エピローグ
母が残した遺書には『親失格でごめんなさい』とだけ書かれていた。
苦労ばかりかけてしまったと思う。早く一人前になって、母もひなたも楽させてあげたかったのに。どちらも守る道は僕には選べなかった。
葬儀はひっそりと執り行われた。僕とひなただけの家族葬。あの男には知らせていない、知らせたところで来るわけもないが。
僕にとっては憎き存在でも、母にとっては最愛の人だったんだ。その男に捨てられ、息子も音信不通で、どれほどの孤独を抱えていただろう。
覚悟した上で進んだのだからもう、遅いんだけど。
母さん、ごめんなさい。
僕がもっと強ければ、あなたにこんな選択させずに済んだかもしれないのに。
炎に飲まれて、溶けて、骨と灰と煙になって。
いつか僕らもこうなる。誰一人例外はない。なら、そのときまではせめて、幸せに暮らしていきたい。
旅の経緯をきちんと伝えて、今後も僕らを支えてもらいたいとちゃんと伝えなくてはいけない。
ひなたの主治医であるのに、本人含めて三人で会うのは本当に久しぶりだった。
「まずは、それだけの苦難を乗り越えて、再び生きる選択をしてくれた二人に感謝します……ありがとう」
白瀬先生は両腕で僕らを抱えて引き寄せる。いい年にもなってこっぱずかしいけれど、帰ってきたんだなって安心感があった。
「先生、わたし、今度こそ本当に死んでやろうって思ってました」
「そう思い込む前に、相談していただきたかったな。ひなたさん、あなたは自分を責めすぎるきらいがある」
「でも、いざ死ぬ直前は、やっぱり心が軽かったんですよ」
「なのにあなたは生き残ってまだここにいて、前よりずっと穏やかな表情を浮かべている。なんででしょうかね」
「この人が……しつこいから。わたしが必要だって言うから」
「ひなた、これからは僕のために生きるんだ」
「ほら先生、聞きました? 十代にしてモラ男の素質ビンビンですよ」
「そのかわり僕は、君のために全部を捧げるつもりで生きるよ」
「ね、しかもメンヘラ気質なんです。愛が重いんです。別れるときどうしよう。あまり刺激しすぎるとストーカーになるタイプですよね、はるさんって」
「ひなたさん、ずいぶん気持ちが顔に出るようになりましたね」
「だって、わたしは楽になりたかったのに。はるさんのせいで引き留められちゃったんですから、文句の一つも言いたくなります」
「とっても楽しそうですよ」
「見間違いです。わたし、無表情系ヒロインなんで」
どうやら世界は続いていき、受験なんてものにも真剣に取り組まなければいけないみたい。母さんは僕らが大学まで通うのに不自由ないくらいの額を残してくれた。壁の薄いアパートで、ろくに贅沢もせずただずっと、僕らのために働いてくれたのだ。
だったらその親心に応えるべきだろうと、今更だがひなたに勉強を教え込んでるのだ。
「はるさん、わかんないこれわかんない」
「あのなあ、そんなんじゃ僕と同じ大学なんて夢のまた夢だぞ」
教えている感じではまず無理だろうが、餌をちらつかせてちょっとでも彼女の学力が向上するならいいんじゃないかと思う。
「もう頭がパンクしそう。今日はもういいや」
「よくないだろ」
「知佳ちゃん、めぐてゃ、助けてよ~」
ひなたが救難信号を送るが、友人達は遠巻きに僕らを見ているだけだ。旅行から帰り、やるべきことをやってからようやく学校に復帰したのだが、どうも周りがよそよそしい。
ひそひそ噂話でもしているようだ。まさか僕らの痛々しい旅の顛末が伝わっているわけでもあるまい。
元々浮きがちだったのに、気にしたことなかったのに。一度馴染みつつあった状態からこうして輪の外に出されると、居心地悪くなるもんだな。
「なんだなんだ。クラスメイト諸君、夏休み中一度も遊びに行かなかったからもう仲間はずれか。ボウリングならいつでも付き合うぞ」
冗談めかして言ってみたのに、ろくな反応が返ってこない。女子の間で小競り合いが始まった。誰が口火を切るのか、押しつけ合う様に。
「……あー、ハルくん、ひなたちゃん」
そして尾崎さんが一歩前に出る。彼女はもう昔のように僕を呼ぶみたいだった。
「なんだ」
「二人、その高そうな指輪って……」
「婚約指輪だが、何か」
喧噪が沸騰する。女性陣から黄色い声が上がりひなたはあっという間に囲まれ見えなくなった。あらゆる角度から質問攻めにあい混乱している。
「まさかとは思っていたけど本当にかよ」
「おいおいおいやってんなお前」
「ずっとバイトばっかしてたのこのためかい!!」
僕はと言えばあらゆる角度から殴られ蹴られでサンドバッグ状態になっていた。めでたいなら胴上げとかしろや。
痛え。痛え。けど、間違いなくこの瞬間、僕らはクラスの円の中心にいた。
これまではずっと、ひなた以外は背景同然の認識だったのに。不思議と今は、一人一人と向き合って話してみたい気もする。
それくらいの時間は、あるから。
僕とひなたのことでこれほど喜んでくれるんだから、騒がしいのもまあ……悪くはないかな。
「騒ぎすぎだよな。これしきのことで」
いつもの帰り道、国道の彼方で夕日が赤く燃えている。
「クラスメイトが結婚するってなったら、ああなると思いますけど」
またここを、いつも通り帰れる日々が戻ってきたのだ。
「そうか? 僕らなんて元々、夫婦とか言われてたじゃん」
「あれはずっと二人でいて周りなんか興味なし、みたいな態度のわたしたちを揶揄していたんだよ」
「なるほど。褒められてたんじゃなかったのか」
「ポジティブなところは嫌いじゃない」
「僕は君のネガティブなところが大嫌いだけど」
「じゃあバランスとって。あなたが照らして」
「これから君の歩く道が、明るい日向でありますように」
「わたしたち、日陰者だけどね」
「無理矢理僕が晴らしてあげるよ」
「名前に絡めて上手いこと言った感だすの止めてね」
「手厳しい……」
「はるさん」
「なに」
「こんなわたしですが」
「いやいや僕こそこんなですが」
「これからも、この先も……」
「こちらこそ」
言葉が重なり、笑顔が重なる。
そして手を重ねて、ずっと歩いていく。
僕らの左手には時計と指輪が、夕日を反射してきらきら、光っている。