終章ー②
「免許取っとけばよかったね」
「東京から離れるほど痛感するね」
十分に一本電車が来るのが当たり前の世界から、ついに一時間に二、三本程度までやってきてしまう。これだけで不便に感じてしまうのに、泊まろうとする宿や行ってみたい景勝地が、軒並み駅から離れているのだ。
電車がその間隔ということは、それらの場所へ向かうバスはもっと間隔が空いていて。
「急ぐわけではないからいいんだけどさ」
「乗ったら帰ってこられない。逃したら終わりって不安があるね」
車があれば、こんな思いしなくて済んだのに。
「青春っぽいね、わたしたち」
「受験を前にして舐めてるよな」
一般的な高校三年生は今頃、夏期講習で追い込みをかけてるというのに。
「いいよはるさんわたしを置いて帰っても」
「また泣きじゃくられたらたまらん」
「あれはー……」
プラジュでの出来事は、ひなた的にも不覚というか、みっともないところをお見せしましたって反省しているらしい。
そう思えるのも、やっぱり安定してきたからで。
「怖かったんだよ、とっても。やっぱり依存ってよくないね」
「誰にでも、苦しいときはあるから」
「理解ある彼クンだなぁ」
一時はどうなることかと追い詰められたが、旅行に出てからは僕も眠ることができている。お互いあそこに留まっていれば朽ち果てていたかもしれない。
「暑いねしかし」
「今日の宿ってどこ?」
「まだ決めてないけど」
ひなたの死に場所探しなのに、彼女は旅程を自分で組んでくれないのだ。おかげで僕は時刻表とガイドブックを交互に睨めっこしつつ予約サイトでホテルを探している。
「お腹すいたね」
「いいことだ。生を実感できる」
「ここの名物なんだろな」
でん! っとスマホをかざして見せる。
「うなぎ」
「食べたいの?」
「……わたしが払うから」
お互いほとんどの貯金を引き出して合算しただろうに。どっちが、とかないのよ。高校を出たらすぐ家を借りる。未来がある前提の野望があったのだがもう、無理そうだな。
それにひなたが回復してきた前提でデカイプレゼントを買ってしまったため、想定より予算は少ないのだ。
「贅沢は初日だけ、って話じゃなかったか」
「うぅ……」
終わりが早くなるだけなら、無駄遣いは避けたいところ。
「はるさぁん」
なんだけど甘えられてしまうとどうしても弱い。きゅっと小指をつままれて可愛い声出されたら厳しくするなんて無理だよう。
僕は次の瞬間には食すべき名店を検索していた。
思い出に残る、思いとどまるくらいの、美味いもん探しに行こう。
城を観たり。神社を参拝したり。各地を訪れるたび、名所と呼ばれるところには一旦顔を出す。青春切符が使える期間でよかった。夏の逃避行は続く。
神宮近くの横町でうどんを啜るひなた。
初めて拝むパンダに圧倒される姿。
大都市圏に差し掛かると急に人が増え、迷子になりかけたり。
今まで通りの生活では見られなかった一面を、たくさん写真に残していく。
進むほど、彼女は表情を取り戻していくようだった。母との事件直後、家で抜け殻のようになっていたのに、ずいぶん回復してきた。
「わたしこういう街並み、好きだな」
「滞在したくなったら言ってね」
いわゆる美観地区と呼ばれる整えられた区画。まるでドラマの登場人物になったかのように錯覚する。
一週間以上かけて自分たちの住む街からここまで。太平洋側をぐぐっと沿うように巡ってきた。
「色々比べてみたいから、もうちょっと世界を回りたい」
海に執着する理由はわからなくもない。彼女なりの条件、というか波長が合う場所を探しているのだという。海岸に降りてみては首をかしげているから、何かしらこだわりはあるんだろう。
覚えているのかいないのか。彼女が両親を亡くした海水浴場はすでに通り過ぎているのだけど。
「四国と九州は回るの?」
「……名物なんだっけ」
こいつ……飯と銘菓で行く場所決めてやがる。
僕がそれぞれのエリアでめぼしい物をあげると、脳内でグルメツアーを始める。楽しみが増えるのはいいことだけれど。
「本州だけでいいかな、とりあえず。全部回ろうとすると時間もお金も足りなそう」
「じゃあ端まで行ってから日本海側に抜けようか」
「なんかあっちの方が物悲しいイメージあるよね。海の感じが」
「そういうのが理想なの?」
「そだね。ひっそりと寂れてて、わたしの心音と波の音しか聞こえないような場所がいいかも」
「今は海水浴シーズンだから、どこもやかましいだろうに」
「邪魔されたくないな。誰にも知られず、溶けていきたいな」
「じゃあ冬まで待ったら。その方が人いないし」
「たしかに。わたしのイメージ冬の海だね」
「温泉も気持ちいいしさ、とりあえず夏は下見で、冬にまた来るとかいいじゃない」
諦めが悪いとか思われてるんだろうか。困ったような笑みを浮かべる。
「はるさんごめんね」
謝るくらいなら考え直せ、馬鹿。
「ぅあ、ああぁ……!」
毎夜毎夜、彼女を抱いていた。夏休みも半分が過ぎ、もはや避妊なんかしていない。直接子種を注ぎ込んではいっそ宿してくれと思う。それが判明するまでには日数が足りないが、新しい命が宿ったなら違う道も選べるんじゃないかと思う。
「けだものさんだね」
「ごめん、止まらなくて……やだった?」
今晩だけでもう三回。いくらでも無尽蔵に湧き出す愛情と欲求。負担になっているなら我慢しないといけない。
「やじゃないよ。いやなわけないよ」
お互い汗だくだ。息も動悸も荒くなり、夢中になっていたのは彼女もなのだと知る。
「繋がってる間は麻痺していられるから」
僕の腕を枕にして身体を寄せてくる。
「満たされてるんだ、わたし。そんな自分が許せなくもあるけど」
「幸せならそれでいいじゃん」
「一時的に輸血されてるようなものだよ。あなたがくれる血が、わたしを生き延びさせる。でも貰いすぎはさ……よくないよ」
「いくらでも、何度でも、あげるけどねえ」
それで僕に痛みが伴うのだとしても。
「ごめんね、普通の女の子と普通に付き合ってたら、こんなに苦しい思いしなくて済んだのにね」
「気づいたら僕ら、こうなってただろ。普通に付き合うとかわからん」
普通じゃないからって、幸せになれないとは思えない。
「そりゃ苦しかったことも捨てなきゃいけなかったものもあったけど、それ以上に、君といることで……」
「それは依存であり、洗脳だと思う。あなたは自分の心を騙して、わたしを救う役目を自らに課すことで、失った物から目を背けるようにしてる」
言い返したいのに、的確だ、とも。自分をいざ客観視したとき、彼女の言い分はこちらの心根を捉えていて。
「もっと責めてくれていいのに。その方が、わたしも居心地がいいもの」
「……僕の内心を勝手に決めんな」
「嫌ってくれていいよ。離れていっても、いい。だって、それが自然だと思うから」
「こんなに大事にしてるのに、伝わらない。ままならないもんだね」
「対等で、あなたを支えられる女の子になりたかった」
左胸が締め付けられる。雫が頬を伝って僕の腕まで濡らす。悔しさと無念と、どれほどの絶望が込められているのだろう。
「ただ、好きになった人の隣で……笑ってたかっただけなのに」
いいよ。そうしろよ。今からでも遅くねえよ。
僕らまだ、大人に片足突っ込んだくらいの年数しか生きてない。
ここまでの18年が最悪だったとしても、まだまだこれからだろ。取り返せるって。
だからそんなに、苦しそうに泣くなよ。
「どうして満たされた気持ちのまま、生きていけないんだろう」
ここで救いを差し出すような言葉を持ち合わせていれば。どんなに歪な形でも、生きていてくれるだけで幸せなんだって伝えられたら。
この子の涙を止められるのに。
結局、彼女が彼女自身を赦してあげるしかないのだろう。
罪の意識にまみれた心に、優しさは毒になるのだ。僕が赦しを与えても、ひなたは自らを罰しながら削れていく。
方法は一つだけある。そうすれば僕らきっと救われる。
僕たちはずっと寄り添うように生きてきた。
ならば終わらせるのも、共に。最期まで共に。
「ひなた……」
一緒に溶けて、海に混ざって消えよう。君がいない世界なんて考えられない。それなら、僕も隣で、旅立ちたい。
口にする直前で思いとどまる。この言葉を吐いたならきっと、彼女は人知れず消えていってしまうだろう。
僕の命を賭け金として乗せたなら、そうさせまいと卓から降りるだろう。
何も言わないまま、僕の前から、いなくなる。
「…………おやすみ」
結局、彼女が泣き疲れて眠るまで、背中を撫でてあげることしかできなかった。