月の海
解散した捜査本部に残されたパイプ椅子の背もたれに、もたれかかっていた。
後ろのドアから、捜査一係長の司馬が入ってきた。
「なにしてる、さっさと片付けて引き上げるぞ。県警のデスクに申請書類が山積みだぞ」
「ああ、すみません」
「いちど帰ってきたらどうだ、奥さんが着替えを持ってきてたから、おまえのデスクに置いといた」
「地球が月の息子が見えないように、月の海の中に隠したんです」
「なんだそれ、天体か? 俺はからっきし分からんよ」
「桐生が月で、死んだ女が地球だからです。我々の太陽から月を隠したんです。だから、見えなかった。月を隠した地球の女は、月の母親だったんです」
「えらく抽象的だな、ますます分かりにくい」
「皆既月食です、縁取られた円光がなければ、桐生に辿り付けなかった。地球が必死に隠しても、太陽からのわずかな光に月が反射したから、円光で桐生だと分かったんです。いみじくも月を照らしてしまったのは、月が愛した太陽だったんです。端から太陽は、我々ではなかったということです」
「なるほど、おまえは意外にもロマンチストだな。しかしその髭、剃ったらどうだ」
「星野は、どうなりますか?」
「被疑者死亡のまま書類送検だからな、処置は監査に従うしかない。さきに行ってるぞ」
ブラインドカーテンからの落日が、会議室の床のタイルに夕日影を落とし揺らんでいた。
水草は声に出した。
「星野、怪物が隠れていたのは、木を隠す森じゃなかった。月の海の中にある『神酒の海』だったんだ。書店で娘に買う月の本を選んでたときに、そう書いてあった。怪物の父親に会うまで、俺は気付かなかった。宍道湖の十分の一は海だもんな、水の無い月に海があるなんて知らなかったよ」
水草は続けた。
「星野。怪物の正体は、二十六歳の新人外科医だった」
返事はなく、しんとした空間にことばだけが冗長と漂った。
「怪物の顔を婆さんに明かしたのは、ムーンピラーじゃなかった。父親が二人に車の存在を知らせようと点けた車幅灯に、雪が反射したんだ」
雪深く狭い路地の入口に停まった、一台の車を想像した。
「俺らが婆さんから取った証言は、『怪物と美人とスノームーン』って絵本の終盤に出てくる、ながい月だったよ。タイトルが無かったから俺がつけた。無名の作者と美人が、ハトを飛ばし合ってたってヤツだ。今回のヤマは返し(報復)じゃなかった。四十ねん前の、“約束”だ」
水草が前屈みになり、床に揺れ動く長い影に目を落とした。
「おまえがいちばん知りたがってた美人は、怪物の恋人でも、痩せて力のある男でもなかった」
声に出すのは、やめにした。
──星野、美人の正体は──。
──怪物が二歳半のときに死に別れたはずの、手放した息子にずっと会いたくて仕方なかった、怪物を愛してやまない、お母さんの彩音だった。
二人ともハズレだ。




