
「そんなことないよ。鼻毛出てるしとても格好悪い」
「なぜ朝言わん」
僕はエチケットポーチを持って教室を脱した。速やかにトイレで処理するためだ。
「はるさんが人気者だと、わたしも嬉しいよ」
わざわざついてきて言うことか。
「僕はひなたがちやほやされてると気分悪いけど」
「ふふっ。器が小さいね」
「……えっ?」
後ろにいたせいで確証はない。けど今……。
振り返るといつもの能面。やっぱり勘違いか。
「どうかした?」
「や……笑ったのかと思って」
「え、ひなたアウトー?」
笑ってはいけない、ではない。笑っていいとも。
笑顔と泣き顔。彼女からは縁遠くなってしまった感情の両極。平坦になることで、ひなたは自分を守ってきたんだと思う。
「レアだろ、ひなたが笑うの。しっかり見とけばよかった」
「そんなのいつでもくれてあげるよ」
口角、上がってるかぁ? ひなたの感情読み取り検定有段者の僕でさえ笑った判定は出せないニュートラル表情。ひなちゃん睨めっこ無敵説。
「いつもの顔じゃん……」
「あのさ、はるさん何年一緒にいるの。細かな違いを感じてよ。もっとえくぼとか目尻とか見て」
なぜ自信ありげなんだ。写真を撮って本人確認させてみる。
「今日盛れてないわー。当社比ブス」
わからん、こいつの基準はわからん。いつも通り可愛いじゃんね。
「はるさん、SNSにあげるならちゃんと加工してね」
他の人にやるもんか、僕の大切な人の写真を。加工など絶対しない。
ひなたの笑顔未遂事件のせいで時間を浪費し、僕は鼻毛をはみ出させたまま一限を受講する羽目になった。
湿気を孕んだ生温さ。建物の中心にくり抜かれた青い長方形。もう戻ることはないと決めつけていた場所。胸に去来するこのクソデカ感情の出所がどこか判断がつかない。懐かしさ。悔しさ。わくわく。未練未練未練。
はっ、自分が泳ぐでもないくせに。
「知佳……」
弥彦くんは『必勝』と銘打ったお守りを握りしめている。可愛いところあるじゃん。
「すごいね。雰囲気がぴりぴりしてる」
すでに何種目か観戦を終え、二人は大会の持つ真剣勝負の空気にあてられているようだった。尾崎さんが出てないレースでも、他校の人間しかいなくても、自然と声援を送っていた。
この日のために毎日毎日きつい練習をして、戦いに臨むのだ。部活に打ち込める幸せを噛みしめつつがんばってほしい。
「知佳ちゃん背泳ぎだっけ?」
「ん、100m……」
出番が近づくほど、弥彦くんの顔は青く染まってく。大丈夫かこいつ吐いたりしないだろうな。
「大丈夫?」
「ごめん、問題ない」
想いが強ければ強いほど。賭けてきた時間を知ればこそ。他人事ではいられないのだろうな。こいつ、本当に尾崎さんのこと愛してるんだ。
「君が緊張してどうする。見届けるしかないだろ」
「わかって、るよ……」
「あのーもしかして」
またかよ、何度目だおい。
水泳部の関係者は学校毎に纏まって席を陣取る。ほぼほぼ部外者の僕らは制服こそ着ているものの、我が校の応援席とは遠く離れた隅っこでひっそりとしていた。
「秋葉選手ですよね? 中1で全中2位を獲った」
にも関わらず、いや、逆に目立っているのか?
過去の僕を知る者達が声をかけてくる。それほど注目されていたのだろうが、ここまで顔が割れてると思わなかった。
「もう選手じゃありません」
「水泳辞めちゃったんですか?」
辞めたからこんな端っこにいるのよ。
「あたし、あのとき先輩の応援で会場いて、あなたの泳ぎ……今でも覚えてます」
なんて返せばいいんだ。ほっといて欲しいんだが。こんなことが続くと、やっぱり来るんじゃなかったと思ってしまう。
「……ありがとう。今日は試合出るの? がんばってね」
見知らぬ女生徒と握手。くだらねえ。たかだか学生の大会で、一回結果出しただけだろ。
……違う、違う。その考えはよくない。今まさに、その一レースに全身全霊をかけている人たちの前で。
「知佳から聞いてたけど、先輩、すごい人だったんだな」
「少しは見直したかね」
「そういうのなければ格好いいと思う」
ガキが……潰すぞ……。
「はるさん」
「どした」
「戻りたい、あそこに」
「……まさか」
人生の取捨選択だ。誰にだって当たり前に訪れる。
僕は水泳より大事な人がいるから、そちらを選んだだけだ。そうじゃなかった未来なんて今更わからないし、考える意味も無い。
ひなたの手を包むように握る。
「どこでもイチャイチャするのな」
「お前も尾崎さんと付き合えたらどこだろうと構わずちゅっちゅしたくなるだろうよ」
「うざ……」
100m女子背泳ぎのコールがなされる。コース前に姿を現した尾崎さんは、自チームに向けて軽く手を振った。ヒロはきちんと秘密を護ってくれたようだ。僕たちが観に来てるのは知らなそう。
「弥彦」
「……わかってる。声援は飛び込んでからだろ」
スタート前のプレッシャーは想像を絶する。選手はそれに打ち勝つために集中力を極限まで高めている。雑念などないほうがいい。
尾崎さんが出るのは予選4組あるうちの2組。これは決勝に進めるかどうか際どいところ。
合図がなされる。背泳ぎ特有の、羽化する前のさなぎのような待機姿勢。会場が静まりかえる。弥彦くんが息を呑む。
電子音とともに一斉に弾け飛ぶ。
潜水。思い出す。僕の手に感覚が戻ってくる。世界は青く、光が反射して綺麗で、でも不自由だった。抵抗のある水中を自分の鍛えた肉体で自由に切り裂いていくのが好きだった。
水を掻き、脚で漕ぎ出し、すこしでも速く、遠くへ。
そのシンプルさがいい。水と一体になる感覚が、雑念など意識の埒外へ押し流されていくのがいい。泳ぐということ。鍛えた身体を目一杯使い切ること。
誰もが必死に、自分の限界へ挑んでいる。
各校の応援がこだまする。背泳ぎにはこの轟音はほとんど届かない。それでも声を送る。
「いける、いける……!」
尾崎さんは50mを泳ぎ抜け一位でターンした。
あれ? なんだこれ。
なんで僕……え?
「はるさん」
馬鹿ひなた。僕じゃなくてレースを観なさいよ。
自分の目からこぼれ落ちた雫の意味をはかりかねる。綺麗だと思ったんだ、尾崎さんの姿勢が。ずっと研鑽し続けてきたんだろう。見惚れてしまうくらい安定したフォームだった。
だから何だって話だ。それで僕が泣いている意味がわからない。だって僕は彼女にそれほどの思い入れを抱えていない。
「がんばれ……尾崎さん」
つまり僕は、乗り越えられてないのだ。美しい泳ぎを目の当たりにして、僕も今すぐ飛び込んで泳ぎたくなって、それが叶わないことだから涙が出る。なんて女々しい。みっともない。しかもそれをひなたの前で見せるという大失態だ。
僕は強くあるべきだ。くだらない感傷に浸っていたら大切な人を守れない。
腕でぬぐい去る。ゴールを見届けなければ。視界をクリアに。
「知佳ちゃんがんばれー!」
ひなたに向けて笑んでみせる。大丈夫だと意味を込めて。彼女はプールに向き直り、ひなた史上最大級の大声を発している。
行け。ラスト。怒号のように鳴り響く。ピンと伸ばしきった指先が、ついにゴールに触れた。
「やった! やったぁぁぁ!」
弥彦くんが拳を突き上げ勝ちどきを上げる。尾崎さんはこの組一着でゴールした。
「知佳! 知佳ぁ! お疲れ様ー!」
すべての緊張が解けたのか一際デカイ声。めちゃくちゃ目立っていて気づかれないはずもなく。尾崎さんはこちらを視認し、やや困惑して、手を振ってくれた。
速度を記録を競う競技は残酷だ。他のスポーツと違って、短所があるなら別の長所で補うとか、作戦次第で勝敗が逆転するといったことがない。速い奴が速い。調子や出来の善し悪しはあれど、その序列はレース前にはほぼ決まっているのだ。
「来てるの知らなくて、びっくりしちゃった」
競技もほぼ終わり、会場の外で待ち合わせる。部でミーティングなどあるだろうから、帰る前に労いたかったのだ。
「三年間? いや、もっとか。お疲れさま」
尾崎さんは決勝に残れなかった。予選はエントリータイム順にレースが組まれることが多い。今日で言えば、最終組に猛者が揃っていて決勝に進めるのはタイムの上位10人。2組で1位を獲った彼女も全体のタイムでは12位で、落ちはしたものの素晴らしい結果だと思う。自己ベストも出たようだし。
「弥彦くん、ごめんね。いいところ見せられなかった」
しかしそれを知った弥彦くんの落ち込みようったら酷かった。本人よりよっぽど沈んでいて、逆に気を遣わせるという一番どうしようもないやつ。
「知佳、速かった……いじばん、がっこよくで」
堪えきれずに溢れて、もうぐしゃぐしゃになっていた。見かねたひなたが落ち着かせるために一旦トイレに連れて行く。
「ひなたちゃん、ごめんね」
ぼそりと呟くがひなたに届いたとは思えない。
「あの、あの……観に来てくれて、ありがと」
僕に向き直った尾崎さん。顔が真っ赤だった。心臓の音がこちらまで聞こえてきそうなくらい、乱れてるのが目に見える。
「あなたが来るなら、知っときたかったな。あと三秒くらい縮めたかも」
「観られたくなかったんじゃないの。弥彦も両親も呼びたくないって」
「あなたは……別だよ」
焦がれるような視線。熱い。自分に向けられている想いの量に圧倒されそうだ。
「私の、憧れなの……ハルくんは」
かつて中学の水泳部は僕をその名で呼んだ。彼女も例に漏れず。
「同学年にこんなすごい人がいるんだって、いつも勇気と力をもらってた」
多くの期待をかけて貰っていたと思う。僕の泳ぎが夢を見させたのはわかってる。
「辞めちゃったときは悲しかった、けど、今でも、あなたのクロールが目に焼きついてる」
何も返せない。もう僕は水泳を辞めて、一番を選んだから。
ならばせめて、受け止めるくらいはしなきゃな。
「あなたのことが、ずっと好きでした。今でも……」
「…………ありがとう」
「うぅ……とっても恥ずかしい」
「正直さ、まったくわからなかった。僕には周りを慮る余裕なんてなくて、特に水泳関係の人たちは無理矢理、忘れようとしたこともあったから」
「ハルくん、部を辞めてからはとっても怖かった。いつもギラギラした目つきで、周囲は全員敵みたいな」
「ごめんて」
「眼中にないのはわかってるから。それでも、最近お話できるようになって、思い出しちゃって……舞い上がってしまいました」
気持ちはすごく嬉しい。僕たちの道がすこし逸れていたら、この子と過ごす未来もあったのかもしれない。
「区切りをつけなきゃね。水泳も……好きだった人も、今日で」
彼女の瞳が滲む。胸がきゅっと痛んだ。
応えることはできないから。
「だから、最後にちょっとだけ……貸して」
「……うん」
抱きしめ返すことはできない。でも僕の胸で泣きじゃくるのを止めることも、しない。
「勝ちだかったなぁ……っ。決勝、でで、それで……!!」
「綺麗だったよ。尾崎さんのフォーム」
「すごいね……って。い……ぅうううう!」
せめてもう忘れないでいよう。僕のことを想ってくれていたこと。美しい姿勢と、水面を掻いていく手のまっすぐさ。
「素晴らしいレースだった。尾崎さん、ありがとう」
僕がこの先、水泳に想いを馳せるとき、まずこの子の姿が浮かぶだろう。あの最悪な記憶を塗り替えて、美しい思い出をくれたことに、最大限の感謝を。
僕もようやく、かつて愛した競技を、大好きなまま過去にすることができそうだった。