第一章ー④
なるほどな。あの時期に接点があったとしたら覚えてないのも納得がいく。その上で渚さんが邪推したような、弥彦くんがこちらをライバル視するような秘めたる想いが彼女の中にあったとしても、やっぱり僕にとっては知るかそんなんとしか言えない。
これ以上突っかかってくるなら対処しなきゃいけないな。
「怖い顔してる」
いつものように椅子に座らせ、風呂上がりで濡れたひな髪にドライヤーをかけ梳かしていると、ぼそりと呟いた。テレビを見ながら後ろに立つ僕の顔などわかるはずないのに。
「何が見えてるんだ。今めちゃくちゃエロい顔してるんだが」
「いや怖いでしょそれはそれで」
「このまま襲っちゃおうかなとか考えてるんだが」
「やらしー」
力加減とかこわばりとか意識してないような細かいところで察されてしまったか。近すぎて、共有する時間が長すぎて。僕らはお互いのことがわかりすぎてしまうときがある。気をつけないとな。
「やっぱりなんかあったんでしょう」
「別に。瑣末事だよ」
悟られぬように。より丁寧に、丁重に、髪をほぐしていく。
優しく温風を当てながら櫛を通すと、まるで光の粒を纏っているかのように映る。混じりけもくすみもない艶めいた黒髪。
綺麗だ。世辞も冗談も抜きに。
僕にとってこの子が特別だからではない。贔屓目なしでも、群を抜いて美しいと思う。
宝物なのだ。本人は自覚がないのか、雑に扱ったり縛ったりしてるが。綺麗に維持し、育てていくのは僕の使命とすら思っている。
「髪をくんかくんかするの止めませんか?」
どこまでがシャンプーが付与した香りで、どこからがひなた本来の匂いかテイスティングしていたらストップがかかった。
止められなかったら丸ごと顔を埋めてひな吸いしていたところだった。
間一髪、止めてくれてよかったと思う。
「…………だいま」
「「お帰りなさい、母さん」」
玄関をくぐる疲れ顔の母を見て、僕とひなたの挨拶がハモった。同じ家で毎日寝起きしてるのに、活動時間がとことん合わないせいで顔を合わす機会は少ない。
何日ぶりに見ただろうか。また、痩せたようだ。
「母さん、早いね今日は。おなか減ってる?」
「減ってない。飲まされすぎた……」
店員として客のおごりは断れないのだろう、それが売り上げになり給料に繋がると思えば。ふらふらになっても接待し、相手を楽しませなければいけない。しんどい仕事だと思う。
「いつも遅くまでありがとう」
「ありがとうございます」
水を一杯差し出すとカッと煽ってすぐに空にした。
「親の顔……えっと、あぁ……どこだっけ」
母さんはこめかみを人差し指で何度もノックする。なかなか見つからないのかコツ、コツと叩きチャンネルを切り替えている。
「久しぶり、なんか困りごとはない?」
やがて出てきた穏やかな表情。とりあえず一安心だ。
「大丈夫。ちゃんと暮らしていけてる」
「家事任せっきりでごめんね」
「ううん。僕らまだ、それくらいしかできないから」
「しっかりもので助かる。あ、そうだ……ひな」
「はい」
「あんた志望校決めたの。大学いく金ぐらいあるから、好きにしていいから」
「……ありがとうございます」
疲労でだるそうな母と、緊張しきっているひなた。ぎこちなさで空気がこわばる。
「はる。えと……ひなを守ってあげなさい」
「もちろん」
何もかもから守る。当たり前のことだ。
限界が近そうだ。目の焦点が定まっていない。髪もボサボサだ。こんなになるまで働いてくれて、本当に頭が上がらない。
「母さん、お疲れさま」
「寝る」
「お風呂は?」
「…………あした」
僕は母さんの肩を抱き、布団までの道のりを支えた。転がりこむと同時に寝息が聞こえてくる。服を着替えさせる余裕もなかった。
「……僕らも寝ようか」
俯いているひなたを抱きしめる。激しい動悸が収まるまで、彼女が安心しきれるまで、離さない。
その夜。珍しく彼女の方から甘えてきた。意識が闇に飲まれるまで、僕らは身体をすりあわせていた。
用事があるって言ったのに。
ひなたは強引に僕の休みに合わせてバイトのシフトを代わってもらったようだ。まさかこんなに遊びに行くモチベーションが高いとは思わなかった。
彼女も休みなら、夜の予定までゆっくり散歩でもしたかったのに。お互い休みなのは貴重なのに……ああ、騒がしいのって、性に合わない。
「すとらぁぁぁぁぁいく!!」
「ナイスー!!」
「すごーい」
一撃ですべてのピンを屠った三島は猿もかくやの雄叫びを上げていた。敵チームも同調してウォイウォイ言ってなんか盛り上がってる風だった。あっ、あいつ今ひなたとハイタッチしやがった。
うちのグループが特別盛り上がってるというわけではなく、放課後のボウリング場はどのレーンもやかましい。ガコンガコンウェェェェイ。うぜぇ。
チーム戦である。僕とひなたは敵同士になってしまった。初めて同士と言うことで固まるとまずかったのだろう。
そのひなちゃんだが、どんくさい特性はここでも発揮され5フレーム終わってなお12点と完全にお荷物である。なのにも関わらず、チームメイトが好プレーをするたびに自分の手柄であるように勝ち誇った顔をしてくる。負けた方はジュースおごりなのだ。
あいつは下手くそでも可愛いから許されるんだ。チームも勝ってるし。
「……秋葉、そろそろ頼むよ」
「いえーい」
「がんばー」
仲間たちはもう僕の投球を見てもいない。最初はよかった。僕のへっぴり腰を笑いながら初心者仕草を撮影しストーリーにあげていた。だがそれも僅かな間だけ。見せ場を作れなくて飽きられてしまった結果、もうみんな自分のスマホに興味が移ってしまったのだ。
「ちょっといいとこ見てみたいー」
ひなたの煽りが一番、癪に障る。君は、君だけは僕のいいところ知ってるだろうに。屈辱だ。運動神経は悪くないはずなのに。
怒りに任せて放った球は左の側溝へ吸い込まれていった。
「…………」
ドンマイとか次がんばろーとかないのかお前ら。
帰りてえ今すぐ。
どうせ誰も見てないだろうと両手でも持ってころりと転がしてみる。二本倒れた。だから何だって話だ。
不機嫌のまま待機場所に戻ると、僕の様子がおかしいのか頭がおかしいのか、一人でくすくすと笑っている女子がいる。尾崎さんだった。
「何がおかしい」
「ふふっ、ごめん……はじめてだもんね」
「そうだ。このデカブツを扱うのも、クラスメイトと遊びに行くのも初めてだ」
だからもっと優しくしてくれてもいいじゃん!
「秋葉くんとひなたちゃん、バイトが忙しいんだよね。お疲れ様です」
そう、僕は疲れている。連日激務をこなしながら成績をトップ帯で維持しつつ生意気な後輩を可愛がりながらクラスの親睦会にも出席しているのだからね。だからちょっとボウリングが下手だからって仕方のないことなのだ。
「……この前はごめんね」
「別に。尾崎さんは悪くないだろう」
「でも、弥彦くんを止められなかったし」
いやー思い込みだけで突っ込んでくタイプみたいだし、あれを制御するのは難しいんじゃないかな。
「まあ気合い入れたデート先で、彼女の知り合いがバイトしてたら普通に嫌だと思うし」
「あの……付き合っては、ない」
へーそうなん。
「幼なじみとか?」
「よくわかるね」
距離感ってなんとなくよそからでも見えてしまうものだ。身体の近さ、会話のテンポ、表情等々で。
「それで、弥彦くんはその距離を詰めようと精一杯アピールしてくるんだけど、尾崎さんは彼のことは大事だけど恋愛として好きかって言われるとよくわからなくて戸惑ってる感じのやつ?」
「なんでそんな細かくわかるの……そうなんだけどさ」
「僕にも幼なじみがいるから」
ちらりとひなたを見ると、向こうもこちらを覗いていた。僕だって知人と談笑くらいできるんだぞ。
「ひなたちゃんと、すごく仲いいもんね」
「まあね。長い付き合いだし、色々あったから」
「二人を見てると、本当に信頼し合ってるんだなって感じるよ」
僕らを交互に見比べて、控えめな笑みを浮かべた。寂しそうななんて感想は失礼だろうか。
「……うらやましい」
僕らの関係は、他人が羨むようなものなのだろうか? どれだけの荒波を超えてようやく凪の海原へたどり着いたか周りは知り得ない。
その人たちに今の僕らが“問題なく”映っているのだとしたら、傷だらけになりながら普通の形へ見栄えを整えたのだとしたら、喜ぶべきことなんじゃないか。
「大切な人がいるって、いいよね」
自分に言い聞かせるような声音だった。
尾崎さんのターンが回ってくる。僕らのガチャガチャしたフォームとは一線を画す、流麗な投球動作。
そこから繰り出される球の回転も美しく、放物線を描きながらピンの密集地帯へ。
「--っし」
この子、所作が綺麗だなと思った。直立姿勢から身体の運び方が滑らかだ。
手前から順番にハイタッチしてくる空気だったから、僕も逆らわずにパンを手のひらを重ねる。
「うまいね」
「ありがとっ」
「……なんかコツとかあんの」
「教えてあげてもいいけど、今度、時間くれないかな? 迷惑なら、ひなたちゃんも一緒に」
「相談でもあるのかい?」
「……うん、ちょっとね。忙しいのに悪いけど」
まぁ十中八九弥彦くんのことだろうな。どうして僕が、という気持ちもあるが先日の勢いで今後も突っかかって来られたらたまらない。
むしろここで尾崎さんにアドバイスをし、二人の仲を結んであげることで円満解決に持って行けるのではなかろうか。
「交渉成立だ。早速カーブの投げ方を教えてくれ」
「初心者はね、最初はボウルに慣れることからだよ」
泳ぎ方の前にまず水に慣れろ、みたいな話だった。
最終スコアは36。ひなたより4点も上だったので完全勝利と言える。でもなぜか僕が相手チーム全員分のドリンクをおごる羽目になったのは納得できない。
もっと優しくしてよぅ!
さて、本来僕は今日予定があった。だから遊びを途中で抜ける大義名分があった。ひなたは置いてきた。あれだけ場に馴染んでいれば平気だろう。色んな人と交流することで、新しい世界の見方を覚えればいい。
今ひなたが人生を楽しめているのなら、それは間違いでも嘘でもないんだ。
過去は忘れてもいい。未来は明るくったっていい。
「--白瀬せんせい!!」
待ち合わせの相手を見つけて、僕は駆けだした。
「久しぶり、晴人さん」
何度か間を置いて電話での交流はあったが、直接会うのは何年ぶりだろう。
「……おや、ずいぶんたくましくなりましたね。もう立派な大人の男性です」
「そうかな? 自分じゃわからないや……。先生、今日はお時間を作っていただいて本当にありがとうございます」
「いえいえ。君たちが健康に成長していってるのは、私にとって大きな喜びですから。こうしてまた会えただけで幸せな気持ちになるんです」
握手を交わす。この人の手にどれだけ支えられてきたか。そばにいてくれるだけですごく、ほっとするんだ。
「行きましょう。もうすぐ予約の時間になりますから」
先生に連れてきていただいたのは学生の身分ではとても入れなそうなレストランだった。店構えから調度品、スタッフのたたずまいなどから察するに明らかな高級店で、さらにその奥の個室に案内されて柄にもなく僕は緊張していた。
「さて、大切な友人との再会に」
先生がワインのグラスを掲げる。ウーロン茶で受けるの、恥ずかしいな……。
「乾杯」
料理は今まで食べた中で一番、と断言できるくらいに美味かった。僕もバイト先で調理の仕事をしていて心得がある分、どれだけの手間と技術が一皿に注ぎ込まれてるか朧気ながら察してしまう。値段もべらぼうに高いのだろう。
「晴人さん、そんなに一口で頬張らない」
美味すぎて思わずがっついてしまっていたか。高級店なのにマナーがなってない。でも個室だし、先生も楽しげだし、いいのかな。
「でも先生、このアワビめちゃくちゃうまい」
「お口に合ったようでよかった」
僕には人生において趣味と言えるものはなかった。そんな余裕もなかったから。でも美味しい料理を食べている今は間違いなく幸せで、あと2年もすればお酒も嗜める。いいじゃないか、美味いもの巡りとか。
「いつも気を張りすぎなんですよ。たまには心を休めないとね」
確かに、安らげるのなんて先生といるときだけかもしれない。
「引き込まれてしまうからね、君たちは距離が近すぎるから。あなたも、ひなたさんも、マイナスの感情は相手に影響を及ぼしますよ」
「でもね、最近はなんだか……いい兆候というか」
僕から見ても不思議に映ったひなたの『変化』を先生に伝えると、彼も興味深そうに聞いている。
「晴人さんが結んだ約束を守っているだけでも素晴らしいと思っていましたが、そうか、外の環境まで……」
僕はあの日約束をして、彼女を繋ぎ止めた。雰囲気だけでごり押しした、その場しのぎみたいな契り。
時間制限などなくていい。約束は反故にしてくれていい。
「寛解した、と捉えるのは単純すぎますかね。約束まで日がないからこそ、という考え方もある」
「だから、わかんないんです。とても先のことなんて聞けないし。でも最近、楽しそうにしてます」
「ふふ、今の彼女の笑顔は、間違いなく晴人さんのおかげですよ」
「先生、ひなた笑わないって。いつも無表情」
「そうでしたね」
先生はそう言うけど、僕にはいまいち自信がない。
出会い方が違ったら。あの日、あのタイミングで出かけていなかったら。我が家の選択が違う形だったら。
今の僕らは、全く違う形だったんじゃないか。
この道を辿ってこなければ、ひなたはたくさんの幸せに囲まれながら暮らしていたんじゃないかって、考えちゃうんだ。
「晴人さん。あなたは心の強い人だ。頭もいい。そして、すべて捧げる覚悟までしている」
「…………」
「でもね、あなたも一人の人間なんです。しかも若さ故、自分の力に限界を感じてもいる。あまり思い詰めないで、頼れるときは頼ってください。お話くらいしかできませんが」
「ありがとう、先生」
さっきの仮定を続けるなら、僕と先生は出会うこともなかった。人生は選択の連続で、過ぎていった出来事を変えることはできない。
喪ったものは戻らない。
過去は受け止めて、今ここからどう生きていくのか。
僕は、彼女を死なせたくない。
一秒でも長く、ともに歩いて行きたい。