終章ー③
ひたすら北上するこの先に、目的地があるのだろうか。
電車に乗っているだけの時間が増えた。車窓からの景色をぼーっと眺めている。降りるかと聞いてみると頷いて、駅の周りをちょろちょろしては次の電車を待つ。
「何か見つかった?」
「青い海。抜けるような青空。青臭いカップル」
「眩しいね」
「みんな楽しそうだねえ」
夏は速度を増していく。一回りしたあと僕らはどこに向かうのだろうか。このまま東北の果てでターンしたら関東へ戻る旅程になる。
「たくさん思い出できたね」
また一枚、ぱしゃり。ホームでアンニュイに佇む美少女。
お返しのつもりかひなたもこちらにカメラを向けてくる。
「あ、知佳ちゃんやった」
そこで通知に気づいたのだろう。
「どうかした?」
「めちゃくちゃ匂わせしてる。弥彦くんがプレゼントしたっぽくて、SNSにあげてる」
あの日三人で応援に行ったのがもうずいぶん昔のことに思える。
思い返せばバイトばかりしていた高校生活で唯一、記憶に残る出来事だった。ひなた以外の人とあれほど深く関わることなどなかったから。
「弥彦は男になれたのだろうか」
「多分もう進展してる。はるさんキューピッド」
どうなんだろうな。僕が引っかき回した気もするし、雨降って地固まるの雨役だった気もする。
「わたしね、知佳ちゃんにあのあとすごく謝られたの。二人の邪魔してごめんねって。はるさんのこと好きになるのなんて、あの子の自由なのにさ」
「謝ってばっかりだな尾崎さん」
「わたしに遠慮することないのにー」
いずれいなくなるのだから、好きなら好きでいい。そう言いたげだった。
「それはさ、ひなたと仲良しでいたかったからじゃないの」
「どゆこと?」
「だから、正妻のひなたがいるのに好きになっちゃって、想いを伝えてごめんねってこと。無理だってわかってるけどどうしても言いたかったんだ。だから許して。私のことウザがらないでねってことでしょ」
「なる……そういうのがあるんだ」
「友達は大切にしなさいよ」
寂しくならないのだろうか。最近はクラスでもみんなと仲良さそうにしてたのに。
「あなたも、弥彦くんいじめちゃダメだよ」
「そんなことしないよ。いい子たちだったからね、二人とも」
「未来に幸あれ、だね」
スマホをしまい込んで、電車に乗り直す。プラジュを任せてきた後輩の生意気で小憎たらしい顔が脳裏に浮かぶ。
まっすぐな、どこまでもまっすぐな二人だった。
きっとこの先も末永く、共に過ごしていくのだろう。
羨ましいと思ってしまったのだから、いよいよ僕も受け入れつつあるのかもしれない。
「なんとなく北の方は漠然と涼しいと思っていたよ」
「8月の日本に避暑地など高所以外なくないか」
そりゃ地元よりは幾分かマシなんだろうけど、昼はやっぱりどこも暑い。
「富士山、登っとくべきだったかも」
「今からでも遅くないな。新幹線解禁すれば今日中に到着できるぞ」
「ああいうのはさ、バスツアーで座ってるだけで名所に連れてってくれて、五合目で弁当食べて登った気になるくらいでいいんだよ」
「10代のくせに枯れ木のような思考回路だ」
「わたしにハッスルを期待しないでー」
いや僕も登ってみたい気持ちはあれど、下りダルいなとか思ってるから同レベルか?
「疲れちゃった? ずっと座ってるのも」
「…………まぁ、アクティブがないからね」
一日中鈍行に揺られて、たまに降りたらストレッチして、宿に着けばあとは寝るだけ。出発してからずいぶん経ち、美味しい物めぐりもお財布と相談しながらになってきた。
「遊園地とかないかなあ」
「そういう旅じゃないんだよ」
「ひなたって絶叫いけるっけ。絶叫してる姿が想像つかないんだが」
「ここで怖い~、とか言えたらいいんだけど。別にって感じだよ」
だよね。そうだと思った。
「でも、メリーゴーランドは乗りたいかも」
「意外」
「だってわたしって、白馬に乗った王子様に助けられちゃった系ヒロインでしょ。解釈一致だなって前から思ってたもの」
お前は僕を美化しすぎなんだよ。尻に敷くくらいの扱いでいいのによ。
「実際は海パン一丁で救いに行ったわけだが」
「うわださいね。10年の恋も冷めちゃう」
「10年間ずっと同じ人を好きってすごくない? 僕はもちろん出会った瞬間一目惚れだったから年期が違うんだけどな」
「はるさんってさあ、初めてあったときお母さんのスカートの中にずっと隠れてなかった?」
「それって三歳とかの話? いや覚えてないんだがマジかよ。僕にそんなシャイボーイだった時代があったのか」
「覚えてないのに出会った瞬間一目惚れ……」
「うそうそ物心ついてからの話よ。僕、四歳で人間としての自我が芽生えたから。以前の記憶ないから」
「四歳というとあなたが幼稚園の砂場でお漏らしして大泣きして……」
「僕そんなことしてたの!?」
衝撃すぎて思わず大声が。電車内だということを失念していた。
「……覚えてないなら、見栄張らなくていい」
ひなたがホラ吹きの可能性を考慮して記憶をロードしてみるがエラー表示がでた。うわマジで記憶にねえじゃん。
では最古の記憶はとたぐり寄せると…………。
「……お風呂」
ひなたとまだまともに喋ることもできなかったのに、一緒にお風呂に入れられた記憶だ。おそらく小学校に上がる前。
「それが始まりの記憶? エロガキ……」
「いや、それ以前は……会うたびに緊張してた気がする。でも、そのお風呂をきっかけに仲良くなったような」
昔の僕は緊張しいで人見知りだったと聞いている。一方ひなたはと言えば、プラスマイナスどちらの感情も思いっきり表現する元気いっぱいの女の子だった。今の性格からは想像もできないほど。
「そうだね。あのときのはるさんに性への欲求があったとは思わないけど、いっぱい触られたもん」
おいおいやべー奴もいたもんだ。それだけのことをしておいて朧気な記憶しかないとか。
「昔から変わらないんだね。わたしのどんなところでも舐める」
「舐めたのか幼少期の僕」
「わたしがいなくなっても、誰彼構わず舐めちゃだめだよ」
「人を妖怪みたいに言うな」
やっぱり僕、その頃からこの子のこと好きだったのでは? 接し方がわからなかっただけで。
昔の話に花が咲く。けどそれもある一点を境にぶつりと途切れてしまう。
欠損を意識せずにいられなくなる。点在する楽しい思い出も、楽しさ以外の感情の方が大きくなって。
ここまでだね、と言って寂しげに彼女は微笑んだ。
いよいよ東北地方を列車は脱しようとしている。焦っているのか。いざ命を絶とうとするとすこしは躊躇するのか。当初の予定ではこれほどの時間をかけるつもりはなかったのだろう。
求める結果が得られないまま帰宅することを、彼女は認めやしないだろう。なんとしてでもこの東日本沿岸で終わりにしようとするはずだ。
「ねえひなた、ここだ、って場所が見つからなかったらどうするの?」
「……んぅ」
「僕さ、今回の旅、はっきり言うと結構楽しかった。半月以上かけて本州巡ってさ。知らない土地、食べ物、言葉に触れてさ。同じ国の中でもこんなに違うんだって」
結末が変わらないのだとしても、こうして最期の時間を共に過ごせたことは宝物になるだろう。
「今までの人生、お互い、辛いことが大部分だった。でもさ、それだけじゃないんだよね。嬉しかったこと、生きててよかったなって感情もあった。それは多分、君が隣にいたからだよ」
「……わたしも、おんなじです」
「積み上げていけないかな? 小さな安らぎや喜びも掻き集めて、傷を塞ぐように生きていけないかな」
もういい加減、説得なんて聞き飽きてるはずだ。その気になられたら本当に止める間もなく溶けていってしまうだろう。この暑すぎる夏の海に。
「できたら、やってると思う」
「僕は、ひなたがこの先も進んでいけるなら、なんだってしたいよ」
「だからそれがさぁ……」
「重い?」
「何度も言ったように、重苦しいよ。あなたのすべてを貰っておいて生きながらえたわたしに、わたしは価値を感じられない。だからはるさんは、自分の人生を進んでいってほしい」
やっぱり堂々巡りだ。意思は硬い、というより、自分を否定することが染みついてしまっているのだろう。
「ここだって場所は、決めたの。いや、これだけ旅してなんだよって思うかもだけど、最初の海」
というと、出発の日に泊まった旅館近くの海か。
「色々見たけど、しっくり来るというか。比べた結果、だけど」
駅前の浜辺というより、森の奥から抜けられる岩場地帯のことだろう。旅館の裏から坂を登れば灯台があって、その脇から見下ろせる岸壁に打ちつける波は結構な勢いをしていた。飛び降りるつもりなのか。
「だから、最終的にはあそこに戻りたい。最期にまた泊まって、わたしを終えたい」
まるで、旅の途中の僕の繋ぎ止めなど無意味であったかのような。
結末は用意していたと言わんばかりに。
「手を握っててほしい」
震えてんじゃねえよ。怖いんだろ。誰も君にそうしてくれなんて望んでない。僕もクラスのみんなも白瀬先生も母さんだって、みんなひなたに生きていて欲しいはずだ。
「あそこに着くまで、今は覚悟の時間にしたい」
明後日には電車は首都圏へと舞い戻る。もう時間がない。いつ終わるともしれない旅についに期限が切られた。
僕にも覚悟を決めろと。
力ずくでも拘束するのか。
彼女の望みを一番に考えるのか。
最期まで、共に行くのか。
「はるさん、わたしのわがままに付き合ってくれてありがとう」
いや、まだ希望は残されている、と思いたい。
再び、約束を結ぶ。
もうこれしかない。