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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
四章 四葩の月
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インテリ眼鏡


 ふと、立待陽色(たてまちひいろ)はジムの入口を振り返った。飲んでいたペットボトルを下ろし、腕で口を(ぬぐ)った。ミットやサンドバッグに当たるグローブの音と、リング内のシューズの底が擦れる音が、ジム内に反響している。


「あの、嵐さん。やっぱあいつ、来ないですね」

「ん、なにが」

「いえ……」息を吸ったあと、言うのをやめた。


 あのインテリ眼鏡が、ジムに顔を出さなくなった。


 かれこれ、半年近くは見ていないような気がした。七年以上もやってたと言う割には、くだらない奴だ。体力作りかなにか知る由もないが、所詮は医者が趣味程度でやっていたお遊びだったということか。


 最後に会ったのは今年の二月、救急外来の患者としてだ。傷口がぱっくり開いた俺の瞼を、早い手捌(てさば)きで繋ぎ縫い止めた。向こうは気付きもしなかった。


 バンテージを口に咥えながらナックルに巻きつける。対戦を頼まれたスパーリングで見せた眼光と、パンチのラッシュを思い出した。

 練習のあと、味気ない雑談をした。顔は知っていたが、話したことは初めてだった。



「目、悪いんですか」

「弱い近視なんです。運転するときだけです」

「敬語いらないです、あんたの方が歳上だろ」

「そうですか」


 慇懃(いんぎん)さが鼻につく。眼鏡をはずした顔立ちが整ってるぶん、尚更か。


「なんで、医者してんですか」

「医者じゃないです」


「はあ? だってさっき」

「俺は医師だから。まだ研修中の身ですけど」


 ムカついた。しかし自分も、もう直ぐハタチだ。喧嘩っ早いのはやめにしたんだった。気を取り直し、インテリ野郎に告げる。


「ディフェンスがさ、イイんじゃないですか」

「え?」

「ウィービングとか、フック当たんねーし」


「パンチは今ひとつってことですか」

「そうは言ってねえ……です」


「嬉しいです、ありがとう」


「スパーリング大会、出ないんですか」

「医師になれなかったら、いつかぜひ」


 あいつはほくそ笑んで立ち上がると、ロッカールームに歩いて行った。その後もなんどか見かけたが、いつからかぱったりと姿を消した。


「おいヒーロー」


 嵐に呼ばれて我に返った。グローブをはめてリングに上がる。


 つぎにインテリ眼鏡と出会ったら、こっちからスパーリングを挑んでやる。それから、パンチの威力もなかなかだったと。リーチが長いから、インファイトもアウトもいけていたと。もっとギアを上げて、俺のダウンを奪ってみろと。


 あと、医者じゃなくて『医師』か。どうでもいいが、間違えないようにしないとな。



 ちい、プロテストに合格したんだ。Ⅽ級ライセンス、取得したよ。


 あんたが隣の部屋に置き忘れた、ステンドグラスのランプ。あの鳥、白雁(はくがん)だったんだな。白い翼の先が黒い鳥。図鑑で調べたんだ。あと一羽じゃなかった。太陽の下を二羽飛んでた。でっけえ(はす)みたいな花の上を。


 たいせつに保管してるからよ。いつか必ず取り戻しに来い。今度は俺の家で、家族皆で夕飯食べよう。妹も会いたがってるぞ。ここの大特典、居住権はいのちある限りの無期限だからな。


 ずっと待ってるよ。







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