第一章ー①
このところ、毎日夢に見る。
揺りかごみたいに優しい場所で、二人で笑いながら過ごす未来を。僕らを縛りつける過去を一切なかったことにして脳天気に暮らしていく。すぐに夢だと気づいてしまうのは、そんな現実はあり得ないからで。
それでも、そうなりたいと願っているから夢に見るわけで。
守りたいと思った。ずっとずっと。
彼女を解放してやれるなら、なんだってしてあげたかったんだ。
隣室の母を起こさぬよう控えめに設定したアラームを瞬時にとめて、示し合わせたように二人、起床する。
今日もひなたは布団をはみ出して僕にへばりついていた。抱き枕かなにかと勘違いしているのだろう」
「おはざす……」
ぎりぎり朝の挨拶だと認識できる掠れ声。目もしょぼしょぼしている。
「おはよう」
アラームへの反応こそ見事なものだが、ひなたの血圧は低く起き上がるまでに時間がかかる。暑苦しいので早く離してほしいのだが。
「ぬぅぁあ」
おっさんみたいなうなり声を上げている。顔もぐしゃぐしゃで見るに堪えない。女子高生にあるまじき姿。
「ほら、しゃきっとしな」
「ぐむむ」
少しずつ夏へと差し掛かる季節。薄手の寝間着で密着している。男子高校生がそんな状況に長く耐えられるわけもない。いくら寝起きが不細工でも、身体の柔らかさには反応してしまう。
乱れた布団を足でたぐって該当部分を隠蔽した。
「ひな」
「おぁよ……はるさん。あと何日?」
挨拶はさっきした。やはり寝ぼけていたようだ。
「65日」
「……起きる」
朝の日課を済ませて、ようやくひなたは手足を稼働させていく。抱き合っているからその過程であちこち触れてしまう。隠し事をするには距離が近すぎた。
「はるさん朝から元気だね」
「寝起きの悪いひなと違って」
「する?」
「しないよ。時間ないし」
平日朝からのんびりする時間などない。土日だってバイトがあるから寝坊できるわけではないけど。
ひなたが洗濯をしながら女の子の身支度を調えている間、僕は朝食と弁当をこしらえる。どちらかがこの家事を担当、とかは決めていない。飽きたり義務的にならないための工夫だ。
「はるさん終わった」
ものの数分でひなたはキッチンに戻ってきた。本当に化粧を施したのかと思うくらい薄い。素材がいいからこれで充分なのだ、とは本人の弁だ。
たしかにひなたはかなり可愛い部類だと思うが、クラスのばっちりメイクさんたちに比べれば地味な印象になる。我慢させているとしたら心苦しい。本当はもっとお洒落したいに違いない。
母の部屋には仕事柄、山ほど化粧品やアクセサリーがあるが、まさか借りるわけにもいくまい。
「……ど?」
ひなたは僕の前までやってきてくるりと一回転してみせる。褒めろということだろう。
「鼻毛でてるよ」
「はるさんさ、冗談はもっと“らしく”言ってよ。感情薄すぎて本当かと思うよ」
「今日も可愛いよ、ひなた」
「だから感情薄いのよ」
この子にだけは言われたくない台詞だった。いつも眠そうなまぶたと抑揚のない声。付き合いの長い僕ですら、ひなたの感情が動く場面を見ることは少ない。
「ちょっとずれてる」
「ん」
あまり髪を纏めるのが得意じゃないのか、素直にこちらへ結び目を差し出してくる。暑い季節以外は下ろしてるからな。
「いいよ」
「ありがと。代わるから、はるさん顔洗ってきたら」
「うむ」
つつがなく朝の支度は済まされる。共同作業もお手の物。こうなるまでに何年も要した。僕らは最大限の努力をして、日常を維持している。
「よぉ晴人、放課後なんだけど遊びに--」
「断る」
教室に着くなり機嫌のよさそうなクラスメイトが誘いをかけてくる。相手が言い終える前に返答して僕は席に着いた。
「んだよなんか用事あんの」
「バイト。知ってるだろう」
「そればっかだな。中間も終わったんだし少しは息抜きすりゃーええのに」
「あのね、テスト期間中に勉強してた分、稼がないといけないの」
この手の誘いに乗ったことはない。無愛想な僕と遊んだって楽しくないだろうに呼ばれるのは、おそらくひなた目当てなのだろう。僕が行けばくっついてくると思われているのだ。
直接聞いてみればいいのにな。
「今月金ないのか?」
「金はいつもない。だから遊べない」
「そか、しゃーねーな。んじゃ、加納さん! こいつの代わりにカラオケ来ない?」
本当に行きやがった。僕を踏み台にして、隣で聞いていたひなたにアタックする。
「……ごめんなさい。バイト」
ほら見ろ、僕が断ったときよりへこんでいる。やはり彼女が本命だったのだ。
周りと積極的に関わらないせいで、二人でずっと一緒にいるせいで。僕らに仲のいい友人はいない。クラスメイトたちとは当然距離がある。最近ではそのスタンスもよくないんじゃないかと悩むことがある。
忙しいのは事実だから断るほかないけど。
「君ら、残り少ない高校生活バイト暮らしで楽しーの? 灰色よ、働いてばっかで。たまには付き合ってくれよー」
お先真っ暗で灰色だよどうせ。
「残り、少ない」
そう呟く横顔は考え込んでいるようだった。目標額と息抜きを天秤にかけているのかも。だから水を向けてみることにした。
「たまには遊びに行きたい?」
「……はるさんが行くなら、また今度」
教室中の視線が僕らに集まるのを感じた。え、怖い。なんかしたか僕たち。
「ひなちゃん来るの? わたしも混ぜてよ」
「加納さんがいくなら俺も」
「お前らこういうの無理かと思ってた」
一斉に何人かが話しかけてきておっかない。よくわからんが、ひなたが参加する遊びに皆も行きたいらしい。大人気じゃねえの、おい。
「……あの、今日じゃなくて。バイトあるからまた今度」
「うんうん。都合つく日教えて」
「アカウント繋げよ……え、インスタやってないの?」
「加納さんって秋葉と仲良すぎない? どういう関係なん」
切っ掛けを得た、とばかりに口々にひなたへ話しかけている。あっという間に輪の中心になった彼女はできる限り丁寧に応対していた。
定位置を失った僕は外周からその様子を眺めている。
「食いつきがよすぎるだろ」
「お前らの付き合いが悪いから」
誘いをかけてきた男は手柄をとって満足げだ。
「……ま、そのうちお邪魔するよ」
「おう! 毎日でもいいぞ」
「三島、僕たち今年受験だぞ」
苦々しげな表情。忘れていた現実を突きつけられたのか、そのまま去っていた。中間の成績よくなかったのかな。
結局予鈴が鳴るまでひなたは囲まれていた。なぜ彼女から歩み寄る気になったのかはわからない。けど、人との繋がりが少しでもひなたの後ろ髪を引くなら--それでいいんだと思う。
バイト暮らしで楽しいか、と問われた。
少なくとも、あまり仲良くないクラスメイトとのカラオケよりは心が軽い。
「秋葉くん、3番テーブルのバッシングお願い」
「はい」
高校の最寄り駅の小さな洋食屋『プラジュ』が僕の勤務先だ。大人からしたら入りやすい価格帯で味も高評価されている人気店だが、学生にはやや敷居が高い店だから知り合いに会うようなこともなく、気ままに働けている。
「完了しました。並んでるお客様ご案内します」
丸2年も働いていればすべきことはわかっている。動きは効率化され、パニックになることもない。
ピークタイムに入って少しすれば渚さんも出勤するので店は円滑に回っていく。
忙しさは好きだ。余計なことを考えられなくなるからね。
「づぁー! 週末はやっぱハードだねえ」
21時半の閉店時間を過ぎ最後のお客様が帰ると、渚さんは仕事もそっちのけでシャツのボタンを緩め客席でビールを飲み始めた。
「お疲れ様です」
しかし僕はにわかに忙しくなる。高校生の退勤時間までわずかだ。なるべく片付けを進めていかなければいけない。
「晴人くんも飲もうぜ」
「時間がありません」
「渚ぁ! 給料から酒代引いとくからなぁ!」
厨房から怒り混じりの大声。レストランのマスターから娘を叱る父親の顔になる。渚さんは唇を尖らせ拗ねたように。
「いいじゃん今日忙しかったし。大入りだってこんなの」
「渚さん5番に移ってください。片付けができない」
「君もお堅いなぁ。ちょっとは心に余裕を持ちなよー。どれだけ急いでも時給変わんないよ?」
言われるままに僕が隣に座って一緒に飲み始めたら大問題だろうに。
「時給は変わらなくても、一所懸命働けば評価はよくなりますよ」
僕は当たり前のことを言っただけなのに、どうして怪訝な視線を向けられるのか。
「かったぁ。真面目すぎ。君にはアソビが足りないね」
掃除はきっかりやりたいし、ネジはぎちぎちに締めたいタイプだよ僕はどうせ。
「晴人くん、女の子の友達とかいる? 彼女とかできないよそんなんじゃ」
「心に決めた女性がいますけど」
「あんさ、冗談はもっとふざけた顔と口調で言うのよ」
今朝も似たようなことを言われたっけ。いや、今のは冗談じゃないけど。
「幼なじみなんですけどね、とある事情で今は一緒に暮らしてて同じ部屋で寝起きしてめっちゃ仲良くしてます。ちなみに美少女です。恋人というより家族って感じですけど、向こうも僕のこと好きだと思います」
渚さんの表情がかわいそうなものを見る目に変わってく。童貞の妄想だとでも思ったのだろう。僕も他人が同じことを口走ったら同じリアクションになる。
「晴人くん……よかったら、お姉さんの友達紹介するからね。可愛い子たくさんいるし。悩みがあったらあたしが聞くし、いつでも言って? 無理は禁物だからね」
「優しい目で僕を見ないでくれますか」
「多様性の時代だから、恋人が脳内や二次元にいたとしても……うん、応援するし」
いつかひなたを連れてきてやる、と心に決めた。
さて、そのひなたを拾って帰らなければならない。僕が電車を降り自宅の最寄り駅に着くと、ちょうど彼女はまかないのラーメンをすすり終わってる頃合いなのだ。
「はるさん退勤~」
僕の姿を認めると、店内へ手を振ってからこちらへ駆けてくる。その様子を名残惜しげに見つめている店員と客数名ずつ。ここでもファンが多いんだろうな。
なんで彼女がラーメン屋でバイトし始めたのかは未だに謎である。キャラと合致してない。のんびりとしてるし、テンションも控えめ。これでスピードが求められる現場をこなせているのか心配だ。
「忙しかった?」
「よくわかんない」
これである。できることが少なければ、膨大な作業量に気づくこともなく時間は過ぎていくもんだ。きっと周りの皆さんがフォローしてくれてるんだろう。気の毒な話だ。
「でもがんばった」
うん。がんばったんなら偉い。もしかしたら全部僕の杞憂に過ぎず、有能すぎてバイトが楽勝なのかもしれない。
ひなたは動きこそとろいが要領は悪くない、と、思う。
国道に沿って帰路につく。車通りはそこそこだが、人の往来は少ない。夜道は自然と二人の身体の距離を縮める。
「飯食ったよな」
僕のまかないはありがたいことに、タッパーに詰めて持ち帰らせてもらってる。おかげですぐに彼女と合流できる。食事は風呂に入ってるのを待つ間でいい。
「たまごオマケしてくれた。にんにくも増した」
週末にこれをやられるとちょっと萎える。
「増すな。女子高生がにんにくを」
「はるさん、JKだってみんな見えないところでは結構下品だよ。男子と同じ人間だよ。大盛りにもするし、にんにくだって増すさ」
「口臭いんだけど美少女的にアリなの」
「アリかナシかは、あなたが決めるんです」
ナシだから意見しているのであって。
「わかった、今すぐキスしたいんだ。でも、わたしの口が臭いから、萎えてるんだ」
「自分で言ってて哀しくならんの?」
「おうち帰るまで待ってよぅ」
指を絡めてくる。一本ずつ。恋人つなぎだ。手のひらから伝わるぬくもりが、文句を言う気をなくさせる。
「はるさん」
「ん」
「もうすぐ夏が来るね」
「…………あぁ」
幸せだ、と思う。こういう時間をずっと過ごしたい。恋人という枠におさめなくても、ひなたは僕にとってかけがえのない存在なのだ。
どれだけ彼女の口が臭くとも。