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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
第一章 ひなびた家とながい月
4/19

ヒトの脈絡


 中国地方の上空に、マイナス十五度以下の今季最も強い寒気が流れ込んだ。二月四日の夜半から降り続いた雪によって、島根県内は東部を中心に、平地で五十センチを記録する大雪となった。


 白潟地方気象台によると、五日十一時現在の積雪の深さは奥出雲町横田四十四センチ、白潟市西津田三十二センチ、飯南町赤名二十七センチ、隠岐の島町西郷二十四センチ、邑南町瑞穂二十二センチ、出雲空港十六センチなどとなった。

 気温は日中にも下がり続け五日、午後五時までの最低気温は、松江市でマイナス三・八度、飯南町赤名でマイナス七・三度、浜田市弥栄でマイナス七・二度、邑南町淀原でマイナス六・七度と、各地でこの冬一番の冷え込みとなった。


 島根県警刑事部・捜査第一課の水草直己(みずくさなおみ)は、七日目の訊き込み捜査で、目撃証言を入手した。

 二月初旬、犯人が降り積もった雪の上を歩き、現場となった無人家屋に被害者の死体を遺棄したことが判明した。しかしすっかり雪溶けした砂地には、下足痕や死体を運んだ痕跡等、いっさいは見事にかき消されていた。


 死体発見の二月二十一日の初動捜査で、水草を含む捜査員は無人家屋の周辺、外周・外壁など順次を同一方向に一周して観察した。犯人の侵入や逃走、その他犯罪に関連のある証拠の発見のための現場観察である。

 侵入経路と逃走口は、狭い路地の入り口一ヶ所と、行き止まりの現場家屋の裏手を囲う高い塀の向こう側だけであった。塀の向こうには廃墟となった、児童福祉施設の建造物が残されていた。


 成人男性が二人がかりだとしても、脚立でもなければ抜け出せない。おまけに裏の塀の手前側には、家屋に隣接した低い塀が更にあった。高い塀との間には草や葉が不気味なほど鬱蒼と生い茂り、柿の木が数本立っていた。


 無人家屋五軒が立ち並ぶ路地の一角の遺棄現場の家屋のみが、低い位置にある盆地のようであった。三方は全て高いコンクリートによって遮断されているため日光を遮り、室内は日中でも暗がりであった。


 建造物は古く、室内は埃が五センチ高で溜まり、毛髪もそこいら中に散乱していた。鑑識課員により室内の血液反応、毒物などの証拠の有無。並びに、毛髪・指紋採取、写真撮影が執り行われた。


 被疑者を特定できる遺留品(凶器、衣類、履物、所持品等)は死体を梱包した寝袋のみであった。量販店やインターネット等で、広く販売されている商品だ。


 遺留物として、指紋、掌紋、毛髪などが室内から採取されたが、前住人の世帯主や家主の坂田のものである可能性が高かった。しかし、死体から微量な繊維片が採取された。鑑識課と科学捜査研究所の鑑定を待つ運びとなった。


 死体は、家屋の経年劣化で形成されたと推定される外部の洗面所下部の穴から、斜め上方向に頭部から室内に押し込まれていた。全裸で寝袋に梱包され、仰向けの状態で洗面所と風呂横の狭い廊下に遺棄されていた。


 トタン板で隠された穴の上部には、犯人が工具等で推し広げたと推測される痕跡があった。無人住居の全ての窓と勝手口、玄関入り口は家主によって施錠されていた。


 犯人が室内に侵入した痕跡は無かった。(かん)の有無については、無人家屋の存在や侵入経路からも、現場付近の事情に予備知識があり、敷鑑(しきかん)、土地(かん)に反映する人物が推定された。 

 犯行状況から、二月初旬に四十センチ近い積雪量があったことや三方の高い塀からも、死体運搬には二人以上での犯行が想定された。

 検視の結果、死体に多数の刺切創(しせっそう)、無数の打撲傷が見受けられた。S大学附属医学研究センターへ司法解剖に回されることとなった。


 被害者はDNA鑑定及び捜索願い、行方不明者リストによって判明された。

 臼井実(うすいみのる)、三十九歳。


 妻帯者であり、職業は除雪作業員であった。しかし昨年の十一月に依願退職し、失業保険給付金の受給者であったことが判明した。

 妻の臼井麻由子に対し、県警本部にて事情聴取が行われた。水草が取調官として任命され、対応した。


「──ご主人は、昨年から帰宅していなかったということですか」

 水草の問いかけに、真由子は泣き腫らした目で頷いた。


「あの人は、そういう人でしたから……でもなんであの人がこんな酷いことに……」

 諦めと喪失感に満ち溢れた口振りで、麻由子は俯いた。


「以前から、家を空けることは多かったのでしょうか?」

「自由なんです、結婚した当初は気づかなかったんですけど」

「結婚して自由ですか──もう少し具体的にお訊きしてもいいですか」


「主人とは五年前に籍を入れましたが、子どもは授かっていません。だからママ友もいません……主人は連絡が途絶えると、平気で数ヶ月間家に帰ってきませんでした。ですので今回もまたかという感じで……届出が遅くなったんです」

 三十五歳の麻由子が、噛み締めるように吐き出した。


「臼井さんの前職は除雪作業員ですよね、仕事の交友関係は分かりますか?」

 麻由子が、鼻に当てたタオルハンカチを握り締めた。

「分かりません。とにかく仕事が長続きしなくて……なんて言ったらいいのか、気が弱いというか……結婚してからも五回ほど離職して、失業手当をもらい、また職に就いても一年と持たないんです。酷いときは一日で辞めてきたこともありました。あの人とは夜の仕事で知り合いました。結婚前は私の店でいろいろ話しましたが、籍を入れてからは会話も少なくて」


「結婚前にはどんな話しを? ああ、こんなときに失礼しました。話せる範囲で構いません」

「いえ……なんでも若いころは、ボクシングの選手を目指していたとか……ジムの練習生だったと言っていました」

「ボクシングですか」

「ええ、あとは……二十九のころに家族と死に別れたと聞いています」

「家族? ご両親ですか?」

「いえ、前の奥さんと……」

「ご主人とは再婚だったんですか? 前妻は何かのご病気で?」

「はい、癌で亡くなったと言っていました」

「──そうでしたか」 


「あの……」

「どうされました?」

「亡くなった奥さんとの間に、子どもさんが……ただ出会ったことも無いし、年齢や住まいまでは知りません」

「臼井さんには、子どもがいるのですか?」

「店で聞いたことがあって……性別は知りませんが……」

 終始歯切れの悪い口調ではあったが、亭主が殺されたのであるから、当然といえば当然だった。


「主人は人柄は温厚でしたが、差が激しい人でした」

 出し抜けに麻由子がいった。

「どういった差なんでしょうか?」

 水草は無意識に、身を乗り出していた。


「怒るときと優しいときの差が……普段はとても優しく温厚なんです。ただ、ひとたび怒ると手が付けられなくて、その繰り返しでしたので……まさかそのせいで、主人はこんな惨い目に」

 ハンカチを握る手が震え、赤みがかっていた。


「現段階での捜査状況からはわかりません──なにか夫婦間で問題が生じていましたか?」

「いえ、ただ気分にむらがあって……優しいときとそうでないときの差が……それだけです」


 水草は瞼を細めて、麻由子のあかぎれた手の甲を凝視した。臼井実の戸籍の調査を、鑑識に依頼する必要性があった。最後に麻由子がいった。

「行方不明になる前……出かけたとき機嫌が悪かったから……きっと、つぎ会うときは優しくしてれるんだろうと……あのひとは私じゃないと駄目なんです。私しか、あのひとを解ってあげられなかったんです。だから結婚記念日には帰るんじゃないかと、ずっと待っていました。クリスマスには、戻ってきてくれるんじゃないかって」


**


 死体遺棄現場となった住居には、独居老人の男性が居住し、十年前に亡くなっていたことが家主の坂田の事情聴取から判明した。徐々に話しは枝分かれして、遡っていった。


 するとかつてこの家では、亡くなった世帯主を含めた、四人の家族が暮らしていたことが明らかになった。しかし一家は数十年前に離散していた。

 家族構成は、世帯主の築島(つきしま)宗次郎と妻、二人の子どもである。世帯主の離婚した元妻であった貴子は、老衰のため既にS県内で死亡していた。


 築島遼一郎(りょういちろう)、五十三歳。

 帳場の捜査員が二人連れで三重県在住の長男の元へ出向き、任意同行を求めた。管轄である三重県警の同意を得て、自宅で事情聴取が執り行われた。被害者との因果関係及びアリバイから推定しても、築島遼一郎は限りなくシロに近かった。


 世帯主の長女は、事件現場と同じ島根県内に在住していた。

 羽澄彩音(はすみあやね)、四十九歳。


 水草は任意で事情聴取に踏み込んだ。場所は島根県白潟市宍道町にある、羽澄彩音の夫の経営する、建築資材会社だった。自宅とひと繋ぎである会社の二階が事務所であり、一階のフロア内には二つのパーテーションがあった。それ以外に従業員の昼休憩用に設けられた畳の部屋と、給湯室と応接室があった。


 言われたようにフロア内の、打ち合わせや作業用に使用するという広いテーブルに座って待った。しばらくして、二階の事務所から中年女性が降りてきた。


「お待たせして、大変申し訳ありません。コーヒーとお茶、どちらがお好きでしょうか?」

 羽澄が、慇懃(いんぎん)に述べた。黒髪で短髪だった。長身で細身なせいか、五十近くにしては若見えがした。


「いえ、構いません。電話でお伝えした通りのことをお訊きしたいだけですので」

 水草は思慮したが、羽澄はオフィスコーヒーマシンのスイッチを入れた。ホルダのカップに注いで机に置くと、どうぞといって水草の向かい側の椅子に腰掛けた。


「わたしがあの家を出たのはまだ幼い時分でしたので……あまり覚えていないんです。刑事さんからの電話で驚きました……おそろしくて、ニュースや新聞にもあまり目を通していません」

 羽澄は目を伏せると、長いまつ毛を震わせた。


「家を出てから親御さん……お父さんとの交流は無かったのでしょうか」

「はい、全くといって──家を出て直ぐに母親が再婚しまして。兄は岐阜の親戚筋に預けられ、そこで育ちました」

「あなたは母親の再婚先で、育ったのですか」

「ええ、高校を卒業するまでは出雲市の養父の家に住んでおりました」

「結婚して、白潟市にまた移住されたんですね」

「そうです」


「失礼かとは存じますが、事件の……あなたが育った家の洗面所付近に穴が開いていたのはご存知でしたか?」

 水草が切り出した。羽澄は細い首を少し傾けると目を瞬いた。


「穴ですか……住んでいたころがあまりにも昔なので……古い家ではありましたが、母がいつも綺麗にしていましたので穴など記憶にありません」

「幼少期に家を出てからは、生まれ育った家に帰ったことはないのですか?」


「はい、いちども帰ったことはありません……父親は不在がちでしたから、あまり記憶に無いんです。それに私が産まれた随分あとで、大阪の箕面からあの家に引き上げてきたらしく……父と一緒に暮らしたのは幼少期の五年ほどなんです。十年前に亡くなったことも知りませんでした。父は生活保護受給者でした。火葬も共同墓地の埋葬も、全ては市役所の手配で……あの家の家財の全ても、役所の方達と民間会社で片付けられたと、父が亡くなった後に福祉課の方から電話で聞きました」


 羽澄の瞳が、濡れたように潤みがかって見えた。


**


 基礎捜査が終了した段階で、白潟署に帳場(捜査本部)が設けられ、朝の八時半より捜査会議が開かれた。捜査本部長である県警捜査一課長の曽野以下、古志原管理官、松江警察署長、現場臨検に立ち会った、県警の調室員の刑事全員と所轄署の刑事の十数名が軒を連ねた。


 司会進行役は県警捜査一課の係長、司馬(しば)である。

「地取り、聞き込みはどうだ」


 司馬の声に、県警の捜査員が立ち上がる。

「聞き込みに関してはまだこれと言って、重要な手掛かりはありせん。目撃情報も皆無です。現場家屋は十年前に世帯主が病死した際、役所の福祉課と民間会社とで家財等は全て廃棄処分したとのことです。その際の穴の有無を確認しましたが、気づかなかったと関係者からの証言を得ています」


「現場付近に居住者は少ないのか」

「はい。なにしろ家主所有の現場以外の三軒の借家にも、人が住んでいないものですから。一軒だけは住人が居るようなんですが、何度訪ねても不在でして。市に合併前は群であった地域であることからも近隣には高齢者が多く、特に夜間には街路灯が少ないこともあり人通りは殆どありません」


鑑取(かんど)りは」

 所轄の倉田が答える。

「現場の元世帯主の長男、築島遼一郎の居住地、三重県に出向いて聴取しました。マル害との因果関係や地理的に、現段階ではシロだと思われます。長女は水草刑事が聴取しています。手口と特定箇所からも敷鑑、土地鑑ともに入念に洗っている現状です」


「つぎ、司法解剖」

 解剖に立ち会った、水草の番である

「三嶋検視官によるマル害の外表所見の刺創(しそう)は、全十三ヶ所に及んでいました」


 島大法医学研究センターの解剖室での、貝谷教授の執刀を想起した。


 司法解剖の内部所見で、死体に強い頭部外傷(後頭部に頭皮下出血、頭蓋骨骨折)によってできた脳挫傷の部位に、血腫(けっしゅ)一八〇グラムが認められた。


 死体の腰部に、皮膚割線に平行に幅の狭い刺創(口)が見受けられた。創の幅三センチ、創口(そうこう)の長さは十センチで筋肉を超え臓器に達していた。右側の創端はやや鈍っており、それに比べて左側の創端は鋭く尖っていた。ここから腰部の刺創は片刀の刃物によるものであり、右側を峰、左側を刃先とした向きで平行に刺されたと推定された。


 腰部の傷の創口は、創縁に僅かに出血が見られる程度で皮下脂肪が見えており、生活反応が弱くなってからの刺創であると推定。腰部刺創の横に、点状の躊躇(ためら)い創が見られた。創縁を接着した際の接着長からも、凶器は小型の包丁ないし果物ナイフ等によるものだと推定された。


 胸腹部に存在する、十二ヶ所の刺創の創口に出血は見られず創は開いていなかった。生活反応が無くなった死後の刺創であることが断定された。死体に防御創はなく、胸腹部の差し入れ口は多様であった。凶器は腰部刺創と同様の、片刀によるものと推定された。


 顔面及び腹部には無数の打撲傷、口腔内部裂創及び歯牙欠損の外表所見があったが、これは生前に生じたものと推定された。


()()()()()()()()()を呈しているというわけか。怨恨の大半が被害者とメンが通じてるからな、割出しにそう時間はかかるまい。複数人による犯行と怨恨の可能性を含め、マル被は残忍且つ凶悪な人間性である可能性が高い」

 司馬の眼差しが鋭さを帯びていた。


「創傷の数が多い理由は、まだ存在します」

 水草が提言した。


「なんだ、言ってみろ」

「背後から刺した傷だけでは相手が息を吹き返し、自分を襲ってくるかもしれないという不安です。加害者の切迫性や小心性の表れであることからも、弱者の犯行である可能性もあります」


「女性や若年層、或いは小心者の保身的心理か」

 司馬が自身を言い含めるように吐露した。


「直接の死因は、血腫(けっしゅ)だったようだが」

 司馬が言わんとしていることは、捜査員からの個別による事前での大まかな捜査報告のことだ。


「はい。死斑、創口の生活反応から推定する限り、失血死ではありません。後頭部の脳痤創に伴う脳表の破綻により血腫が形成され、脳を圧排したことによる外傷性硬膜下血腫が直接の死因です。対側損傷が生じていることから、加速による力が加わったことが想定されます」


 司馬の視線を浴びながら、更に述べた。

「暴行された際に転倒し、後頭部強打で意識レベルが下がる。生活反応の弱くなった背面から躊躇(ためら)いながらも腰部を刃物で一撃され、マル害は更に意識消失に陥った。マル被は前方に回り込み、無抵抗であるマル害の胸腹部の多数を刺したといった推定です」 


「弱者とは思えない殺害法ではあるな。しかし複数犯の可能性がある、強者と弱者による犯行とも捉えられる」

「はい、二人以上の可能性を視野に入れて引き続き捜査します」


「腐敗状況は」

 これには同じく司法解剖に立ち会った、捜一の星野が答えた。

「冬季及び大寒波により、外気温約零下〜五度と推定されています。発見時、死体全体が淡青藍色に変色。角膜は混濁し、死後硬直は緩解していました。体内に腐敗ガスが発生し始めていたことから、外気温と直腸内温度から算出し、死後十日程度であると推測されています」


「つぎ、遺留品については」

 鑑識課員の須賀が立ち上がった。

「マル害が梱包されていたシェラフ(寝袋)はマミー型です。中綿は化繊でした。全長二一〇センチ×肩幅八五センチのベーシックなものです。シェラフの中では比較的安値で、スポーツ店や量販店、インターネット等で誰にでも簡単に入手できる商品です。サイズバリエーションがあり中綿がダウンのものは値も張りますが、遺棄に使用されたメーカーのシェラフは、三シーズン可能なごくありふれたものです。現在、製造から販売までの流通経路を洗っています。室内から採取した遺留物は、前世帯主や家主のものでした。それ以外のものを鑑定したところ、生前時に来訪していたヘルパー数人のものとDNAが合致しました」


「遺体からの遺留物は」

「マル害の顔面から、微細な繊維片が採取されました。ALS(科学捜査用ライト)により、半合成繊維のプロミックスであることが判明しています。プロミックスの特徴は、牛乳のタンパク質であるミルガゼインが原料だということです。ネクタイ生地にあるような、絹のような風合いと光沢のある繊維です。商標登録されていましたが、現在では生産終了しています。絹の弱点であった虫に弱いという点を克服した繊維ともいえます。プロミックスを使った商品には限りがあります。二〇年前に生産が中止されていることからも、こちらも流通経路を絞り込み洗っている状況です」


「体液や血液付着はどうだ」

「それが──」

 須賀が言い淀んだ。

「シェルフ内から採取された遺留物は、全てマル害のものでした。血痕が少なく――これは水草刑事が述べたように、創傷の殆どが生活反応が無くなった死後のものであり、血液凝固された後による運搬だと推定されるからです。マル害の身体から採取した微量な繊維片は、植物繊維の綿でした。皮膚断面の一部からは、アルコールが検出されました。殺害後、全裸の状態でエタノール等を使い、タオルで身体の拭き取りを行った可能性があります」


「遺留物の周到な証拠隠滅か──しかし毛髪一本、遺留指紋ひとつさえ採取できなかったというのもおかしな話だ」

「五〇五、五三〇nm(ナノメートル)でも潜在指紋は検出されませんでした。体液瘢痕の多くはシミになって残される事例が挙げられますが」


 不意に須賀がいった。

「まるで、湯灌でもして、そのあとにアルコールで拭きあげたような──」

「殺した相手を風呂に入れたのか?」

「いえ……専門外なので、内部所見で見極めたわけではありませんが」


 水草が立ち上がった。

「当然ですが、解剖時では被害者の死後硬直は緩解していました。しかし、あのマル害の体躯です。穴の中に二人以上の人間で押し込んだと推定して──外気温からも、遺棄時には死後硬直が強く残っていたとも考えられます」

「殺害後、二十時間といったところか」


「これはあくまでも私の憶測ですが、死後に強直性硬直が起こったのではないかと」

「マル害に、弁慶の立ち往生が起きたとでも?」

「妻の臼井麻由子から、マル害は若い時分にボクシングに傾倒していたとの供述が」

「殺害される直前に試合でもしてたのか?」

「いえ、あくまでも予見です」


 水草が椅子に座り、反芻させる。直接の死因は失血死ではない。被害者の腰部の創の哆開が軽度だったのは、生活反応が無くなる寸前だったに相違ない。

 しかしそれ以外。死の直後に硬直が強度に現れていたのではないのか。ならば死体からの出血量は更に少なく、直後の死斑は顕著だったのでは──。


 通常、死後に血液が凝固するまでに少なくとも二十時間。遺棄時刻が判明すれば、殺害日に直結する可能性が大いにあった。


 だが、いま水草を網羅しているのは意外な盲点だった。強直性硬直──具体的には、強度な運動後、痙攣後、高体温時、そして時には〝極度の興奮〟といった〝極限の感情〟によって、強直性硬直は引き起こされるとも言われているからだ。


 殺害直前に試合。司馬が呈示した揶揄が、あり得なくはないということだ──。









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