妖艶ではない美女
LINEの通知に視線を落とした。自分にメールをしてくる人間なんて、片手にも余らない。タップして既読にする。相手のアイコンは、いま流行りの仮面ライダー出身俳優のどアップ画像。
椿知武は、内容に目を通した。大抵、ほぼ似通っている。夕飯後に部屋を訪れていいかという、ありきたりのものだ。毎回、コピペなのかと疑いたくなるくらいだ。しかし絵文字に関しては富んでいて、動いたり止まってたり、犬だったり黒タイツ人間だったりする。
送信者は社長の娘だ。住んでいる社宅から目と鼻の先の勤務先兼、社長の自宅。そこからひと繋ぎになっているアパートからだ。
玄関チャイムが鳴る。時計を見ると九時前だった。椿はインターホンで確認すると、社宅のドアのロックを外した。長身の長い手脚に相応しくない童顔の顔が、笑みを浮かべている。
「どうぞ」
「ごめんね、いつも」
決して迷惑だとは思わない。羽澄仁和子は、魅力的な女性だった。同じ社宅に住む同僚の先輩や後輩に見つかれば、揶揄されるのは目に見えている。当たり前に、自分には分不相応な相手だからだ。
「コーヒーでいいですか?」
「え、いいよ、気をつかわないで」
言動と行動が今ひとつ道理に叶っていないのだが、何しろ勤務先の社長の娘だ、無下にはできない。
「気なんてつかってませんよ、大丈夫です」
仁和子は勝手知ったる我が家のような感じで、部屋にコートとバッグを置きにいく。コーヒーケトルに水を入れて、火にかける。棚から挽いた豆とカラフェを取り出して、狭いテーブルに置いた。
「椿くん、自分でドリップするのが好きなんだ。私ね、大学のときずっと自家焙煎のお店でバイトしてたんだよ。この黄色のコーヒケトル素敵だね、兎のマークが可愛い」
いつの間にか後ろにいた仁和子に驚く。何かの漫画で見たことがある。音を立てずに背後から忍び寄る、数種の薬草や針を操る妖艶な美女キャラだ。しかも艶のあるロングヘア。だが明白な違いが、ひとつだけある。社長の娘は妖艶とは程遠い。かすりもしない。
椿の思惑を他所に、仁和子がカラフェにフィルターを広げて入れる。
「これ、月兎印の琺瑯なんです。直火にかけられるから便利で」
「へえ、月と兎? 何だか椿くんみたいだね」
「いや、ありえないです、それ」
そこに深い意味はないのに、気恥ずかしさで耳が熱くなる。妖艶ではないが、いつも怪しい行動で間合いを詰めてくる。基本的に距離が近いのだ。
「ふふっ、可愛いなあ、椿くん」
ますます赤らむ耳たぶを摘んでくる。毎度手法を変えて挑んでくるから、たまったもんじゃない。
「例の歳下の彼氏さんとは、その後どうですか」
どさくさに紛れ、話しをすり替える。仁和子が椿の部屋を訪れる、唯一の理由だった。
「まだ彼氏じゃないよ」
「そうなんですか」
「だって、誰にも紹介してもらったことないから」
俯く仁和子の透けた長い髪に目をやる。
「ほら、私って、もう三十路でしょ」
「ミソ、ミソジ……」
「三十歳ってこと、いやもう直ぐ三十一歳だわ」
「でも仁和子さん綺麗だから、二十八くらいにしか見えないです」
「え、たったマイナス三歳っ」
額に手を当てる仁和子を見て、慌てて弁解する。
「やっ、違う、すみません……とにかく若く見えるし、お綺麗です……」
尻すぼみの口調に、仁和子が覗き込むように顔を寄せる。
「椿くんって、正直だなあ。だから好きだよ」
もう勘弁してもらいたかった。頬の紅潮がマックスに達した。コーヒーをマグカップに入れると、無言で部屋のテーブルに運ぶ。
「怒っちゃった?」
「まさか……」
悪気はないが、ことばが途切れる。ソファが無いのでフロアクッションを手繰り寄せ、仁和子の方に置いた。
「椿くんはいくつになるんだっけ?」
「二十六です」
「若いのねえ」
「変わらないじゃないですか」
「お肌がツルツルだよー、全然ちがう」
早く本題に入り、そして終わってくれないだろうか。きょうの揶揄かい方のやり口が半端ない。
「そっ、その人は何歳なんですか」
つい声が大きくなった。仁和子がきょとんとしている。
「あ、歳が俺くらいだったら、何ていうか多少はちからに。いや気持ちが分かるかもしれないから」
熟視してくる仁和子から視線を外す。
「椿くん」
「……はい」
怒らせたとしたら非常にまずい。取り繕うものはなんだ。考えろっ。
「きみだったら、どう?」
弱々しい声に顔を上げた。
「好きだったら、お友達に合わせたくならない? 従業員の葵月ちゃんもそう言ってた」
「ハヅキチャン?」
「深代さんのこと」
ここは恋愛相談所か。だとしたら、自分ほど相応しくない所長はいない。迷惑ではないが、経験値が低過ぎた。今日の相談や態度はレベルが高そうだ。同僚でいちばん若い千隼を今すぐにでも仲間に引き入れ、後方から魔法をかけてもらいたい。この妖艶ではない、怪しい美女に。
「俺だったら、仁和子さんみたいに綺麗な人が彼女だったら、喜んで友人たちにお披露目します」
なんだかおかしな物言いになり、マグカップに口をつけた。壁時計をチラリと見る。この段階で一時間。折り返し地点じゃないか、もう一時間の辛抱だ。
仁和子は必ず十一時には帰宅する。今日で何回目か定かではないが、はなから役不足の所長としての万策は尽きた。あした千隼に会ったら、所長の座を譲ろう。あいつなら喜んで、引き継ぎ無しで請け負うだろう。そもそも、なんでこうなったんだ。
「椿くんは?」
「へ?」
思わず間の抜けた返事になった。
「きみの好きな人は、どんな人?」
ついに来た。くると思っていた。幸いにも返すことばは用意してある。姿勢を正した。
「いません」
「またまた」
「本当です」
「どうして?」
「どうしてって──だって、いないんです」
「綺麗過ぎるのかなあ」
「は?」
「カッコ良いというか、椿くんって綺麗よね?」
「キレイ?」
瞬きが止まらない。言われてみれば、自分は男の割には綺麗好きで、部屋も片付いてる方だと思う。自炊もするが後片付けだって、きっちりやる。辺りを一周見回して仁和子を見ると、吹き出しながら口を覆う。
「あはっ、違うって」
椿を見ながら、涙目で仁和子がハンカチまで出してくる。仕方ない。笑い終わるのを待つしかない。女の人は難しい。泣いたり笑ったりいつも忙しそうだ。確か前回来たときは、終始泣いてはいなかったか。
「ごめん、ごめん、あんまり可愛いくて」
首を傾ける椿に、仁和子がカイシンの一撃を放つ。
「あんまり可愛いと、襲っちゃうよ」
「えっ」
「二十四歳」
「え?」
順不同なので、もはや太刀打ちは不可能だ。
「私の好きなひと」
「ああ、ずいぶん若いんですね」
「で、どうなの?」
「何がです?」
「さっき、言ったでしょう?」
さっきとは、どのさっきだろうか。違う意味での薬草が必要かもしれなかった。
「力になれるかもって」
なんの力だろう。相手が宇宙人に見えてきた。首を捻る椿を尻目に、仁和子が腕時計を見る。
「あっ、まずい十一時過ぎちゃった。パパが怖いから帰るね」
すくっと立ち上がり、足早に玄関に向かう仁和子の細い脚を見ながらハッとなった。
「気をつけて」
自分も慌てて立ち上がる。
「近いから大丈夫、続きはまたこんど」
おいおいおい、相談所は別室になるんだった。いま伝えるか否か、どうする――。
「椿くん、犬みたいに首をずーっと傾けて目をぱちぱちしてると、ホントに誰かに襲われちゃうよ。気をつけなさいね」
「あ、ハイ」
ドアがパタンと閉まり、カンカンと階段を降りる音が響いてくる。台風が去り、部屋が静まり返った。完膚無きまでにやり込められた感で、置き去りにされた気分だ。
XもInstagramのThreadsもやってないから、ひとりで呟く。
「あの、キレイ好きで犬に似てると女の人に襲われやすい……って後輩に引き継いでおきます……」