真冬の月
捜査本部に戻ると、腰かける間も無くデスク上のノートパソコンを立ち上げた。水草直己は椅子に座りながら、月の満ち欠けカレンダーの画面を開いた。
「その満月の日が、婆さんが言ってた死体遺棄日なんでしょうか」
うしろから星野が問いかける。
「気象庁の過去データからも、二月四日の夜から積もり始めて、二週間を過ぎた十九日には積雪量がゼロだ。この期間に遺棄時刻を絞り出すのに満月だけに固執しても、あれだけの天候の変化だ。雲がかれば月は消えるし、暦通りに見たとしても大雪が降ってる最中に煌々と照らさないだろう」
「そうですね。しかしこうやってみると、満月の前後って結構明るいものなんですね」
「ああ、例え満月の日でも天候に左右されれば意味を成さない。逆手に取れば、満月でなくても天候によっては雪明かりで照らされる可能性もある」
「じゃあ、満月かそうじゃないかは関係なく、パーセンテージで見た方が良さそうですね。いったい明るい月って確率的に、どのくらいなんでしょうね」
水草は腕を組んだ。島根、スペース、天文台で検索し電話番号を表示させる。ふと再度、最小化させた満ち欠けカレンダーをクリックする。
「ご丁寧に記載があるな」
「あ、本当ですね。必ずしも一〇〇パーセントの時刻に満月が空にでないのか──えっ、沈んでから満月になってもらっても困りますね。え、月の軌道は楕円なので月齢の数字と実際の満月には、ずれが生じるって──正午月齢が当日の夜の月の満ち欠けなのかあ……じゃあ、あまり満ち欠けカレンダーは意味がないということですか?」
「確かにそうだ。婆さんの言った満月が一〇〇パーセントとは限らないということだ。言い換えれば婆さんが見たのは満月じゃなく、その前後だということも有り得るな」
満ち欠けカレンダーが、大きな音と共にプリンターから印字される。
「満月の光は〇・二五㏓、読書に最適な照度は三〇〇〜五〇〇㏓なのか」
「なんだ、やっぱり満月の雪明かりでホシの顔が見えたなんて、婆さんの根拠の無い当て推量だったんでしょうか」
「いや、ホシが左顔面に怪我を負っていたのは事実だと思う。その日の月で読書は出来なくても、眼前の人間の顔が見えた可能性もある」
「うーん、婆さんは昼間に満月が出ていて、その下でホシを目撃した──くらいに捉えておかないと駄目ですかね」
「昼間にか?」
「九十近い婆さんで、月と太陽を間違えたんじゃないですか」
星野が早くも満月からリタイアしようとしている。
「明け方だった──って見解もあるな」
「わざわざ明るいときを目指して、死体をソリに乗せて運びますかね」
「いや、逆だ」
「え、逆? どう逆なんでしょうか」
「方向だ」
「ソリの方向ですか? 俺は混乱してきました」
「婆さんの目撃は遺棄した後、路地の入り口に向かっての証言だったろう」
「あ、そうでした」
「ホシは二人で死体を遺棄するのに、予想外に時間を要した。真っ暗闇の中、帰り道は明け方になってしまった。ってのはどうだ」
「なるほど」
「おまえのいうように、月と太陽を間違えた。朝日でホシの顔が見えた」
「アタリですか」
「しかしこの時期、二月の初旬なんて朝の六時になっても空は暗闇だ。七時前くらいにやっと明るくなるだろう。遺棄現場の近隣に小学校があった。七時過ぎから、皆ランドセルを背負って学校に向かってるからな。だから俺の見解はハズレだ」
「えっ、ハズレなんですか」
「やはり遺棄したのは夜中だ。婆さんも丑三つ時だと言っていたろう」
「婆さんが今ひとつ、信じられなくなってきました」
水草は足を組み直し、デスクで頬杖をついた。最後に高木ミチコが見せた表情に、やけに恍惚感を覚えていた。
「おまえ、怪物と美人が月に向かって歩いて行ったと、婆さんが最後に言ったのを覚えてるか」
「はい、空が明るくて長い月に向かって歩いて行ったと……言ってましたよね」
「そうだ。長い月ってなんだ」
「えっ……そうですね、やっぱり超常現象でしょうか? 怪物と美人が手を取り合って、スノームーンに向かって歩いていったなんて、いかにも超常現象が起こりそうなシチュエーションじゃないですか。しかし婆さんにしては、洒落たセリフでしたね」
「超常現象。映画や演劇で登場人物が、作中に置かれている状況に見合った場面や局面。それに相応しい現象か」
「婆さんの目も、最後には輝きを放っていましたもんね」
「そう見えたのか」
「えっと、はい……なんとなく」
「実は俺にもそう見えた」
「そうなんですか? 水草さんもですか? だったら超常現象を突き止める以外に、手立てはありませんね」
「月の現象ってやつか、皆既日食とかそういった類か?」
「いやでも、皆既日食は太陽が月に隠されてることによって、昼が急に夜になることですよね。あ、ちょっといいですか」
水草が立ち上がり星野に席を譲った。
「あ、自分は立ってやるので」
「おまえが詳しそうだから、座ってじっくりやってくれ。まさか天体に詳しいとはな」
「いや、そんな大袈裟なもんじゃないですけど」
マウスを掴みながら星野が椅子に座る。
「太陽、月、地球が、一直線に並ぶと確か」
水草が身を乗り出して、ノートパソコンの画面を覗きこむ。
「あ、ほら、皆既日食は月と太陽が重なるから、太陽が手前の月に隠されて欠けたように見えるんです」
星野が画面を見入る。
「金環日食は、太陽の周りに白い光の輪が見えてます。太陽と月が完全に重なると皆既日食になりますけど、地球と月の距離が遠いと太陽を隠しきれないから、白い輪っかみたいになるんですね」
「本題の月はどうだ」
「あ、そうでした。月を調べるんでした──とりあえずは月食……」
星野が『皆既月食、スペース現象』とタイプした。
「こんどは、月が地球の影に隠れて欠けて見えるってことですね、太陽と真逆だ。三つの星が真っ直ぐ並んだ時に、地球の影が月を隠すのかあ。なんだか地球が月を守ってるみたいで、切なくなりますね。懐かしいなあ。小学生のとき、プラネタリウムによく行ったなあ」
「プラネタリウム?」
「そうです。小学校の行事や家族とも、安来市の児童交流館になんどか行きました。水草さんは行かなかったんですか」
「俺は記憶にないな、なにしろおまえと十五近くも歳の差があるからな。しかし月食となると月を隠す現象だから本末転倒ではあるな」
「そうでした、明るくなければホシの顔が見えない」
水草から日食を呈示したとはいえ、本筋から逸れてばかりの若手刑事の横顔を見て思わず苦笑った。自分が二十代のころと、いまの若者は随分と変わったもんだ。しかし星野はあなどれない男だ。
「月の現象って意外にもあまり出てきませんね、ヒットしない。長い月なんて本当でしょうか? 俺はどんどんあの婆さんを疑ってきてるような気がします。地球照、月暈、あー、月光環なんてのもありますね。あとはさいきん流行りの、スーパームーンやストロベリームーンとか。しかしどれをとっても、ピンとこないなあ。怪物と美人が向かった月には、当てはまらないような気がします。しかも長い月なんてありません」
「月光環はどうだ」
「これは月の周りに、青白い円盤みたいなものがみえますね。だけど長くはないですねえ……月暈は──でもこれは傘みたいな感じで、いわゆる見た目的にまん丸です」
「日原天文台は津和野か。先にプラネタリウム館に行ってみるか」
「えっ、天文台じゃなくて?」
「昔を思い出した」
「やっぱり、行ったことがあるんじゃないですか」
「忘れてたんだ」
「プラネタリウムって月というよりは、星座のイメージがあります」
「月だって星じゃないか」
「まあ、そうですが……」
「津和野よりは近いから、今から行こう」
「休館日は……今日は大丈夫です、事前の電話は」
「ホームページに番号が載ってるが、問い合わせはメールのみになってる。直接行った方が早い」
**
島根県来次市にある中海公園の中を進んでいくと、児童交流館が見えた。専用の駐車場に捜査車両を停めると、水草は星野と連れ立って館内に入った。
インフォメーションで警察手帳を呈示する水草に、年配の女性職員が怪訝な表情を浮かべた。
「あいにく、プラネタリウムの職員は本日、休暇日となっております」
抑揚のない無機質な対応に、しばしことばを失う。平日ということもあり、未就園児と保護者のグループが徒党を組んでいる。母親たちが時折、スーツ姿の水草と星野に視線を巡らせる。こちらもやはり一応にして、怪訝な表情を浮かべている。
「水草さん、やはり津和野に行きましょう。ここでまごついてたら、時間が惜しいです」
星野が珍しく焦りを見せた。聞いていた無機質な受付の職員が、こんどは機質のある口調でいった。
「あの、プラネタリウムのアルバイト従業員なら出勤しています。呼び出しをしましょうか?」
なんだ居るのかといった表情で、星野がカウンターに身を乗り出した。
「お願いします、アルバイトの方で構いません」いった後に、水草に目配せしたので頷いた。
しばらくすると、受付カウンターに初老の男が現れた。白髪混じりで、背の低い小太りな体躯だった。
「私は御影と申します。字は御影石のミカゲです。受付職員から警察のお方だと……アルバイトですが、及ばずながら多少でもお力になれたら幸いです」
初老のアルバイト従業員はネックストラップを掲げると、ニコニコとしながら頭を下げてお辞儀をした。
「小会議室がありますが、そちらで構いませんか?」
「ええ、構いません」
水草が答えた。
子どもや保護者たちの好奇な視線を浴びながら、アルバイト従業員の後ろに着いて星野とホールを歩き出した。初老の男は背中を丸めて、母親たちにもニコニコとしながら会釈をしている。
会議室に向かいながら、愛想の良い口調でアルバイト従業員の御影が述べた。
「定年退職した後にまだまだ働けそうでしてね、ここの児童施設で勤務している知人の紹介で五年ほどアルバイトをしてるんです」
「そうでしたか」
当り障りのない返事を水草が返す。
「いやいや、まさか齢六十五で警察の方の捜査に協力できるとは……しかしなんでまた、プラネタリウムにお越しになったんですか?」
アルバイト従業員が協力者になれるとは思えないが、そこはおあつらえ向きに返事をする。
「助かります。詳しくは会議室で」
「ご協力頂けるのなら、幸いです」星野が言下に被せた。
「あの、月や星にはお詳しいんですか? プラネタリウムのアルバイトの方でも」
会議室まで待ちきれない様子の星野が、御影に訊ねる。
「え? ああ、解説員をしているので多少はねえ……助力になれば幸いなんですが……」
自信なさげな物言いに、星野が幾分肩を落とした。
「でも、僕らよりは詳しいですよね? 解説員といったら、天体の全てを網羅していなければできる仕事ではありませんよね?」
「……あまり力になれなかったらすみません、何しろ定年後のアルバイトなもので」
星野の責めに、御影の口調に覇気が無くなっている。
「いえ、小さな情報でも助かります。些細なことでも捜査のきっかけになり、事件の解決に繋がることがあります」
水草の提言に、御影が丸い眼を更に丸くした。
「事件……ですか?」
言い終わったときに、小会議室に着いた。御影が重なって畳んであるパイプ椅子を開き、星野と横並びで座る。会議机を二つ隔てて、向かい側に御影が腰を下ろした。
「来次市の警察署の方ですよね?」
座るや否や、御影が水草と星野に問いかける。
「いえ、私共は島根県警の捜査員です。申し遅れましたが私は水草、こちらは星野というものです」
「え、島根県警の方なのですか? さっき事件と仰ってたのは」
「ニュースや新聞などでご存知かとは思いますが、白潟市の事件のことです」
「白潟? 事件って……あの、旧八白郡の事件ですか? いま騒いでる死体遺棄の?」
御影の顔が、みるみるうちに蒼ざめた。
「捜査段階に於いて、有力な目撃証言がありました。関連性を調べる必要があり、ここに訪れた次第です」
「ということは、刑事さんとお呼びした方がいいのでしょうか? すみません、テレビでしか見たことがないもので市内の警察署の方かと……あ、市内でも私服の方は刑事さんか。県警と警察署の違いが分からなくて……無知で申し訳ありません」
御影が肩を竦めながら、水草と星野を交互に見る。
「捜査は極秘に執り行われています。いまから我々が述べることに対して、口外は避けて頂きたいのですが──可能ですか?」
水草の口調に、慌てた様子で御影が返答した。
「も、勿論ですっ、あんな大それた恐ろしい事件……私なんかで、とてもお役にたてるとは思えませんが……」
「大丈夫です」
尻込みする御影に、今回は星野が助け船を出した。
「え?」
「簡単なんです。月の現象が知りたいだけなんです。あなたに危害が加わることは、無いに等しいです」
蒼ざめる御影に、星野が眉を下げる。
「ですから安心してください」
「は、はい……刑事さんがそう仰るのなら……もういくばくも無い人生ですので、出来れば平穏に過ごしたいと……申し訳ありません」
「まだ六十五歳ですよね? ぴちぴちじゃないですか。日本人男性の平均寿命は、八十一歳半です」
星野が絶妙な語彙で嗜めると、御影が照れ笑いを浮かべた。
「率直にお尋ねします」
水草が切り出した。
「月の現象についてお訊きしたい。御影さんが知っている限りの情報、知識、全てをです」
「月? あの……なぜ、月の現象がお知りになりたいのでしょうか? 事件と月の現象に、なにか関わりがあるのでしょうか?」
水草と星野が、視線を重ねる。水草は高木ミチ子の目撃情報を端折りながら、ひととおり御影に説明した。
「長い月ですか……長いといえば上弦や下弦の半月も、見ようによっては長いですよね。あと、これは一個人の意見なのですが、丸い月でも角度や網戸越しによって見え方は様々ですよねえ。例えば満月でも網戸越しに見ると縦と横に伸びていて、さながら輝く十字架の用に見えます」
「えっ、十字架? それは凄い。月の現象でなくても、見え方で月の形が変わるのか……流石にそういったことは、ネットでどれだけ調べても気づかないところです。普段月を意識して、夜空を見たことなんてないから。さすがプラネタリウムの従業員さんですね」
食いつく星野に気を良くしたのか、御影が笑みを取り戻した。
「いやいや、そんな大袈裟な……あとは、近視や乱視の方から見たら、月が重なったり長く伸びたり見えると思います。目撃者の方が、九十近いご婦人なら尚更ですねえ」
「言われてみれば確かにそうですね……それじゃ、やっぱり月の形なんてあてにならないかもしれません……水草さん──」
星野の声色に、早速の翳りが見えはじめる。
水草が話しの軌道修正をかけた。
「私共の調べた月の現象は、月暈、月光環、地球照、スーパームーン、ストロベリームーン……意外にも少なく調べようがありませんでした。この中になにかヒントを得るものはありますか? 勿論それ以外にも」
「月は太陽と地球の周りを四十億年以上もまえから、ぐるぐるとまわってますからねえ。月は地球のまわりを、約二七・三日かけて一周します。地球は太陽のまわりを、約いちねんかけて一周します。この二つの公転の影響によって、月は満ち欠けするんです。満月の夜は太陽、地球、月が一直線に並びます」
「なるほど」水草がため息交じりに呟いた。幼いころに教科書で習った記憶はあれど、日常下に身を置いていれば、最後に夜空を見上げたことなどいつだったかさえ思い出せやしない。
「天候にも大きく左右されます。刑事さんたちがお調べになった月の現象だと……そうですねえ、よく耳にするスーパームーンは小さい満月と比べて、約十四パーセント大きく見えるんです。ただ、科学的に明確な基準はないんです。六月のストロベリームーンは苺の収穫時期に昇る満月で、アメリカ先住民が付けた呼び名で、現象とはまた違うんです、あ……」
思い出したように御影が斜め上を見上げた。
「月=夜では無いことはご存知ですか?」
「どういう意味でしょう?」
身を乗り出す星野に、ニコニコとしながら御影が指を差し出し、宙に円を描いた。
どうやら、御影の顔の造形そのものが笑ったように見えるのだなと、水草がようやく気づいた。
「朝も昼も、月は見られるんです。例えば新月の日は月と太陽は同じ方向だから、日の出と一緒に東から昇りはじめるんです」
「え!」
水草の右耳に、星野の大きな声が轟いた。
「月が朝から出てる日もあるってことですか? 本末転倒じゃないですか、それっ」
星野に気圧された御影が慌てたように、広げた手のひらを振った
「いや惑わせてすみません。新月はひとの目には見えません。何しろ月齢〇.一ですからねえ。満月は夕方に昇りはじめます。上弦や下弦の月は太陽のある日中にも見えることがありますが、やはり季節や天候に左右されます。三日月が仮に日中に昇っていたとしても、太陽の光で見えません。それに、その老人女性が見た月は夜なんですよね? 九十近い方だと、やはり視力による見え方で楕円に見えたかもしれませんねえ」
「犯行目撃時刻は、真夜中だったとの証言を得ています。暗闇でも、月がひとの顔を照らすことがあるのでしょうか?」
水草の問いかけに、御影が数回首を縦に振る。
「条件によっては、あると思います。満月の真下では本が読めるくらいですから。とくに反射板の要素があれば満月やその前後、月の見える位置なら大いにあり得ます」
「満月の前後ですか──御影さん、極秘捜査の内容はまだ存在します。その長い月が見えた日には、積雪がありました。付け加えれば二月四日以降の──約二週間です。気象庁の過去データから、松江市での最大深雪は四十センチでした」
「え……雪の日ですか? 老人女性が見た長い月は、先月の大雪のときに見えたということですか?」
「そうです、あの積雪のあった数日間です。過去の私の捜査経験上で、犯人の足取り――事件解決の糸口を雪あかりが照らし、犯人逮捕に繋がったことがあるんです」
「なるほど……雪で反射すれば、夜とは思えないほど下から照らされます。光源が満月であれば尚更です」
御影が興奮気味に眼を輝かせた。
「その雪あかりで、今回の事件──犯人の顔を見たという老人女性からの、目撃証言がありました。我々が知りたいのは、死体運搬が行われた日時──すなわち犯行時刻です」
御影が、遠くを見るような眼で口を僅かに開いた。開いた口を肉付きの良い指で覆った。
「刑事さん──わたし、ムーンピラーなら今年見ましたけど」
「ムーンピラー?」
水草が反復した。
「月柱のことです、長いというよりは蝋燭の──月が柱のように伸びていて……そうだ、自宅の二階の窓から見ました、雪が積もった日です」
片眉を上げた水草が、御影を凝視した。
「それはいつですか?」
水草の声に重ねて、勢いよく星野が立ち上がった。弾みでパイプ椅子が後ろに床を引き摺り、大きな音を立てた。
「おい」
「すっ、すみません……御影さん、ムーンピラー、月柱ってなんですか?」
野性動物の勢いの如く、星野が両手を机についた。
「あ……たまたま見たんです。さっき言われたように、今年の冬は雪がかなり積もったでしょう? ちょうど雪の止み間に」
「いつですかっ?」
「え……っと、娘が孫と実家に帰ってた日だから……あ、ちょっと待ってくださいね」
御影が胸の作業着のポケットから、小さな手帳と老眼鏡を取り出した。ページをめくる指を見ながら、水草に緊張が走った。星野は椅子から立ち上がったままだ。
「二月九日です。刑事さん」
アルバイト従業員からあまりに呆気なく明かされた事実に、水草と星野が眼を見合わせる。
「そっ、それって」
興奮のあまり口が回らない星野に代わり、水草が問う。
「二月九日に見た、ムーンピラーというのは月の現象のことですか?」
「そうです、上空に強い寒気が流れ込んだときに見えるんです。わたしも実物は初めて見たので、驚いてしばらく眺めていました。その日は離れて暮らしている二十六歳の娘と二歳半になる孫が、実家に帰省していたからよく覚えてるんです。わたしは娘が幼いころに離婚しまして、今はひとり暮らしなんですがね。空を見ながら、わたしの影響で月に魅了されている娘が、孫を起こして月柱を見せてやってるかもしれないなんて思ったりしてました」
「そのムーンピラーが見えたのは、何時ごろでしたか?」
水草が喉をごくりと鳴らした。
「明け方です。前日の八日に娘と孫の住んでいる自宅に寝泊まりして、久々に親子水入らずで過ごしまして。娘が、別れた亭主に慰謝料代わりにもらったマンションなんですがね、ミキの海なんて名前まで付いてて。あ、御神酒徳利のミキなんですがね。全く、縁起がいいのはマンション名だけでした。親と同じ道をたどるとは、やはり血は争えませんね」
御影は少し渋い表情を浮かべて、話しが逸れてすみませんと苦笑した。
「娘と過ごしたのが数か月ぶりだったので、次の日に帰宅してからも興奮していて、明け方まで寝付けなかったものですから──」
記憶の糸を辿り寄せるように、御影が目を細めた。
「そうだ、刑事さん。娘の自宅マンションに寝泊まりした日は、満ち欠けカレンダーでは満月でした。ただ八日の深夜は空が明るくて、月は見えませんでした。娘は夕飯後に孫を預けた実家に帰って行ったので、八日は娘の十階の自宅にひとりで泊まりました。満月は見えませんでしたがね、空がこう、極夜のようでした。南極圏の太陽が一日中昇らない、極夜をご存じですか? 空が薄紫色で、夜とは思えないくらいでした。あんまり綺麗で、その日に会えなかった孫に見せてやりたいと思ったから、間違いありません」
「極夜ですか。前日が満月──我々も満ち欠けカレンダーをなんども確認しました。確かに八日の深夜は満月でした。満ち欠けカレンダーの提示は昼の正午月齢、つまり七日の昼の正午時点の月齢で計算していますよね? 七日は満月=八日の深夜も確かに満月です。翌日の二月九日にあなたが見たムーンピラーは、明け方だったんですよね? そのときも空が明るかったということですか?」
水草の手にじわりと汗が滲んだ。
「九日の未明は真っ暗でした。ムーンピラーに反射した雪明りで、下から煌々と照らされていました。二階の窓から見えた雪道が明るくて、幻想的でした。あまりに珍しいので時計を見たら、朝の四時でした。しばらく空を眺めていましたが、十五分くらいで姿を消しました」
「たった十五分ですか? ムーンピラーとはそういった現象なのでしょうか?」
「一定の条件が揃ったときにだけ現れる、月の現象なんです。月が低いころ地平線近くに現れる、蝋燭の焔のような形をした光の柱が見える大気現象です。赤い光の柱です」
「蝋燭の焔──ですか」
水草は御影の説明に耳を傾けた。
「ええ、上空の風が弱く雲の中の氷の結晶……六角形の氷晶が地面に水平に落下していくため、地平線に近い月からの光が反射されて、月の上下に柱のような光芒が見えるんです。月柱は、満月かそれに近い月齢のときにしか起こらない現象です」
「上空に強い寒気が流れ込んだ、風の弱いとき。氷の結晶、月が地平線に近い、満月前後、特定の条件を満たしているときにしか現れない希少な、真冬の月ということですか──」
「そうです、雪が積もった日の月の現象だと気付かずに前置きが長くなり、手を煩わせたようですみません……」
人柄が滲み出た表情で、決まり悪そうに御影が頭を下げた。
「いえ、捜査内容を伏せていたのはこちらです。有力な情報に感謝します」
「とんでもありません。少しでも今後の捜査のお役に立てるのでしたら、何よりです。しかし刑事さんたちは、満ち欠けカレンダーの正午月齢までご存じなんですね? お詳しいので驚きました、さすがです。でもあの月柱が、老人女性が見た月なのでしょうか?」
「わかりません──しかし、死体遺棄の犯行時刻が二月九日の未明だと推定できると、犯人の絞り込みが極端に狭まります。遺棄日が九日であれば、殺害時刻にも直結する可能性があります。御影さん、はじめにも述べましたがこの捜査内容は極秘です。くれぐれも内密に、口外は避けてください」
御影の顔が、また蒼ざめていた。穏やかな口調で水草が告達した。
「さっきも星野──こちらの捜査員がいったように、捜査に協力したからといってあなたや娘さん、お孫さんに危害が加わることはありません。県民の安全な生活を、護り抜くことが我々の職務です。ご安心なさってください」
御影が強張った頬をゆるめた。
「いやぁ、お恥ずかしい……歳をとってすっかり臆病風に吹かれやすくなりました。娘にしっかりしろと怒られそうです」
「御影さん、捜査にご協力頂きありがとうございます。日本一、治安の良い『しまね』に戻します。安心してください。その後……今月の満月をお孫さんに見せてあげられましたか?」
星野が人懐っこい笑みを溢した。
「いえ、それが娘はひとりで孫を育てているので忙しく、滅多に二人に会うことができないんです」
「そうなんですか……自分は子どものころ、お爺ちゃんっ子だったんです。警察官になろうと思ったきっかけが、祖父が交通事故で亡くなったからなんです」
初めて聞く話しに、水草が思わず星野の横顔を見た。
「──それは大変な努力をなされたんですね。あなたのようなお若くしっかりした方が刑事さんであり、これからもずっと私たち県民を護ってくださる――あなたのお爺さんに、感謝せねばなりませんね。あなたを天国から見護る、お爺さまに」
御影が水草に顔を向けた。
「会えない孫を想って、ひとりで娘の家に泊まったときに作った詩があるんです。恥ずかしながら、年寄りの趣味で俳句もやっていて……」
「へえ、詩と俳句ですか。二歳半のお孫さんは女の子ですか?」
「いえ、男の子なんです。もう少し大きくなったら野外から、満天の星空と満月を見せてやりたいんです」
御影が相変わらず笑みを讃えながら、ことばを溢した。