√3 ルートさん
私が初めて「人並みに恋をした」瞬間を綴ってみました。
夫のことを、私はルートさんと呼んでいた。
まさに、√3。1.732 ――ヒトナミニ。
私が人並みに恋をしたからだ。
それまでの私は、全く男性に興味がなかった。
女友達とワイワイ過ごす方がはるかに楽しかった。
終電になるまで誰かの家に集まって、トランプしたりおしゃべりしたり。
時間なんて、あっという間に過ぎていった。
駅に着くと、母が迎えに来てくれていた。
「あ、お母さん」
母を見つけると、私は嬉しかった。
家に入ると、母は必ず言った。
「お父さんに“ただいま”と言いなさい」
私は少し恥ずかしくて、でも言われるままに口にした。
「お父さん、ただいまー」
父は「……あぁ」とだけ答えた。
あとで母が尋ねた。
「お父さんに怒られなかった?」
「ううん、何も言わなかった」
「そう。私にはあんなに怒るのに」
そんな日々が続き、学生時代が終わった。
私は劇団に入りたくて東京へ出た。
反対する父を押し切って、夢を追いかけた。
小さな劇団に入り、寮で暮らし、毎晩のように母から電話がかかってきた。
やがて舞台にも立つようになり、地元で公演すると両親は大喜びした。
そんな中、ひとりの男性と出会った。
後に夫となる人――当時は思いもしなかった。
彼は有名な劇団の人で、毎回チケットを送ってくれた。
地方公演の最中にも手紙をくれて、私はその便りを楽しみに待った。
私も返事を書き、文通が始まった。
ある日、地方公演へ向かう列車の窓の外を眺めていたとき、
流れる景色の中に、ふと彼の顔が浮かんだ。
その瞬間、私は恋をした。
文通は続き、仲間たちもからかうように言った。
「ほれ、ルートさんから手紙だよ」
やがて彼が私の劇団に来たとき、皆がそう呼んでいるのを聞いて驚いたらしい。
「どうしてルートさんなの?」と聞かれて、私は答えた。
「私、人並みに恋をしたから」
その言葉に、彼はとても嬉しそうに笑った。
けれど、後になって知った。
彼の頭に最初によぎったのは、別の意味だった。
√3=1.7320508=ヒトナミニオゴレヤ。
――自分はケチだと思われているのか、と。
結婚して私は名前で呼ぶようになったので、このルートさんと言う言い方はいつの間にか忘れていってた。
恋はある日、突然やってくる。
√3.「ルートさん」と呼んでいた日々は、今も夕日の光のように、淡く胸に残っています。
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