愚かな願い
白髪の男が護岸を歩いていた。晩秋だった。汽水湖からは、潮の匂いが風に乗り漂っていた。湖畔まで来ると、砂埃と泥まみれの登山靴を履いた脚を止めた。
中年の男は持っていた透明な袋に入った、一握りの灰を掴んで目の前に掲げた。湖上に向けて手のひらを広げた。
ジーンが湖風に煽られ、高く舞い上がった。光の粒子になった。陽光を帯びて煌めき、湖上を舞うように散った。それからゆっくりと、湖面に返っていった。
差し出した手のひらの中を、長い間眺めた。あの日じぶんに宿った椿知武というこころが、ひどく優しかった。静かで、ひどいくらいに美しかった──。
十八年前、拘置所に送られてきた手紙を大切に持っていた。いちど千葉に帰ると書いてあった。直ぐに返事を書こうとした。しかしそれは果たされなかった。知らせをうけたあと、頭がついてこなかった。身体の痛覚が失われたような感覚だった。
懲役十二年の実刑判決だった。刑務所で十年間、刑に服した。
同部屋の輩に揶揄されようが、消灯前になると手紙をなんども読み返した。限られた時間に隙間があれば、繰り返し読んだ。十ねんの間、読み返した。
そして、三枚目をいつも瞼の裏で想像した。書き記された景観を、数えきれないほどに馳せた。馳せながら眠りについた。
出所後、数年が経った。意を決してここに返すために燃やして、灰にした。取り出しやすいように小袋に入れて、シェルジャケットの右ポケットに入れた。今年も早朝から山に登り、鍵掛峠の紅葉を見た。
出所後も、本人の埋葬先は調べなかった。
桐生蓮は、震える唇を抑えようと歯を食いしばった。なびいた白い髪が濡れた頬に張り付いた。手紙の返事がずいぶんと遅くなったことを、胸裏で詫びた。瞳から湧いては溢れる涙を、なんども湖風がさらっていった。
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──昨日の昼、また白潟公園に行ってみたんだ。宍道湖の波が全く無くて、湖面が揺らいでて潮の香りがしたよ。太陽に反射して、宍道湖がキラキラしてた。
どうか身体に気をつけて。奪った自分が言うのに決して相応しいことばじゃないけど、きみの幸せをこころから願ってる。
きみのマンション、神酒の海は月の海のひとつだったんだね。本屋で読んだよ。月には水がないのに、あんなに沢山の海があるから驚いたよ。
きみは、自分が灯りを持ってないって言ったけど、月の海は偉大だった。だって火山岩でできた暗く見えるその平らな地形にある〈静かの海〉に、アポロ十一号が月面着陸したんでしょう?
きみの月の海は地球からは暗く見えるけど、偉大にして大いなる海だ。なんだか蓮に似合ってるよ。それに光害がない夜空こそ、星が際立って見える。きみが言ったんだよ。
でも俺のせいで穢れてしまった……変なことを書いてごめん。
手紙は読み終わったら、捨ててもらいたいんだ。そうしたら燃えて灰になるよね?
愚かな願いを最後にごめん。でもそこから始めるよ。灰になればゼロになる。きっと今度こそ、ずっとやっていけるような気がするんだ。蓮だってそうだ、こんな手紙にまで囚われて欲しくないんだ。
一年に一回は山陰地方に戻ってきて、大山に登ろうと思うよ。鍵掛峠をきみに見せたかった。そのときは必ず宍道湖にも戻るよ。俺はあの湖が好きでたまらない、この手に欲しくてたまらないんだ。あの日きみの部屋から見た、宍道湖大橋のリフリレクションが、俺の目の色とは違う、蓮の黒い瞳に映り込んでた。
きみが言ったように、外の世界は綺麗だよ。ただ、きみがいない。蓮が教えてくれた世界に、蓮がいないんだ。きみを照らしたいのに位置がわからない。でも蓮の願いを叶えたかったんだ。きみは俺のいちばんたいせつなものを、取り戻してくれたひとだから。
いま雨の音がする。きみと出会うときは雨の日が多かったから、雨は好きなんだ。
せめてものお詫びに手紙の三枚目に、これからのきみに伝えたいことを書いたんだ。良かったら読んで。手紙なんて初めて書いたよ。字が汚くてごめん。
明日は朝早くここを出るから、そろそろ寝るよ。雨が降ってて、今夜は月が見えない。でも雨音がすると、きみがそばにいるようで落ち着くんだ。きみはいまなにを考え、なにを思ってるんだろう。
なんど会いに行っても面会を断るきみに、申し訳なさが募る。きみの一番大切なものを、こんどは俺が必ず取り返してみせる。不利益ばかりが生じないように、証明してみせる。
前に言ってくれたよね? 俺には生命力があるって。でも少し違うんだ。きみともっとずっと一緒にいたいと思ったから、あのとき起き上がったんだ。だからホームから暗いそこに落ちなかったんだ。きみがこっちに戻って来いと引っ張り上げて、俺の命に力を分け与えてくれたんだよ。
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蓮。この雨が止んで梅雨が明けて、夏になったら思い出して。想像して。医局から外に出て、星鳥の夜空に手を伸ばしてみて。どの市町村に立っても、天の川が見える。きみはこの街の、煌めく星たちを手に取ることができるんだ。
夏の終わりには、眼を閉じてみて。湖が見える。宍道湖大橋からのリフレクションが、きみの瞳に映り込んでる。宍道湖の湖風が蓮の髪をなびかせる。赤く染まる入り日に浮かぶ嫁が島が、きみを抱き寄せ優しく包み込む。月の引力で、静かに湖面が揺らいでる。夕映えの湖上に、茜色の月が見える。
秋になったら山を想像して。崩落の山、大山から鍵掛峠へ向かう頂から麓に沿ってまたぐ水のない川、三つの沢がある。水のない月の海と同じ、水のない大河が山肌に流れてる。朱、橙、黄の黄金色に染まるトンネルを抜けるよ。
蓮、標高九一〇メートルに位置する、鍵掛峠が見える。新秋に色づくブナ林の絨毯が、大スケールの南斜面に広がってる。山が紅葉に埋めつくされてる。原生林に楓やもみじが有彩色を放ってるよ。
冬になったら夜空をえがいて。見なくてもいいんだ。きみの中で思い描いて。
まいとし蓮の雪になるよ。六角形の雪の氷晶の花になって、しまねの空から降り積もるよ。きみを見つけ、この街の空と夜を白銀に染める。きみの足元を照らすんだ。蓮、真っ直ぐに歩いてきて。もう走らなくていいんだ。
春が来る。八つに重なる雲の下に、シロツメクサが根を下ろす広大な地が広がっている。つぎの夏、秋、冬が蓮の人生をまた巡っていく。
それからきみを、太陽の子どもに分け与えてもらった陽の色で、明るく照らすよ。蓮の澄んだこころを、いつまでも照らしていくよ。
きみという月の海。ここから遥か遠く離れた平原の海を。
静かに、優しく。
ずっと。
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6月4日 (水) PM23時47分 №3
〈了〉
一カ月半に亘り連載させて頂きました。
読了してくださった皆様には言い尽くせないほど様々な《念》で溢れています。
本当にありがとうございました。
最後に【梗概】こうがい(←結末までのあらすじのことです)を提示させて頂きますことをお赦しくださいませ。




