終章ー④
その一報を受け取ったのは、奇しくも最期の日の朝のことで。
通話を終え部屋に戻った僕を、目を覚ましたひなたは不思議そうに見つめる。
「おはようはるさん」
「…………」
二度とできないかもしれない朝の挨拶にも、しばらく反応できなかった。
なんの因果か、僕らはよっぽど運命に翻弄される星のもとに生まれたらしい。
「はるさん」
「おはよう、ひなた。今日もいい天気だね」
この子は、本日をもって命を絶つ。雲一つない快晴の空の下で。
「うん、よかったよ。とっても美しい日」
ホテルをチェックアウトして、数時間電車に揺られたらもう、始まりの海へと再びたどり着く。
8月も下旬になるのに、浜辺ではたくさんの人が夏休みを楽しんでいた。はしゃぎ回る子供と微笑みながら見守る両親。パラソルの下で人目も気にせず触れあうカップル。男女入り乱れた大所帯でバーベキューする大学生。ビーチバレーもサーフィンも、砂浜での城作りも、全員が笑顔で、輝いていて。
羨ましくて。
むせかえる夏の匂いに吐き気を催す。じくじくと胸の奥が痛む。猛暑は苦しさを倍増しにした。汗が噴き出して止まらない。
なんで、どうして僕らだけこんな……。
「ぱしゃぱしゃしていい?」
「…………あぁ」
そんな青春の海のただ中を、喧噪にまみれた波打ち際をひなたは闊歩していく。足で水を跳ね上げながら、小気味よいリズムで。
「はるさんも」
おとなしく付き従う。横を並んで足跡を刻んでく。二人で歩いてきた証はあっという間に波にさらわれなかったことにされてしまう。
それがたまらなく寂しい。
そうやって世界は、時間は流れてく。誰しも同じ形のままではいられない。わかっている、寄せては引いてくこの波のように、移ろいながら楽しかったことも悲しかったこともなかったことにして。
彼女も飲み込んでいこうとする。
そして僕も、やがて消える。
死は優しく、誰に対しても平等だ。
ひなたは僕と紡ぐ未来への可能性より、なかったことにすることを選んだ。
「繋いで」
「うん」
周りから見れば、僕らこそいちゃつくバカップルなのだろう。成人した男女がぎゅっと手を取り合ってステップを踏んで。
ひなたも笑顔だった。すべての事象が、人々が、晴れやかにここに在る。この海で僕はひとりぼっちだった。
「はるさん」
「…………」
「ありがとう。わたしと出会ってくれて」
子供の頃のような、日だまりみたいなぴかぴかの笑みをくれる。
「……こっちの台詞だよ、ひなた」
もう、終わってしまうんだ。だからこんなに、眩しいんだ。
互いに贈り合った時計が、一秒、また一秒と削り取っていく。夕食を終え、広縁で二人月を眺めている。感傷に浸っている暇などない。なんとかして彼女を翻意させなければ、あと数時間で旅立ってしまうつもりだろう。
「不思議だ。とても穏やかな気持ちなの」
彼女は自分を赦してあげられなかった。だから消えることで救済を求めた。
その結果か、強張ったところ一つない、リラックスした振る舞いだった。
「後悔はないの?」
対してこちらは神経をすり減らしている。言葉一つ誤っただけで、僅かな望みも手放すはめになるだろう。
「あるんだけど。たっくさん……あるんだけどね。でも歩いてきた道だから、こういう形でしか生きてこられなかったから。全部仕方のないことで、運命だったんだよ」
後悔に塗れた、苦しいばかりの人生だったと思う。
選択の連続で悪い目を引き続けたような。そんなことばかり続くと、前を向く気力すら奪われてしまうんだ。
「僕はずっと思い返しているよ。一緒に過ごす時間の中で、もっと上手に君を笑わせられたんじゃないか。過去を忘れてしまうくらい楽しい日々を送らせてあげられたんじゃないかって」
「もう充分だよ。充分貰ったから、あなたがいてくれたから、わたしはここまで生きてこられたんだから」
死を容認することでしか、彼女に笑顔を取り戻すことはできなかった。事件で失った表情もこの旅の中で、未来を諦めたから返ってきたものだ。
「この先は、ないのかな」
「あなたは幸せに生きて。…………あの」
目の前に急に、知らない女の子が現れる。
頬を赤らめて、恥ずかしがっている表情など浮かべたことないくせに。僕がどれほど愛情を注いでも、無表情で受け流すくせに。
「ちゃんと言ったこと、ないから。あの……えと……愛して、ます」
これで終わりだから、そんなこと言うのか。
「はるさん、あなたのことを、愛してました」
僕との思い出は過去にして、逝ってしまうのか。
「ありがとう。わたしの……大好きな人。本当にありがとう」
まっすぐな瞳と湿った声音が胸を打つ。絞り出した、といった様子の彼女は僕の反応を待っている。
「……っ」
何もかも納得してしまいそうだった。一番最後に一番の思い出を貰って、僕は彼女の旅立ちを見守る。いつ終わるともしれない苦しみからひなたは解放され、安らかに世界に溶けていく。結末を受け入れてしまいそうになる。
「……僕も」
でも、終わるんだとしても、こちらからも贈り物が残っている。
「僕も、愛している。ずっとずっと、自我が芽生えてから今日まで変わらず、ひなたのことを愛している」
想いと想いは重なった。人生で最も満たされる瞬間だ。
言葉は彼女に勇気を授け、空を翔る翼をもたらした。
「はるさん、それじゃあ……」
けど、このまま飛ばせてやるものか。
「……だから、僕と結婚してください」
ポケットに入れておいた、ずっと隠し通したプレゼント。誕生日にネタが被ってしまったことで新たに用意した、僕の気持ちの結晶。
小箱を開く。彼女にはどのように映るだろう。
永遠を誓約する指輪が、一対。
「僕らもう18歳だから、自分の意思で人生を選べるんだよ。だから僕と、一生共にいてください」
長い永い時が流れた。相手を見つめるのに必死で時計を確認することもできなかったが、しばらく彼女は固まっていたと思う。
止めるなら、約束を結ぶしかなかった。
僕を愛してくれているなら、その気持ちに賭ける。
「僕は生涯君に与え続ける。君は、隣でずっと、君は……」
おいおい、一世一代の告白だぞ。格好つけろよ。詰まってんじゃねえよ。
「僕を……隣で、支えてて欲しい」
ダメだ、溢れてきちまう。自分のことを理性的だと思っていたのに。常に冷静でいて、この子を守れるよう強くあろうとしてきたのに。
「僕は、ひなたがいないと……生きていく自信がないんだ」
まさしく共依存じゃないか。寄り添いすぎて、支えを失ったならたやすく頭を垂れる細い枝。
「こんなみっともない僕を……助けて欲しい」
用意していた台詞ではない。もっとクールにスマートに決めて、ひなちゃんを感動させてハッピーエンドにするはずだったのに。
「だから逝くな……! そばにいてくれよぉっ」
死ぬのはひなたのはずなのに。
震えているのは僕で、置いてきぼりにされるのも僕で。
自分一人では運命の荒波を泳いでいけないから、駄々こねるように縋って。
救いの手を待っている。
「あーあ」
月光が影を落とす、俯いたひなたから心は読み取れない。
「ここまできて、言っちゃうの……卑怯だよ」
「こうするしか、ないと思った」
「……必要とされてるみたいじゃん。わたしがはるさんに」
「最初からそう言ってる」
リングを手に取り、物珍しげに眺めてから、左手の薬指へ。
「……あなたもつけてよ」
誓いの輪をそれぞれの手に。そして、絡め合う様に、指を重ねた。
「いいセンスなんだよなあ」
「喜びそうなものくらいわかるよ」
「お金の使い途は考えて欲しいよ。こんな奮発しちゃって」
「ひなを繋ぎ止められるなら、安いくらいだ」
「高校生には過ぎた物だよ」
「卒業までなら待ってもいい。そしたら、一緒に二人で暮らそう」
世界を見渡せば、僕らには想像もつかない過酷な環境に身を置く人々がいて、それに比べれば僕らの味わった不幸なんてきっと大したことなくて。
生きたいのに生きられない人が山ほどいて、自ら命を投げようとするなんて甘えに他ならない。
何より、僕らにはお互い支えになる愛する人が隣にいた。
これが幸福でなくてなんなのか。
「だからもう一回、約束を結ぼう」
死んでしまいたいくらいの絶望の中からでも、人はきっと未来の光を探せる。
僕はそう信じる。
そして、ひなたは--
「ありがとう……次に生まれてきたら、絶対、あなたのお嫁さんになるから」
僕に決定的なさよならを突きつけた。
「だから……それまで、待っててくれる?」
誓いは立てられた。新しい世界で出会ったとき、必ずお互いを愛し、次こそ結ばれる運命を歩もうと。
「うん……また会おう。次こそはきっと、笑顔溢れる毎日を送ろうよ」
「約束、ね」
「あの……あまり見られたくはないかも」
鬱蒼とした夜の森を抜け、まだ暑熱の残る夜の坂を登ると、一際開けた崖沿いに出る。右手には灯台が月に照らされぼーっと突っ立っている。やはりここが彼女の選んだ場所だった。
「いやだよ。そのわがままは聞けない」
「あなたがいると、後ろ髪をひかれる」
「いいんだよ。怖くなって引き返しても構わない」
「うぅー」
草の茂った道を一歩一歩確認しながら、目の前の大地の先端へ歩み寄る。高さはそれほどでもないが、下は岩礁になっておりぶつかって深みに嵌まれば浮上するのは難しいだろう。
「はるさん、本当にありがとう」
「こちらこそ。向こうに行っても元気でいてね」
「お母さんと仲良くね」
「…………」
ここに至ってなお伝えるべきか迷っていた。彼女の決意を尊重するなら、余計なことは言うべきではない。
知らないまま旅立てた方が、きっと幸せに終われるだろうから。
「家族なんだから。大切にしてあげて」
僕は二人を選ばなければならないとき、必ずひなたの側に立った。母にはとても感謝をしているが、ひなたを害する恐れがあるなら遠ざけてきた。
「お母さんに、代わりに謝っておいてほしい……わたしが消えたらまた、元気になってくれるかな」
それもまた、ひなたにとっては辛い光景だったのだろう。自分が原因で、僕と母が対立するのが苦しかったはずだ。
「あと、ありがとうって。わたしを引き取ってくれて、大人になるまで……育てて、くれて……」
あれほど傷つけあっても、ひなたにとっては育ての親だったのだ。
やはり、ちゃんと伝えるべきなのだろう。
「……ひなた、母さんは、もういないんだ」
「……なん」
「病院から今朝、連絡があったんだ」
僕に事実を伝えた医師はとても憔悴していた。精神を患った入院患者が院内で自ら命を絶ったとなれば、責任問題にもなりかねないのだろう。
「……首をくくっていたらしい。病院のトイレで」
「うそ」
とても信じられないのか目を丸くしている。
「電話だけだから細かく状況はわからない。こんなタイミングになったのも、恐ろしい偶然だと思うよ」
まったく同じ日に、二人揃って命を絶とうとしていたなんて。
「なんでっ」
「わからない。けれど、もう嫌になってしまったんじゃないかな」
母さんは、僕が殺したようなものだ。
心が壊れてしまいそうなとき、真っ先に寄り添うべき僕が母を見捨てて、ひなたと共にいたのだから。家で暴れてから結局、一度も言葉を交わすことはなかった。母は最期までひとりぼっちのまま、逝ってしまった。
「いつまでも忘れられない。過去に囚われ続けることに、疲れてしまったんだと思う」
一度引き裂かれて生まれた溝は、ついぞ埋まることはなかった。
あの日の光景がフラッシュバックするたび、積みあげた信頼は崩れ再びゼロからやり直す。そんな日々に限界が来たのだ。
「だったら……わたしが」
膝からくずおれる。やはり伝えるべきではなかったのか。結果が変わらないなら、あのまま、楽にさせてあげるべきだった。
「もっと早く、死んでれば……」
「ひなた。それは違う」
「そしたら……あなたは今も、お母さんと一緒に」
「ひなっ」
頭を抱えてうずくまる。急いで駆け寄り抱きしめた。苦しそうにうなっている。やばい、落ち着かせなきゃ。
「君は悪くない。絶対悪くない」
「わたしが殺した……」
「違うっ! ひなた、しっかりして」
「パパも、ママも、お母さんも……」
「大丈夫、大丈夫だから。僕がそばに--」
「いぁぁぁああああああああ!!!!」
錯乱した人間はこれほどの膂力を持つのか。信じられない力ではじき飛ばされ、みっともなく尻餅をついた。
さっきまで見送るつもりでいたのに。なんでそうしたのかはわからない。
このまま終わらせてはいけない気がしたんだ。
起き上がる。間に合うか。
崖に向かって疾走するひなたを追って、僕もよろめきながら草を踏み加速する。
「もうやだ……ぜんぶ、終わりに……っ!!」
飛翔する。ひなたが海に還ろうとする。
「ひなたっ!!」
彼女は泣いていた。このまま死なせたら、きっと後悔するだろうから。
行かせない。
僕も踏み切る。彼女より数段強く、勢いをつけて。
何度か遊びでやった高所飛び込み独特の浮遊感。でも下は当然プールではない。
はは、ノリで僕も飛んじゃったよ。やばいかなぁ。死んじゃう?
やけに現実感がないし、景色がスローで流れていく。
水平に飛び出したおかげで、ひなたの身体は捕まえることができた。
仮に死ぬのだとしても、僕ら一緒だ。最期まで一緒だ。
水面が近づいてくる。なんとか脚から落ちなきゃな。ひとまずデカイ岩は避け--
衝撃が、