番外編:飛び越えてはいけない小さな小川
過去の恋愛をひとつ物語として残します。
小さな小川は、境界線であり、越えてはいけないもの。
それを越えたとき、すべては終わりへと向かっていきました。
私に一目惚れをした人がいました。
彼は懲りずに追いかけてくれました。
だんだんと私の隙間を広げていきました。
私は彼に言いました。
――私とあなたの間には小さな川があるの。
その小川は、飛び越えようと思えば飛び越えられるけれど、決して飛び越えてはいけないの。
けれど彼は、その小川を飛び越えてきました。
そして私は、受け入れてしまった。
楽しかった。
彼と過ごした日々は、確かに楽しかった。
夜中に「会いたい」と言えば、大阪から車を飛ばして来てくれたこともありました。
彼は私の父が大好きで、父に憧れていました。
よく一緒に旅行にも連れて行ってくれました。
「俺はお前に美味しいものを食わせるのが楽しみなんだ」
そう言って、いつも食事には気を遣ってくれました。
そしてある日、彼はバレエのアッサンブレを披露してくれたのです。
横にジャンプし、空中で足をトントンと叩く。
その動きは、正直に言えば決してスマートではなかった。
膝は曲がっていたし、形も崩れていた。
けれど、不格好だからこそ、そこに彼の素直な気持ちが宿っていた。
私は驚き、そして――心が揺さぶられた。
たった一つのジャンプが、私の心の奥に入り込むなんて。
それまで閉ざしていた扉が、カタンと音を立てて開いてしまったのを感じた。
「嬉しかったから、自然に出たんだ」
彼はそう言いました。
まるでドナルドダックが喜んでジャンプするような仕草。
不格好なのに、なぜか胸に刺さる。
その瞬間、私は気づかぬうちに彼を受け入れていたのです。
彼はどんどんと、私の世界に入り込んでいきました。
その存在は私の生活の中で大きなものとなり、日常の一部になっていったのです。
祖母の葬式の日、彼も参列してくれました。
けれど叔母たちを前にした彼は、まるで針の後ろに座らされたかのように居心地が悪そうでした。
後になって彼は言われました。
「お前は何様だと思っているんだ」と。
その言葉は、彼の生い立ちの暗さと私の環境との違いを、容赦なく突きつけるものでした。
その頃には、私と彼の間に小さな亀裂がいくつも走っていました。
楽しい思い出の裏側で、確実に二人は擦れ違っていたのです。
二人とも、ボロボロになっていました。
信頼は揺らぎ、愛情は不安に覆われ、やがて限界が訪れました。
最後は、憧れていた父が彼に引導を渡しました。
「娘も愚かな男と付き合ったものだな」
そう言って。
――そして彼は、小川の向こうに戻っていったのです。
最初に私が彼に言った言葉。
「飛び越えてはいけない小さな小川」
その言葉は現実となり、物語の終わりを告げました。
小川はただの境界ではありませんでした。
飛び越えることができるほど小さいのに、越えてはいけないもの。
それは試練であり、禁忌であり、そして終わりを導くものでした。
小さな川が、恋のすべてを分けたのです。




