終章ー①
明確な目的地は設けていない。期限は夏が終わるまで。気の向くまま、線路の続くまま、ボックス席に陣取って知らない土地へと運ばれていく。
「ひなたそれちょうだい」
「いやだ。人生最後のプリッツだぞ」
「重いって言い方。あとでまた買ってあげるから」
「ノルマがあるんだ。きのこもたけのこものり塩も。まだまだ食べ納めないといけないんだ。プリッツはここでさよならなんだ」
「そんなにお菓子愛してたっけ」
「だって、居候の身ながらおうちでお菓子ばくばく食べるのも気が引けるでしょ。我慢してたんだよ」
「言えばいくらでも買ってあげたのに」
「わかるでしょ。あんまり出過ぎることなく、というかさ。恵まれてるんだよ、わたしは。身寄りがないから施設行きでもおかしくなかったのに。多くを望みすぎてはいけないんだ」
この旅に出ることが決まってから、表面上はひなたは落ち着きはじめたように見える。むしろ、よく喋るようになった。ここに母親がいないからとか、ようやく終われるという安堵もあるのだろうけど。
「あなたといられただけで、わたしは幸せだったんだ」
「じゃあ死ぬことなくね。このまま二人で暮らそうぜウォイ」
あえてチャラい口調をチョイスした。
「わたしがいなかったときのあなたの輝かしい未来を思うと、それはできないよ」
君がいなかった世界なんて、僕は考えたくもないよ。
「わ、富士山おっきいね」
「登る? 夏だしいけることない」
「はるさん、そんなコンビニいく? みたいな感覚で富士山登れないよ」
「いや経験したいならしとくべきだろ。僕らはまだ若いんだから」
「絶対途中で力尽きちゃう。ぼろぼろだもんわたしたち」
「今日は早めに宿にいこうかね。温泉入ってゆっくりしよう」
傍目には、普通のカップルが夏休みに旅行しているように映るだろう。僕もあえてそういう空気を意識して作って、楽しい思い出を残したい。
何年か経って、そういう旅に出たよねって笑いながら振り返れるような。
そこそこの資金があるとはいえ、毎日豪遊するわけにはいかない。それでも、最初と最期くらいはいい宿に泊まろう、という話で纏まった。
「うわぁ部屋付き露天だ。めっちゃいい部屋だ」
「今夜は寝かさないからね」
「……ほんと男子ってサイテー」
いやこんな離れの素晴らしい和室に一泊だぞ。そりゃ期待もするだろうよ。
二人揃って旅行慣れしてないせいで、部屋のあちこちまで覗いてしまう。10畳間が連なっていて二人で過ごすには広すぎるくらい。
寝室側にはすでに布団が並べて敷かれている。連日の疲れが抜けきっていないせいで今すぐゴロンしたい。
「どうする? 先に大浴場いく?」
「とりあえず、部屋のでひとっ風呂浴びて浴衣に着替えよう」
庭に大きめの壺型風呂が配置されている。湯は溢れんばかりに張られていて実に気持ち良さそうだ。夏の露天だとすぐにのぼせてしまいそうだけど構わず二人で身体を沈める。
「あぁぁぁ……」
「ふぃい、生き返りますねぇ」
とても死出の旅路とは思えないくらい弛緩している。いいさ、ずっと張り詰めてきたんだ。この様子だと突発的にやらかすこともなかろう。今日くらい、緩んでも、許されるだろ。
「おや……」
「あのさぁ……」
あのね、僕の不謹慎な部分がね、自己主張し始めちゃったんだ。それどころじゃなかったから最近はおとなしくしてたんだけど、そのせいもあってかとっても元気に顔を出したんだ。
「夜まで待てないんですか」
「いやいやこれは面目ない。これそこの者、鎮まりたまえ」
可能な限り紳士に振る舞いつつ冷静になれと命じる。いや無理だろ愛する人と一緒に温泉やぞ。男ならこうなるだろうが。
「仕方ないなあ。立って」
「いやもうたってますがな」
何を言っとりますのヒナタサン。
「……はやく」
いや立ったら目の前にボロンしてしまうんですが。すでにスキンシップを超えた触り方にとっても期待してしまってるのですが。
「……愛してる」
お湯を波打たせて起立した。当然、馬鹿息子はひなたの前で存在証明をしている。
「……ボロンしながら囁かれてもなぁ」
夢心地だ。もちろん頼んで何度もしてもらったことはあるが、彼女から積極的にとなると数えるほどしかない。
熱のこもった奉仕だった。もうこうすることもないだろうから、ってことなのかな。食べ納めだとしたらちょっと悲しい。
「温泉味がする」
はるさんの味じゃなくて期間限定フレーバーだったようなので、是非通常の味ももう一度ご賞味いただきたい。
「んぁーむ」
飲み込まれていく。ひなたの喉の奥へ奥へと。窮屈さは快楽とイコールで、苦しそうではあるが僕を悦ばせようとがんばってくれている。
久しぶりである。燃えるシチュエーションである。だからあっという間に達してしまうのも仕方の無いことなのだ。
「くぅ……っ」
浴槽に零すわけにはいかないからか、ひなたは丁寧に全部受け止めてくれる。
「……にげ」
今にも路上に唾を吐くヤンキーみたいに口から出してしまいそうだった。
「ごめんて」
「愛がないと無理だよねこれ」
「ほんとひなちゃん愛してる」
「すこしは落ち着いた?」
正直言うとこのままがっついてしまいたいところだがとても言い出せる雰囲気ではなかった。僕は愛しい人の頬を撫で奉仕を労う。
「ありがとう、ひな。すごくよかったよ」
「温泉入りにきたのに何してるのか。あーあ」
ちゃんと満喫してんじゃん。身を投げるためじゃないんかい。
「なにその不気味な笑みは」
「なんでも。貸し切り風呂もあるみたいだから、あとでいこう」
別注料理なんかも追加して贅の限りをつくす。アワビはやっぱ焼きですわな、刺身に比べて風味が段違いですよ。ひなたは舟盛りを掲げてきっちり記念撮影していた。
もう食えないってくらいご馳走を堪能し、僕は家から持ち出してきた酒を掲げる。
「あ、悪い人」
「本当は旅館の飲みたかったよ僕だって」
申し訳ないから料理もお茶もたくさん注文した。昆布茶が本当に美味しくてお土産も買ってしまった。
「憧れてたんだよね。ひな、こっちおいでよ」
広縁でパートナーとお酒を酌み交わすのが。甘口だか辛口だか飲んでもきっとわかんないんだろうけど、ひなたのコップにとぽとぽと日本酒を注ぐ。
「あ、ありあす」
「乾杯しますか」
めでたいことなんか何一つもないのにな。
「18歳まで生きてこられたことに」
ひなたの音頭に、涙腺が緩みそうになる。
「……無事に今日まで、二人でいられたことに」
グラスを打ち鳴らす。
「これも経験」
ひなたはグイっと一息に空けてしまった。我が家には母が依存していた大量の酒が常にあったけど、トラブルの元にならぬようなるべく触らないようにしていた。自分で買ってこっそり飲んだりはしてたけど、ひなたを誘ったことはない。
「いいねえひなちゃん。さ、どんどんいっちゃって」
「飲みやすいこれ」
ひなたは二杯目もすぐに半分程度減らしてしまう。やべ、すぐ潰れるやつかこれ。
「うまうま」
「二十歳になったら美味しい料理と美味しいお酒が待ってますよ~」
「残念だなぁ。はるさん、わたしのお墓はお酒で磨いておくれよ」
「アル中に対する処置じゃんそれ」
残りも男前な飲み方で空けてグラスを寄越してくる。今夜のお楽しみ大丈夫かこれ。
「愛おしいねぇ。空に浮かぶ月も星もさ、ちっぽけなわたしたちを遠い遠い場所から照らしてくれるんだよ」
すでにちょっとやばいもんなこれ。確かに、普段僕らが暮らしているのはそこそこ都会でこれほどの夜景が綺麗なのは記憶にないけど。
「わたしはあなたという月にかかる群雲みたいなものだよ。纏わりついて、陰らせて、光を損ねる」
「違うね。僕が月なら、君こそが太陽なんだ。君が光をくれるから僕もまた輝ける」
「……優しいね」
僕はなんとか彼女に乗っかることでロマンティックを維持しようとした。どうにかエロいムードに持って行きたい。このまま酔わせて潰れられたらかなわない。
「ひなたなんて、因果な名前をつけてくれたものだよ」
「僕だって晴人だよ。明るいの名前だけだよ僕ら」
「もう照らせない。これ以上輝けない」
ひなちゃんは四杯目も飲みきってしまう。僕と合わせてすでに一本終わりそうだ。
「酔ってる?」
「人はみんな悪酔いしながら生きてるんだよ。でなきゃこんなくそったれ世界、笑って過ごせやしないだろう?」
あ、こいつ酒飲むとダルいタイプのやつだ。
「こんな袋小路みたいな世界の隅っこで、どうしてわたしたち出会っちゃったのかな」
「家が近かったからだろ」
「ずっと一緒にいたからさ。わかんなくなるよね、違う出会い方してたら、あなたは」
「それでも、君のこと目で追ってたと思うよ」
ハッとしたような彼女の表情。お、いけるかこれ。ここでベッドインか。
「君が君だから、愛しいんだ」
「でも考えたことない? 離れて過ごしてたらって。あんなことが起きて一緒にまた暮らすのは無理だってなって。その方が幸せだったかもしれない未来」
「ないと言えば嘘になりますね」
「あなたは義務感も責任感も強すぎるのよ。あなたになんら過失のない過去のできごとで、背負った荷物を下ろせないんだ」
「…………」
的確なところをつく。背負ったんだから。守るんだからって何度も自分を奮い立たせてきた経緯がある。そうすることが使命なのだと。
「共依存、なのかなって思うことがあるよ」
だから違う出会い方をしてたら、か。
お互いの両親が健在で。
幸せな家庭で育まれて。
学校で一クラスメイトとして出会ったら、どうか。
「だからずっと負い目があるよ。わたしがいなければ、あなたは広いおうちで両親に愛されながら育って、大好きな水泳で結果を出してみんなの人気者。頭もいいからレベルの高い大学にもいけて、輝かしい未来が待っていたはずだよ」
「買いかぶりすぎだよ」
「でも、そんなあなたがわたしを愛してくれている。ぜんぶ捧げてくれている」
酒の水面をちゃぽちゃぽと揺らしている。じぃっと透明の液体を眺めながら。
「奪ってるな、って、感じてしまうんだよ。これはもう一生治らない」
「僕が君を一番に愛していて、僕の望みでそばにいたいんだとしても?」
「だとしても、さ」
話は終わりだ、とばかりに彼女は最後の一杯を飲み干す。
「愛されるほどに苦しい、こともある。恵まれた贅沢な悩みですよ」
一生治らないと彼女が言ったように、僕がいくつか言葉を吐いたところで根深い意識はひっくり返せないのだろう。
本音を飾らずに話せたことは前進なのだろう。受け止めた上で、生き延びるに値する答えを出せるかどうか。
「……もう眠りましょうか。あ、それとも、寝かせてくれないんだっけ?」
寝室に差し込む月光に彩られながら、ひなたはくすりと笑んでみせる。
魅せられる、とはこういう体験を言うのだろう。
まるで映画のワンシーン。いたずらっぽい、こちらをからかうような表情。その光景が、あまりにも様になっていて。
久しぶりに笑顔を見たな、なんてこともしばらく失念したままだった。