怪物と美人とスノームーン
島根県白潟市南八雲町に、一軒の無人の借家が存在する。
築百年近い、木造平屋の建造物。室内は朽ち果て、床は一部、腐蝕していた。雨漏りで天井は垂れ下がり、屋根には漏電を防ぐための設備が申し訳程度に施されている。
家の窓ガラスは風になびく度に、頼りなさげに揺れている。上部の隙間からは、破片がポロポロと落ち、木枠の隅にガムテープで目張りがしてある。汲み取り式のトイレの浄化槽の蓋は、小さな穴だらけだった。
自転車小屋を設けた位置から室内に繋がる洗面所の下には、経年劣化による大きな穴が開いている。亡くなった世帯主の手によってトタン板が立てかけられ、釘打ちされていた。
防犯カメラの多いこのご時世で、すぐに足取りが着くのは致命的だ。犯人は敢えて選んだ。土地勘もあり、死体遺棄の場所には打ってつけだった。
市に合併する以前は群であった街に残存する、昭和時代の建造物だ。
狭い路地の中には、ところ狭しと五軒の借家が建ち並んでいた。どれをとっても、築百年近くの建造物である。路地の入り口を背に、左側に横並びに四軒。突き当たり正面の玄関口が見える一軒が、遺棄現場である。
路地を出ると右手に川が流れ、橋の向こうに一方通行の細い市道が通っている。車の往来は見られず、閑散とした街には冷たい空気だけが澱み、殉じていた。
使命を果たさない古びた街路灯が、路地の入り口に悠然と立っている。まるで番人づらだ。
現場家屋に向かい砂地の奥に進んでいくと、足元の砂利が音を立てる。夜になれば懐中電灯無しでは、歩けないくらいの暗がりだ。
近隣に、防犯カメラは一台も設置されていない。入り口から二番目の借家に、九十間際のひとりの老人が住んでいた。唯一の目撃者であった。
訪れた水草に向かって、老人女性は出し抜けに言った。
「怪物」
「え?」
「だからあ、カ、イ、ブ、ツ」
口を縦と横に開き強調するさまが、仰々しい。ブツの二言で、唇を大きく突き出した。カイの時点で、入れ歯が飛び出しそうな勢いだった。
「あたしが見たのはね、カイブツだよ。あれは人間じゃないねえ。目ん玉がないんだ、こんな感じだよ」
老婆が両腕で身振り手振りしながら、目を見開く。血筋の入った白眼が剥き出すくらいの、形相で。
「目ん玉がないのに、そんなに目が大きかったんですか」
「……アンタ、嫌な人だねえ」
後ろから、捜一の星野が口を挟んだ。
「おばあちゃん、怪物の顔、もう少し詳しく教えてもらえないかなあ。ほら、カイブツといっても色々いるだろう? 俺は怪物って聞いて真っ先にいま、デカい口に長い牙、手を広げた指の先には長い爪、こんなに背がデカくて──」
星野まで大袈裟なジェスチャーを交えながら、歯を剥き出しにした。
「……違うねえ、背丈はあったけど、あたしが夜中に見たのは……」
怪物は、あんたの方じゃないのか……水草が胸裏で舌を打つ。
「怪物なのに、綺麗な女を連れてたよ」
「え?」
思わず、二人同時に反応する。
「美女と野獣って感じかねえ」
老婆はまた口を大きく開き、こんどは高笑いを放った。
「──詳しく聞かせてください。どういった顔でした? 男女二人で雪の積もった夜に、この路地を歩いていたということですか? それは、夜の何時頃でしょう。二月の何日か、覚えていますか?」
大雪に見舞われたのは、二月四日の深夜だ。五日には一面の雪景色となった。温度は上がることなく、市内で概ね三十〜四十センチの積雪が見られた。日中には治まったように見えたが、夜半にかけ気温は前夜より下がりはじめた。新たな雪は降り続け、マイナス四度の氷点下となった。風による吹き溜まりなどの局地では、積雪量は五十センチを超えたところもあった。雪は十六日から十七日にかけ陽射しに晒され、二週間を終えた頃には、積雪など無かったかのように解けて消え去った。
端からこの老婆に、正確な死体遺棄の犯行時刻を求めてはいない。
「そうだよ、男と女だった。夜中にトイレに行ったとき、外から音がしたんだ。あんなに降ってた雪がやんでたんだから、忘れないよお。突き当りの家の方から歩いてきたんだ。気づかれないように、真っ暗闇の家の中から見たんだ。間違いないよ、丑三つ時だったからね。日付けは……雪がたくさん積もった日だよ」
「でもおばあちゃん、家も真っ暗、外も真っ暗闇なのに、なんで怪物と綺麗な女だって分かったの?」
星野の問いかけに、老婆は口を歪めながら噤んだ。水草はハッとした。
「雪あかりかもしれない。雪の紫外線を照り返すパーセンテージは、アスファルトやコンクリート、ミラーよりも高い。夜でも街灯がある場合、二倍近く夜道を照らすんだ。雪が反射板になるからな。だがそれには光源が必要だ」
諄々と述べる水草を見ながら、老婆も星野も口をぽかんと開けている。
「ずいぶん詳しいんですね、水草さん」
小声で言う星野の目に、若干の羨望が見て取れる。
「昔、雪道の下足痕で足が付いた事件があったからな」
交番勤務だった当時に見た、薄紫の空が彷彿とする。コンビニ強盗だった。レジの金を渡さなかった、アルバイト従業員が刺されて死んだ。十六歳の女子高校生だった。積もった雪の反射で薄明かりに照らされた夜道は、ホシとおぼしき人物の足跡にまみれていた。数時間後に、現場周辺に潜んでいた男が現行犯逮捕された。
「そうだよっ、だからよく見えたんだよお」
助け船にしがみついた老婆が、相変わらず大きな声をあげた。
水草は入り口付近に立つ、老いた番人を見た。しかし、あの頼りない灯りがこの借家まで届くとは思えない。せいぜい番人の向かい側に設けられた、錆びれた倉庫辺りまでだろう。いっそ街路灯が証言してくたら、幸甚の至りに尽きるのだが。
「ここから街灯まで距離があるが、顔ははっきりと見えましたか?」
左手で番人に指を指す。老婆が覗き見るように、玄関口から顔を出した。
「だから、怪物みたいな顔だって言ったろう」
「もう少し具体的に──なぜ、怪物なんでしょう」
老人相手に、苛立ちを覚えたらおしまいだ。水草は少し屈み姿勢になり、老婆に目線を合わせた。
「目が無いんだ、無いっていうか……こう、瞼がねえ、ブクっと」
「瞼が? 腫れてたんですか?」
「うーん、そうだね、びっくりするくらい腫れてたねえ」
「それで目が無いように、見えたんじゃないですか?」
思わず顔を寄せて、老婆を覗き込む。速まる心拍をなだめた。
「あなたが見たとき、怪物は突き当たりの家から、路地の入り口に向かって雪道を歩いて来たと言いましたよね。どちらの目が腫れていたか、思い出せますか? それとも両眼でしたか?」
ますます口を歪めた老婆が、大きな目を上に動かした。
「──こっちだったかねえ」
しわがれた指で、自分の左眼を差した。
「左の瞼が腫れてたんですね? よく思い出してください」
「間違いないよ。あたしから見て向こう側だったからねえ、左側がぶわっとね」
得意の手振りで、血管筋の浮かび上がる甲を見せながら、顔面左を覆った。
その所作を見て、水草は唸りたいのを堪えた──ホシは怪我をしていたのだ。
司馬のことばが頭を掠めた。
〈殺害される前に試合でもしてたのか──〉
マル害の殺害時に争った際、ホシが怪我を負った可能性があった。両眼が塞がっていたのなら雪の有無に関わらず、死体は運べない。片目が潰れていただけなら、運べる。二人でなら。
「左側、全体が腫れていたということですね?」
「まあ、そう言われると……そんな感じだったよ」
「女が一緒だったと言いましたよね、どんな女でしたか?」
上がり間口の床に、老婆が腰を下ろす。九十近い婆さんだ。玄関先の立ち話しで、具合でも悪くなられようものなら非常に厄介だ。婆さんが握っているのは、ホシ本人の顔の目撃と、犯行後の行動を裏付ける有力な情報だ。これを逃すことだけは、ぜったいに避けねばならない。借家五軒のうち、唯一居住者がいるこの家を何度訪ねても不在だったのは、本人が検査入院していた為だった。
「ああ、寒いでしょう。あなた……高木さんさえよろしければ、少しおじゃまさせてもらって、詳しい話しをお聞かせ願いたいのですが、どうでしょう」
水草は慇懃に述べた。八十七歳と聞いて、最初は全くの期待薄で疑ってかかったが、存外この老人女性の証言から確証が得られるかもしれない。野心的な試みが煽りをたてた。
水草のはかりごとには弄せず、老婆が首を捻った。
「背の高い女だったよ。すらっとして……テレビにでも出てそうなね。高校生の孫が読んでた本に載ってるような、あれはなんていうんだったかねえ」
「雑誌のモデルだよ、おばあちゃん。そんなに美人だったの、その女」
食いつくように、星野が身を乗り出してくる。
「そうだよそれ、モデルだよ。男の方はもっと背丈があったねえ、とにかく二人とも背が高かったんだよ」
「凄いよ。おばあちゃんのおかげで、犯人が捕まるかもしれないよ。その美人は、やっぱり若い女だった?」
水草は推し量った。この路地は番人以外には、いっさい街灯がない。街や車の灯りも届かない。番人である街路灯が、水草に耳打ちをする。
〈オレは見た──バアさんも確かに見た〉
生じ始めた疑問符が、錯覚を引き起こした。
「化け物──ああ失礼、怪物は左眼と頬あたりが腫れてたんですよね」
「そうだよ」
「怪物は男でしたか?」
「は?」
「怪物は、どうして男だと分かったんでしょう」
「そりゃあアンタ、どう見ても男だったよ」
「なぜ」
「なぜって──だって、アレが女なわけないだろお、あんな図体のデカい女がいるもんか」
尖った物言いの上から、言下に返した。
「図体のデカい方が男、モデルみたいにすらっとした方が女。二人は横並びではなく、男を前に一列で歩いてはいませんでしたか? 後ろの女を右方向に振り返って見たから、男が怪物に見えたんじゃないですか?」
水草は老婆から離れ、番人の方角に立った。右側から後ろを振り向いて、左顔面をみせた。
老婆が目を丸く輝かせ、話すよりも先に頷いた。
「あんた凄いねえ、さすが刑事さんだねえ、ドラマみたいだよ、なんで分かったんだい」
「なんとなくです」
嘘だった。まず、雪深く狭い路地を横並びに歩くのはあり得ない。老婆を試す口実に過ぎなかった。通常、雪道などでは前者の辿った道を、後者が辿るものだ。男女だったら当然、男が前だ。自分だったら、そうする。
ただでさえ難を要する雪夜に、死体を遺棄するのには労力を使う。あんな歪な穴に向かって持ち上げて、室内に入れるのだ。自転車小屋の屋根は、ほぼ壊滅状態だった。穴の周辺も、積雪はかなり深かったはずだ。
穴からなんとか死体を押し込み、遺棄する。二人が一列で借家を後にして、雪ぼこりを舞い上げながら深雪の中を引き返す姿が、目に浮かんだ。
「女は、髪の毛はどうでしょう。ロングだのショートだの、分かりましたか?」
「帽子を被ってたから、よく見えなかったねえ」
「どんな帽子でしたか」
「覚えてないよ」
疲れてきたのか、老婆の顔に翳りが見えはじめる。
水草は言及した。
「犯人を目撃したのはあなただけです。高木さん、覚えてることだけでいい、あなたが覚えていることだけ、教えてはもらえませんか」
老婆は、腕を組んで俯いた。それから首筋を真っ直ぐに伸ばし顔を上げると、ポツリとこぼした。
「月が出てたねえ」
高木ミチコは、目尻に深い皺を寄せて瞼を細めた。
「月が出てたから、灯りが無くても見えたんだ。思い出したよ。普通だったら、雪が積もっても見えやしないよ。あの夜は雲がかってたんだけどねえ、雪の止み間に見えた満月でやけに空が明るくて……怪物とキレイな女が雪ん中、長い月に向かって歩いて行ったんだよ──」
**
星野が運転席に回り、警察車両に乗り込む。
「いやにしっかりした婆さんでしたね」
「ああ、信憑性はあるな」
「自分が住んでる場所から目と鼻の先の家に、殺人犯が死体を運んだと知ったあとで、恐怖感とか無かったんでしょうか」
「あのくらいの年齢になると、なにも怖いものがないんじゃないか」
こんどはなんとなく、口にした。
「美人で背の高い被疑者か……」
「おまえ、そればっかりだな」
揶揄するように言うと、高木ミチコの証言を頭でループさせた。
月──満月か。それで、ホシの顔が怪物に見えたのか。しかし例え満月を調べたところで、犯人特定の裏付けにはならない。月の満ち欠けなどそんなもの。
水草は手元のスマホの画面をタップした。検索して、二月の満ち欠けカレンダーを見る。月は太陽に反射しているのだ。降ったり止んだりの雪夜の変わりゆく空を、満月だけに固執しても絞り出しは不可能だ。
あの大寒波の後、降り積もった雪は日差しに晒され二週間と持たなかった。死体は放置すれば環境下にもよるが、二日ほどで腐敗が始まる。冬季では七日程度だ。実際問題、解剖結果のみから死亡時刻を〝〇時〇分〟レベルまで特定することは、極めて困難であるのが現状だ。
借家の死体は、発見時点の段階で腐敗の進行状況は青鬼だった。死亡推定時刻は、死体発見時から遡った十日前後だ。
ここからは脚を運んでの目撃情報収集と、被疑者のアリバイ確認と絞り込みだった。月の裏付けは曖昧だが、怪物発見のマル目の婆さんに手を合わせたいくらいだ。
積雪があったのが、二月四日の夜半から約二週間。死亡推定時刻とおおよそ合致する。
にしてもだ。なぜ都合よく、二年ぶりともいえる雪深い日に死体を遺棄出来たのだ。
目的は、下足痕の隠滅が確証めいている。下足痕は雪解けに消える。新雪はもろくて柔らかく、密度が軽い。次第に密になり硬くなる。しかし時間経過と共に、消える。積雪日に合わせて、殺人を犯したとでも? 気象予報士でもあるまいし。例えそうであったとしても、雪解けの正確な日数などあらかじめ分かるものか。故意なのか、偶然による必然か──。
ふと、投げかけてみる。
「どうして、相手に女を選んだと思う」
「そうですね。やはり、男は美人に弱いからってのが尤もでしょう」
星野はこの事件の担当から外すべきか、と本気で思う。しかし、一見若くて人当たりの良い、女好きなだけが彼の取り柄ではない。こいつの射撃の腕前は一流だ。全国警察拳銃射撃競技大会 (私服警察官用拳銃の部)で、歳々に亘りトップに躍り出ている強者でもある。
「おまえだったら、どうする」
「え?」
「俺だったら死体の運搬に、共犯者だったとしても非力な女は連れて行かない。力のある男に手伝わせるよ」
「確かに……好きな女に、そんな危ない橋を渡らせたくはないですね。水草さんと同意見です」
星野がハンドルを握りながら、顎を上げて首を見せる。顔つきが輝いて見えるのは、気のせいだろう。
「なんで、好きな女だと思った」
「いや、ホシが綺麗な女を連れていたと婆さんが言ってたから……二人は恋人同士かなと」
「そうか」
死体遺棄に好きな女を同行させる。一般論でいえば共犯者だろう。しかし共謀者だろうが、好きな女に死体運びを手伝わせるか? 無い。じぶんだったら、それはしない。女が殺したとしてもだ。
「好きじゃない女か、屈強な男か、いなければ一人で運ぶっていう手段もあるな」
「ひとりで? マル害が一八五センチも立端がある男だとしてもですか? あの積雪量で?」
「俺は一八〇センチだ」
「自慢ですか」
「いや、そうじゃない」
狭い路地に借家が五軒。おそらく新雪の上だ。男二人がかりで運んでも、きつくはないか。温暖化の煽りを食って、この二年間は積雪が皆無だ。スキー場も閉鎖する有様だった。娘が小さい頃は──。
「自分は一七〇センチです」
何故か星野が申告する。
「じゃあ、好きじゃない非力な男はどうだ。消去法でいくとこうなる」
「それがいちばん、合理性に欠けますね」
星野が短く鼻で笑う。待て、まだ続きがある。
「──力のある、痩せて長身な男だったらどうする。好きかどうかは置いといて、これなら死体運搬に役に立つ。あくまで消去法だがな」
「それなら使い勝手が良さそうだし、俺でも喜んで誘います」
「その男と、俺をソリに乗せられるか」
「水草さんとソリ遊びですか?」
この単細胞さが、敢えて星野とタッグを組む理由にも繋がっている。言い換えるなら、直情型か。
「ソリに乗せて引きずれば、少しは楽にならないか」
「なるほど、思いもよりませんでした」
それから──「女が背が高くモデルのようだったという証言は、信憑性に欠ける」
「どうしてですか」
「雪あかりがあったとはいえ、あの大豪雪だ。仮に分厚い防寒着に、長靴かスノーブーツを履いてだ。体躯は不明瞭になるだろう。綺麗な女だというのも、帽子を深く被っていたら当てはまらない。マル害の体重は、推定八十五キロだ。怪物が屈強だったとしても、モデルみたいな痩せた女と何かに乗せて運ぶにしても、無理がある」
星野が押し黙った。美人が容疑者候補から外されたのが惜しい、という理由ではないことを祈りたい。
マル目で有力だったのは、死体遺棄の際にホシが怪我をしていたという証言だ。足取りを掴むカードは揃っていないにせよ、あの老婆にして千載一遇のチャンスだ。
「スノームーンか」
「婆さんの月の証言は、確かなんですかね」
「調べたいことがある、帳場に戻ってくれ」
「はい。しかしスノームーンと美女か、あつらえたような犯罪ですね」
言ってしまったあとで決まり悪そうに、星野がエンジンをかけた。
祈りの勘はアタリだ。