陽炎
「母の部屋にあった本から、出てきたの」
「これは、水蓮ですか」
「ハスの花だと思う」
「なぜ、見せてくれるんですか」
仁和子が俯きながら溢した。
「だって恋愛相談所、椿くんは首を傾げて眼をパチパチさせてるだけだし、千隼くんが社長の娘がむやみに社宅に出入りするなって言ったとき、田辺くんが快く引き受けてくれたでしょう」
仁和子の頬から雫が滴り落ちた。
「いえ、俺はなにも……」
「これね、母が大切にしていた本の中に挟んであったから。継母は私の父と再婚する随分前に……結婚していて、子供がいたの」
「再婚? 奥さんは仁和子さんの実母ではないんですか?」
「うん。母は二十代のときに離婚して、三歳くらいの子どもを相手方の家に置いてきたと聞いたことがあって……母の彩音と私に、血の繋がりはないんだ」
「そうだったんですか……」
「田辺くん」
「……はい」
「葵月ちゃんのことよろしくお願いします」
田辺迅翔は、深々と頭を下げる仁和子に目を見張った。
「──わかってます」
「こんなことになって、従業員の皆に」
「仁和子さん」
名を呼ぶと彼女がおもむろに顔を上げた。童顔の丸く小さな顔が歪んだ。
「僕らは諦めません。会社が再建する手立てが無いわけではありません。今は奥さん……お母さんのことだけを考えて」
「さすが……恋愛相談所の引継ぎを……椿くんから……請け負った……だけの」
思わず、嗚咽する仁和子の肩を掴んだ。
「繊月工業は俺の終の棲家です。千隼も葵月も、須藤さんも伊原さんも、従業員は皆同じ思いです……椿さんだってきっと──帰ってきます」
「椿くんがあんなことになって……あんなに優しくて温厚で……いつも私の相談にのってくれて……いま大丈夫かな……留置場で寒くないかな、お腹減ってないかな……」
「大丈夫です、もうすぐ梅雨入りの季節ですから。椿さん、きっと大丈夫です。俺、信じてるんです」
「凄……ありがとね……」
「その写真見てもいいですか」
田辺は仁和子が差し出した写真に目を凝らした。
「綺麗だ……誰が撮ったんでしょうね」
「お母さんの子どもの名前も性別も知らなくて。離婚した人の姓も母は言わなかったけど、何かの書類で……そうだ、古い運転免許証を見つけたことがあって。変わった漢字で……確かキリュウだったかな……うろ覚えで」
田辺は手渡された写真を凝視した。大きな蓮の花弁には、水滴が瑞々しく写しだされている。不意に裏返した。
「それ、誰の字か分からないけど詩だと思う。お母さんの字じゃないんだ」
羽澄仁和子は、泣き腫らした瞼を伏せた。
色褪せた写真の裏に、同じように褪せた文字で綴られていた。
端なく田辺の指に力が入った。
繊月工業の同僚と上司が今回の事件に深く関与し、親戚という名の他人から自分を拾い掬いあげてくれた恩人の羽澄彩音は、奇しくも死んだ。しかし子どもの名前の由来を記した写真を、二十年以上経った今でも手元に残していた。
田辺は警察署内の霊安室から屋外に出た。デーライトの眩しさに瞼を伏せると、アスファルトが陽炎のように霞んで揺らいだ。
作業着のポケットの携帯が唸りをあげた。
深代葵月からの着信だった。




