インテリ眼鏡
ふと、立待陽色はジムの入口を振り返った。飲んでいたペットボトルを下ろし、腕で口を拭った。ミットやサンドバッグに当たるグローブの音と、リング内のシューズの底が擦れる音が、ジム内に反響している。
「あの、嵐さん。やっぱあいつ、来ないですね」
「ん、なにが」
「いえ……」息を吸ったあと、言うのをやめた。
あのインテリ眼鏡が、ジムに顔を出さなくなった。
かれこれ、半年近くは見ていないような気がした。七年以上もやってたと言う割には、くだらない奴だ。体力作りかなにか知る由もないが、所詮は医者が趣味程度でやっていたお遊びだったということか。
最後に会ったのは今年の二月、救急外来の患者としてだ。傷口がぱっくり開いた俺の瞼を、早い手捌きで繋ぎ縫い止めた。向こうは気付きもしなかった。
バンテージを口に咥えながらナックルに巻きつける。対戦を頼まれたスパーリングで見せた眼光と、パンチのラッシュを思い出した。
練習のあと、味気ない雑談をした。顔は知っていたが、話したことは初めてだった。
「目、悪いんですか」
「弱い近視なんです。運転するときだけです」
「敬語いらないです、あんたの方が歳上だろ」
「そうですか」
慇懃さが鼻につく。眼鏡をはずした顔立ちが整ってるぶん、尚更か。
「なんで、医者してんですか」
「医者じゃないです」
「はあ? だってさっき」
「俺は医師だから。まだ研修中の身ですけど」
ムカついた。しかし自分も、もう直ぐハタチだ。喧嘩っ早いのはやめにしたんだった。気を取り直し、インテリ野郎に告げる。
「ディフェンスがさ、イイんじゃないですか」
「え?」
「ウィービングとか、フック当たんねーし」
「パンチは今ひとつってことですか」
「そうは言ってねえ……です」
「嬉しいです、ありがとう」
「スパーリング大会、出ないんですか」
「医師になれなかったら、いつかぜひ」
あいつはほくそ笑んで立ち上がると、ロッカールームに歩いて行った。その後もなんどか見かけたが、いつからかぱったりと姿を消した。
「おいヒーロー」
嵐に呼ばれて我に返った。グローブをはめてリングに上がる。
つぎにインテリ眼鏡と出会ったら、こっちからスパーリングを挑んでやる。それから、パンチの威力もなかなかだったと。リーチが長いから、インファイトもアウトもいけていたと。もっとギアを上げて、俺のダウンを奪ってみろと。
あと、医者じゃなくて『医師』か。どうでもいいが、間違えないようにしないとな。
ちい、プロテストに合格したんだ。Ⅽ級ライセンス、取得したよ。
あんたが隣の部屋に置き忘れた、ステンドグラスのランプ。あの鳥、白雁だったんだな。白い翼の先が黒い鳥。図鑑で調べたんだ。あと一羽じゃなかった。太陽の下を二羽飛んでた。でっけえ蓮みたいな花の上を。
たいせつに保管してるからよ。いつか必ず取り戻しに来い。今度は俺の家で、家族皆で夕飯食べよう。妹も会いたがってるぞ。ここの大特典、居住権はいのちある限りの無期限だからな。
ずっと待ってるよ。




