第三章ー②
死が希望で拠り所なのだとしたらそれすらも餌にしてやる。
「ひなた、死にに行くにも体力がいるよ。今の君じゃ家の外にも出られない」
海に飲まれたい、その要求に救われた。衰弱しきった彼女には叶わぬ願いだ。それを理解したのか、ひなたは少しずつご飯を食べるようになってきた。
死ぬことをご褒美に生きる糧を食わせる。めちゃくちゃなのはわかってるよ。
「はるさん……お風呂」
「うん。綺麗にしようね」
彼女の全身をくまなく洗う。あと何度この身体に触れられるだろう。諦めるつもりはさらさらない。だから泣いてはいけないのに、終わりを意識せずにはいられない。
湯船に二人で浸かって後ろから抱きしめる。幸せの絶頂にいたあの夜のように。
「するの?」
「しないよ」
「そっか」
求めても拒まれないだろうけど。まだ、未来を信じていたいから。
「でも、ずっとこうしてたい」
「のぼせてしまいます」
ひなたは抵抗しない。もっと強く抱きしめても、首筋にキスの雨を降らせても。
「綺麗だよ、ひな」
「…………どもです」
愛おしい。たまらない。
お前、わかってるのかよ。
これだけ想っているのに。その僕の前から消えるってことの意味、本当にわかってるのか。許すわけねえよ。認められねえよ。
何もかも奪って壊したって言うんだったら、僕から一番大切な人を、奪おうとしないでくれよ。
あまりにも自分勝手な感情が噴出する。とても伝える気にはなれない子供のわがまま。
「もうちょっと、このままいいか」
「どぞです」
最期の手段は二つある。
僕が力尽くでこの子を閉じ込めてしまう。人間の尊厳もすべて奪って監禁する。きっと彼女は従うだろう。そうまでして生かして意味があるのかは知らないが。
そして、もう一つ。
その未来を選べるなら、二人、幸せになれる気がした。
母の入院する病院に呼ばれた。当時の担当医はもういなく、詳しく話を聞かせて欲しいとのこと。手続きだけ済ませてぶち込んだから、あのあと母とは会ってない。落ち着いたとの連絡が医者からはあったきり。
病院に行くのも経緯を説明するのも構わない。問題は、ひなたを一人にできないこと。この状態でまさか置いていくこともできん。かと言って、母の面会に付き添わせるのもあり得ない。
誰か信頼できる人に見ていてもらいたいが、事情を伝えることもできない。
僕の頼れる人。脳裏に浮かぶ何人かの存在。
白瀬先生……当然勤務中だろうし、事情にこそ明るいが、頼るならひなたも入院させることになる。
尾崎さん……受け入れてはくれそうだが、すべてを話すことになるだろう。
何も言わずに僕を助けてくれそうなのは……ここしか思い浮かばなかった。
「マスター、渚さん、本当に申し訳ない」
「こりゃお姉さんに靡かないわけだわ。えらいべっぴんさん連れてきて」
「よくわからんが、預かっておけばいいんだろう。お嬢さん、お腹減ってるか」
こんな形で頼りたくはなかった。僕がこの先、復帰できるあてもないのに。
「ひなたちゃんでいいのね。ふむふむ、晴人くんには勿体ないくらい」
「ごめん、渚さん。迷惑かける」
「いいのよー、君には散々お世話になったんだし。それより、とっても疲れた顔してるのが心配よ」
頬をつままれる。ろくに眠れないせいで疲れがたまってる自覚はある。けど倒れるわけにもいかない。
「晴人、用事終わったら飯食ってけ。死にそうだぞお前」
ダメだ、最近涙腺が緩い。弱さを見せるわけにはいかない。僕には泣いてる余裕などないんだから。
「事情は聞かない、が、頼ってくれて嬉しい。もっと甘えていい」
マスターの無骨な手が僕の髪をぐしゃぐしゃにする。
堪えきれなかった。
ひなたの前なのに。渚さんにも絶対からかわれるのに。僕は強く頼られる存在でなければいけないのに。
俯いてすこしでも、見られないようにするしか。
プラジュを辞して病院へ。まず母の様子を見ることになった。
「自傷行為がすごくて数日は大変でしたが、薬も効いてきて今は落ち着いています」
ベッドで死んだように眠る母の姿。これほど憔悴しきって、身も心も砕かれるような目にあってなお、僕とひなたをこの歳まで育ててくれた。感謝してもしきれない。
「衝動が収まると今度は酷く思い詰めて、自分のしたことを後悔して苦しんでいます。これからも長期にわたって心のケアをしていくことになります」
「はい」
「ですので、ここまでの経緯を詳しく聞きたいんです。話せる限りで構いませんので」
医者に隠し事をしても仕方ない。僕はかつての経緯を伝えることにした。
ひなたを預かって数年。少しずつ、両親を喪った悲しみも癒えてきたように見えた。僕の親は分け隔てなく僕らを育ててくれた。
僕の母にとって、ひなたの両親は親友で。ひなたと同じくらい母もショックを受けていたはずなのに。その大切な友人の遺した一粒種を必死で守ろうとしてくれた。
特に、ひなたが『お母さん』と僕の母を呼んだとき、号泣して二人でずっと抱き合っていたのをよく覚えている。
僕はというと、大好きな子と一緒に暮らして内心は幸せを感じていて。始まりは最悪の事故だったとしても、ひなたのそばにいられることは純粋に嬉しかった。
僕とひなたの距離はどんどん縮んでいく。初めてこっそりキスをした日なんかは興奮して眠れなかったし、お互いに暇さえあればくっついて大好きと言い合っていた。
中学に上がってもその距離は変わらず、周りにからかわれることもあったが僕は動じなかった。言わせておけと思っていたし、水泳でも結果が出始めていた頃で周囲の雑音などどうでもよかった。
そう、水泳。僕は水泳にどんどんのめり込んでいた。
今振り返れば早熟だったのだろう。中1の同級生の中では僕は明らかに身体が発達していた。小6の終わり頃から同年代では敵がいなくなっていた。
泳ぐたびにタイムが縮まり、顧問や先輩に褒められる。恵まれた身体を振り回す万能感。関東大会を一位のタイムで抜けたときにはもう、部外にも認知されていたと思う。
10年に一人の逸材。未来の五輪金メダリストなどと煽られ、僕は天狗になっていた。だからあんな隙を生んだのだ。
僕ら家族を木っ端微塵にした、あの事件。
全国大会を二位という好成績で終え、みんなが僕を称えてくれた。けれど、やっぱり悔しくて、来年は絶対負けないなんて思いながら迎えに来てくれた母の車に乗り込んだ。
「一旦休憩しますか。顔色がとても悪い」
「いえ……このままで構いません」
ひなたを待たせているのだ。早く終わらせないと。
「こちらからお願いしておいて申し訳ないのですが、あなたも少し休んで行かれた方が……」
「本当に大丈夫です。続けます……」
当時は立派な一軒家に住んでいた。父は相当の稼ぎがある人だった。
帰宅するとひなたが待ち構えているもんだと思っていたので拍子抜けだった。
『ひな? 二階かー?』
『おかしいね。お祝いの準備するんだって朝から張り切ってたのに』
微かに二階から声がする。僕は母さんと一緒に喜ばしい報告をするため上への階段を昇っていく。
そして自室のドアを開いたときのあのおぞましい光景を僕たちは一生忘れることができない。
父が覆い被さっている。半裸の状態で、嫌がるひなたを押さえ込もうとしている。無理矢理剥ごうとしたのだろう。彼女の衣服も相当乱れていた。
下半身は獰猛な肉食獣のようにがちがちに反り返ってびくびくと脈を打っていた。今まさに、それをか弱い少女に挿入しようとしている。
僕も母も絶句してしまったせいで、父は僕らに気づいてなかった。酒を飲んでいたのか変な薬でもキメていたのか、とにかく夢中になっているようだった。
僕は状況を理解すると三秒で決心した。
こいつを殺そうと。
ためらいは無かった。元父親が振り返る隙も与えない。
みっともないケツにドロップキックを叩き込み、ひなたの上からどかす。許せない。絶対に許せない。
早く息の根を止めなくちゃ。
お前がひなたに覆い被さったみたいに、僕が、お前を制圧する。
がむしゃらに殴る蹴る。恵まれた身体に生んでくれてありがとう。年齢の割にデカかったおかげで、大の大人を圧倒できる。
やめてやめて死んじゃう。悲鳴が聞こえた気がするがやめない。こいつはそれだけの罪を犯した。父親として子供として受け入れておきながら、成長し花開いたひなたを摘もうとしたのだ。
やがてうずくまる肉塊からうめき声一つ聞こえなくなる。
みんな泣いていた。僕もひなたも母さんも。
なんとかギリギリで事が起こる前に止められた。でも、間に合わない可能性もあった。
自分が水泳にかまけている間に。ちやほやされて舞い上がっている間に。ひなたが危険に晒され助けを求めていたのに気がつけなかった。
こんなことになるなら、いらねえ、こんなもん。
そうして僕は、大好きだった競技を捨てた。
たかが部活を辞めただけ。父親だった人がいなくなっただけ。僕にとってはそうでも、母とひなたは……。
「落ち着いて。ゆっくりでいいです」
母は壊れた。仕方ないことだと思う。深い悲しみに暮れ、何が悪かったのか、どこで間違ったのか考えたのだろう。
ひなたが親友を殺し、自分から最愛の人すら奪っていったのだと。
ひなたさえいなければ。育てようと預からなければ。
原因が見つかれば、怒りの矛先は当然そちらに向かう。
暴れる母を取り押さえて宥める。一時も目が離せなかった。狂って乱れて延々と罵倒してみたかと思えば、数分後には元父親の名を呼びながら号泣している。
生涯の伴侶がいなくなってしまった。しかも中1の娘みたいな存在に手をつけようとして。悪夢以外の何物でもないだろう。
また一方でひなたも、抜け殻のようになってしまう。
およそ人としての意思を示さない。強制すればなんとか食事等はしてくれるものの、これでは人形と変わりないと思った。
母に散々罵倒されても涙一つ浮かべない。おそらく心が欠落したのだ。すべてを感じて受け止めるには、彼女に起きた事象は凄惨すぎた。
一人の中学生にはどうすることもできなかった。ほどなくして二人は入院することに。それぞれ別の心療内科へと入ることになった。
元父親は口封じのためか、それなりの金を残して僕らの前から消えた。刑務所にぶち込んでやりたいところではあったが、ギリギリ未遂であったこと。僕が半殺しまで追い込んでしまったこと。何より二人を生かすのにそれどころではなかったせいで機を逸し、被害を訴えるまでいかなかった。
奴は未だに会社での地位を守り抜いているはずだ。僕らが口を噤んでいるおかげでのうのうと生きていられる。赦すことなどあり得ない。いつか必ず地獄へたたき落とす。
ともあれ、その金で生き延びてこれたのも事実だ。母は元々働いたことがなく、心を病んでいるせいで期待できない。収入が途絶えても、二人の入院費はかかる。
自立を目指すのも当然だろう。僕には力がなかった。二人を支えていくだけの力が。早く大人になりたかった。
入院してからの母の経緯は、記録があるんじゃないかと思う。
一人を欠いたぐちゃぐちゃの家族が再び集まって暮らすのに、二年近い日々を要した。
すこしずつ前に進めているはずだった。ぎこちないながらも、二人は親子として修復しようとしていた。
こうしてまた、古傷が開いてしまって僕もどうしていいかわからなくなる。
ひなたを守るのはもちろんのこと、母もこのままでは……苦しみに囚われたままだ。
誰か教えてほしい。
どこで間違ったのか。僕とひなたは、母さんは、何か悪いことをしたのか。
なぜ解けない鎖に縛られて、いつまでも生きていかなければならないのか。
救われるのなら、溶けてしまいたくもなる。