第二章ー②
「ごめんね。時間もらっちゃって」
尾崎さんは苦笑しながら両手を合わせて祈りのポーズ。事情をある程度把握している僕と違い、ひなたは喫茶店についてなお頭にクエスチョンマークを浮かべていた。事前知識を入れとくべきだったか。
「ひなたちゃんも、ありがとう来てくれて」
「はるさんに命令されたら、わたしは逆らえないから」
「誤解を招きそうな発言は控えてくれないか」
事実ではあるのかもしれんが、爛れた関係を想起させるので余計なこと言うな。
「で、弥彦くんのことだよね?」
僕はコーヒーを啜ってからいきなり本題を放り込む。
「うん。そうなんだけど」
「この前はるさんと揉めてた子?」
「やべ」
「えっ!? なにかあったの」
彼の名誉のために彼女の心配事を増やさぬように、この前の接触は内緒にしておこうと思っていたのに口止めするのを忘れていた。
「あー、まぁ……元気がいいよね弥彦くん」
誤魔化しようがなかった。ので、なるべく表現をマイルドにしつつ概要を伝えた。すると尾崎さんはテーブルに額を擦りつける勢いで謝ってくる。いや君は悪くないけど。
「別に気にしなくていいから。ほんとにいいから。相談事ってなんだろう」
このままでは話が進まない。
「あ、ごめん……。うん、弥彦くんのことなんだけど」
「幼なじみなんだよね」
「家が近所でさ、あの子、あんまり大きくないというか。私よりも背が低くて、可愛い弟くらいに思ってたの」
幼い頃の彼は泣き虫で、引っ込み思案で臆病な少年だったのだという。それを彼女がずっと面倒を見てきた。
「よく私の後ろをとことこ付いてきてたの。あの頃はよかった……」
「反動で尖っちゃったんだね」
守られるばかりじゃ嫌だと、強く見せようとあの態度なら納得だ。
「そう。それで最近、やたら男性アピールというか……俺も一人前の男なんだぞ感がすごくて」
高校入ってバイト始めて、初任給でプラジュをご馳走したんだとか。ええ話やなぁ。
「何が相談なのかわからないな。尾崎さんが変わろうとしている彼をどう思うかが大事なんじゃない」
あん? 右腕に痛みが走る。ひなたがしっぺをしてきたみたいだ。
「痛いな」
「はるさん、突き放すような言い方よくない。ちゃんと知佳ちゃんの揺れる乙女心を吐露させてあげなよ」
お前がそれ言っちゃうから尾崎さん気まずそうじゃん。
「……要領を得なくてごめんね。あのさ、私、ずっと好きだった人がいて」
「ほうほう」
ひなたが身を乗り出す。恋バナへの貪欲さがえぐいな。
「その人への気持ちは、もう区切りがついてるの。でも、その時のどきどきと比べると、弥彦くんに感じる思いって恋なのかなって思っちゃって」
「ずっと好きだった人と新しい恋に揺れているんだね」
「好意を寄せてくれるのはとっても嬉しい。私にとっても、弥彦くんは大事な人だから……」
「エモ散らかしてるね」
ひなちゃん、どこで覚えたのそんな言葉。
「こんな悩んだまま付き合って、上手くいかなかったら今後、どう接していいかわからないから」
「わかるよ。大切にしたいからこそ踏み込めないんだよね」
女子二人はうんうん頷き合っていた。僕いらなかったんじゃないかこれ。
「二人は、どうやって今の関係になったの? 聞いてもいい?」
前掛かりだったひなたがバッと身を引く。僕の判断を待っているのかじーっと見てくる。
「……聞いちゃまずかった?」
「いやべつに。エモくも尊くもない話でよければ聞くかい?」
尾崎さんが身構えるのがわかった。別に大層な話ではない。聞かせられる部分はほとんどないのだし。
「もともと僕の母とひなたのお母さんが親友で、近所に家を構えて同年に子供を授かった、よくある幼なじみの始まりで」
まさか同級生に僕らの成り立ちを話す日が来るとは思わなかったけど。
「色々あって、ひなたの両親が亡くなってしまって。うちで引き取ることになって。僕らは、恋人だとか恋愛だとか意識するよりもっと前から、同じ部屋で育った」
「…………」
驚きと気まずさがない交ぜになってるようだ。ひなたの両親がいないことも、一緒に住んでることも教師以外に公言したことないから。やっぱり人に話すことなんかじゃないよな、ここから先は。
「だから異常に距離が近い。君と弥彦くんよりももっと。よく付き合ってるの、なんて聞かれるけど、意識したことはなくて。当たり前にそばにいて、当たり前に愛している」
そうするしかなかった。寄り添うことでしか、まっとうに生きてこられなかった。
「参考にならないでしょ。お互いしかいなかった僕らじゃ」
「えと、なんて言ったらいいか……」
「大切な人がいるって、いいね。尾崎さんこの前言ってたよね。僕もそう思う。彼のことが大切で、これからも隣で生きていくつもりなら、関係を進める覚悟も必要なんじゃないかな」
「好きかどうか、わからなくても?」
まっすぐな視線が僕を射貫く。熱っぽい、のは恋の話をしてるから、か。
「好きにも様々な色や形があるんだよ。本人を前にして赤面しちゃうような激しい恋愛もあれば、逆にそばにいて深く安心できる相手を好きになることもあるでしょう。どっちの恋が正しい、なんて決められないんじゃないかな」
「はるさん、どうして急にラブ仙人みたいになってるの」
真剣に答えたのにこいつが茶化すから途端に恥ずかしくなったわ。
「それも、好きの形か……うん、相談してよかった。ありがと」
「なんで僕らだったの? もっと仲いいクラスメイトとか、経験豊富な人がいるでしょ」
実際大したことは言えてない。気持ちに正直になればくらいしか。
「だって二人が、一番、なんて言うの? 大人の恋? 成熟してる感じ? がしたから」
「どろどろしてるって、わたしたち」
「陰で老夫婦とか言われてるの、ひなた知ってた?」
「わ、悪い意味じゃない。んと、絆が強いんだろうなって思うから」
尾崎さんが急いでフォローする。ぺこぺこ頭を下げている。まともに話すようになってから謝られてばっかりだ。
「二人に一緒に聞いてもらえて、私も前に進めそうな気がする。よかったら、また今度お話聞いてほしいな」
「それはいいけどカーブの投げ方教えてくれないか。ひなたに負けたくないんだ」
「知佳ちゃん、また女子カラ行こう。これだけは聴いとけってあったらプレイリスト教えて」
「……えと、ボウリングは大会近いからまた今度ね」
フラれちまった。でもこうして遊びの約束してると、ちゃんと高校生してるって気分になるな。
帰り道。いつもの国道沿い。自然と手を繋ぐ。ピュアな恋愛にあてられたどろどろの二人は“らしい”恋愛の真似事をしている。
「はるさんってモテるんだね」
「そんなことないけど。友達いないしな」
「……知佳ちゃん、水泳部だって」
「ふーん」
ひなたも渚さんと同じ感想かい。
「きっとさ、確認したかったんじゃない。今も同じ気持ちになるのかって」
「わからないよ、そんなこと。直接言われたことじゃないし」
だとしてもひなたまで一緒に呼ぶ必要はないだろうし。
「いい子ですよ、あの子」
「妬いてるの?」
「まさか。そんな権利、わたしにありませんよ」
思わず絡めた指に力が入った。
「……ごめんなさい」
「権利も資格もいらない。何度だって言ってる」
「うん……ありがとう」
エモ空気を保っていたかったのに、結局哀しい話になってしまう。違う、明るい、未来の話をしよう。
「ひな」
「……はい」
「今度二人で、ボウリングとかカラオケ行こう」
「デートですか」
「そう」
「……デート、照れるね」
夕日がひなたの表情を浮かび上がらせる。とても照れてるとは思えないいつもの無表情だったが、当社比、嬉しそうだった。
「なんでお前が知佳と遊びに行ってんだよ」
「クラスメイトだし、僕のパートナーと仲いいんだぞ尾崎さん」
数日後、またも待ち伏せからの呼び出しでいい加減僕もイライラしていた。どうやら位置情報を共有していたみたいで、誰と喫茶店にいたのか問い詰めたようだった。
「何の話してたんだよ」
「おいおい、君ちょっとヘラってない? 彼女がどこで何してたかいちいち把握できないとキレるタイプ? 余裕なさすぎよ」
「彼女じゃ……ねぇ」
知ってる。イヤミだっての。
「そういうの、女の子にウザいって思われるよ。一般論」
「うるせえな」
「自分が落ち着かないからって相手を束縛しないこと。一人の人間として尊重して、気持ちを押しつけすぎないこと。大人になろうな弥彦くん」
やべえ、また僕の中に住むラブ仙人が出てきやがった。
「くそっ…………いや、本題そこじゃねえ。聞きてえことがある」
「人に物を尋ねる態度じゃないな」
凄まじい葛藤が見て取れる。歯を食いしばって実に苦しそうだ。ざまあ。
「あの、秋葉……先輩。教えてくれ」
がはは、少しは溜飲が下がったわい。
「どうしたね、工藤後輩」
「……水泳の大会に部外者が行くには、どうしたらいい?」
思い出したくもないことを。友達いないのか、わざわざ僕にそんなこと聞くなよ。
「あー大会の規模や会場によるとしか。でもフリーで入れることは滅多にないか。関係者に応援パスみたいなの貰えば行けると思うよ。尾崎さんに頼みなさい」
盗撮や下卑た目的の輩は弾けるようにそうした制度をとるのが基本だ。
「それができたら苦労はしない。さ……サプライズで行きたいんだ」
「あのね、それも気持ちの押しつけだよ。急に現れてびっくりさせたら感動するだろうなとかさ。素直に応援行きたいって伝えた方が好感度上がると思うなぁ」
特にスタート直前に呼んでない奴がスタンドにいるの気づいたら動揺しちゃうんじゃないかなあ。弥彦くんデカイ声出しそうだし。
「知佳、あんまり速くないみたいで。見に来なくていいよ、って親にも俺にも言うんだ。でも……最後の大会だし、応援したくてよ」
気持ちはわかる。けど、やはり正面から見届けたいと言った方がいい。
「なんとかできないか、と、思って……あ、きば先輩に」
どうして僕ならどうこうできると思ったのか。僕から尾崎さんにチケット三枚! とか頼んだらバレるに決まってる。待てよ……ひなた抜きで二枚か?
いやいやいや。それじゃあ僕が彼と一緒に水泳大会観戦しないといけないじゃないか。絶対いやだ。そもそも両親すら拒むくらいだ。僕たちを呼んでくれるとは思わない。
「頼む。この通りだ」
頭を下げるくらいなら最初から突っかかってくるなよな。この子の認識ではまだ僕は恋敵のはずではないのか? それともひなたの存在で疑いが晴れたのだろうか。
方法ならある、と思う。使いたくないだけで。
どうして僕が生意気な後輩のために不快な思いをしなければならないのか。
「はるさん手伝ってあげなよ」
「だからなんで僕が……どうしてひなたがいる。先に行けと言ったはずだ」
「待ってたけど遅いから。こんにちは弥彦くん」
「……あ、えっ、はい」
尾崎さんや僕にはあんなに強気なのに、ひなたを相手取るとどもりまくっていた。おい、惚れんじゃねえぞ、うちのひなちゃんに。
「ね、知佳ちゃんの大会わたしも見に行きたい」
「仕方ないな。弥彦くん、これは貸しだぞ」
「………………アリガトウゴザイマス」
ひなたの頼みとあらば叶えるしかあるまい。
申請は早い方がよかろう。その日の昼休み、僕は他クラスの教室へ来ていた。
様々な葛藤が押し寄せる。
『そもそも僕の競技歴は中1で途切れている』『同期ではあるがそれ以降ろくに話したことはない』『問題のある部活の辞め方をしている。好印象はもたれてないだろう』『水泳の話をそもそもしたくない』
加えて。
『尾崎さんとの関係を探られることにデメリットしかない』
面倒だし、これ僕に得ねぇな。
『ひなたのお願いである』
でも頼まれたもんな……。
「こんちはー」
クラス一の優男を探す。僕の記憶よりもそいつは三周りくらい身体を膨らませていた。脱がなくてもわかる、相当鍛えたんだろうと。
奴は突然の来訪者が自分を目掛けてくるのを察すると、気障な笑みを浮かべた。
「こりゃ珍しい客人だ」
「お久しぶり、佐久間くん」
「しばらく会わないうちに、ずいぶん他人行儀だな、ハル」
再会の握手。ごつい手だ。現役のスポーツマンの手だった。
「えっ、ヒロくんの友達?」
「へぇ、タイプ違うね」
「こんち~」
あぁウザい、散れ! 取り巻きども! 佐久間洋は相変わらずイケメンで屈強なモテビジュアルで女子を侍らせていた。
「ごめんね~。こいつと積もる話あるから、ちょっと外してな」
羨ましくなどない。なぜなら僕にはオンリーワンパートナーがいるのだから。机に座った女の子の太ももを肘掛けにしながら談笑するのなんて、なんも……。
「どうする? 場所変える?」
気を利かせてくれるが大した用じゃない。
「構わん、ここでいい」
隣人の席を借り同じ目線になる。
浮き彫りだ。競技に青春時代を捧げてきた男との体格差が。
「…………速くなったんだろうな」
「あの頃は勝てなかったけどな、今は俺も全国狙えるぜ」
まず肩幅は惨敗だった、当たり前だけど。次にお互いの二の腕をチェックする。で、でけぇ……! がちがちで、太くて、水面をより速く泳ぎ抜けるために進化した人間の器官だ。
「はぁ……そうだよな」
「まったく泳いでないのな。どっかで続けてるかなとか期待してたんだが」
なぜだかお互いへこんでしまう結果になった。
「環境がそれを許さなかった。決して、競技を嫌いになったとかじゃない」
むしろ好きで好きで、未練たらたらで。だから続けられてる奴が憎らしく思えた時期もあったくらいで。
「ふーん。ガチじゃなくてもさ、好きなら泳げばいいじゃん」
「……んだな」
来年の夏が来るなら、そうしてみてもいい。
「んで、何用? パス?」
察しがよすぎてびっくりした。
「どしたよ、驚いた顔して。かつての水泳部員が大会前に突然訪ねてきたらまあパス目当てだろ」
「三枚いただけませんか」
「そんなにいるんか」
「事情がありまして。僕が観たいわけではなくてだね」
依頼は快諾してくれた。だがしかし、それで終わるはずもなく。
「で、誰目当てなん?」
「サプライズで行きたいらしいから、お口チャックで頼むわ」
かくかくしかじかする。決して僕の本意ではないことを申しあげつつ。
「へぇ……知佳にそんな人がね。あの子、お前のこと好きだったじゃんか」
「ぐぎぎ」
え、中学の水泳部では共通認識なのかよ。つか確定かよ。
自分で言うのもなんだが、界隈では神童扱いだった。学内でもそこそこ有名だったと思うし、ファンもいた記憶がある。それほど圧倒的だった。圧倒的に、同年代より速かった。
僕は競技にのめり込んでいた。だから気づけなくて、あんな隙を作った。そのせいでひなたを泣かせた。
「大変だったぞお前が抜けたあと。しばらくずっとプールで泣いてたし」
「…………来るんじゃなかった」
過去のこととはいえ。吹っ切れたらしいとはいえ。先日お茶したばかりの女の子にそんな風に想われていたとは。
「尾崎さんだけじゃないけどな。俺も、顧問も、先輩達も。みんな訳がわかってなかったから」
「……すまん」
「謝ることじゃねえだろ。何となくそれどころじゃなかったってのはわかってるよ」
それどころじゃなかったから、僕は周りに対して荒れていたはずだ。キツい言葉なども吐いている。
だからこちらから歩み寄るのに抵抗があったのだ。
なのに水に流してくれている。感謝しかない。
「ま、折角また水泳に関わる機会ができたんなら楽しんでけよ。うち、結構強いぜ」
その話題を遠ざけていた僕でも、この男が部のエースであることくらいは知っていた。
「俺の泳ぎ、ちゃんと見とけよな」
不敵に笑うかつての友人。こちらも意味ありげだが中身スカスカの笑みで返す。すこしだけ、わくわくしてるのに教室を辞してから気づいた。