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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
四章 四葩の月
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変化

 インターホンのカメラで、エントランスホールから出たジーンを確認する。右眼で追った後、モニター画面を閉じた。リビングの窓に歩み寄り、外を見た。ジーンの姿が見えるはずもなく、宍道湖大橋からのリフレクションが氷結した湖面を照らしていた。


 薄紫色の空は、いちにち中太陽の昇らない、真冬の南極圏の日中の極夜(きょくや)のようだった。太陽が一晩中が沈むことのない、夏の白夜(びゃくや)のようでもあった。


 美しかった──。窓に触れた指から結露が滴った。美しさの代償に、いちばん大切なもの失くした。

 極夜だろうが白夜だろうが、いまを行かなければ──。


 ズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し画面をタップした。ソファで仰向けにした握世のそばに行き、ワンコール目が聴こえたときだった。


 エントランスの呼び出しチャイムが鳴った。即座に電話を切った。ジーンが戻ってきたのかと、確認せずにインターホンの通話ボタンを押した。


「──俺だ」


 目と耳を疑った。うっかり手から滑り落としたスマートフォンが、床の上で派手な音をたてた。留守を装うべきだったと、後悔が押し寄せる。


「開けろ」

「──いま、ちょっと知人が来ているので……またにしてもらえませんか」


「話しがある。駐車場にいる、終わったら連絡をしてくれ」

「今日は無理です」

「こっちも無理だ」


 相変わらず、歯軋(はぎし)りがしたくなる言い草だ。とんだ番狂わせに、少なからず狼狽(ろうばい)した。だが時間が惜しい。慮外(りょがい)なことを口走らなければ済むことだ。


「じゃあ……開けます」

 ロックを解除する。玄関ホールに行くと同時に、扉のハンドルを揺らす振動が走る。


 桐生蓮(きりゅうれん)は溜め息を吐くと、解錠してドアを開けた。


「なんだ、女は返したのか」

「そんなもの端からいません」

「おまえ、その顔はどうした」

「ちょっと……問題が発生して」桐生が顔を隠すように視線を床に落とした。 


「ちょっとの怪我では無さそうだが」

「今日は帰ってくれませんか」


「無理だ」

 父親の桐生勝哉(かつや)が、玄関ホールからリビングに向かう。


「待ってくださいっ」

 走って肩を掴んだとき、勝哉がリビングの扉を開いた。

「なんだ、これは」


「──施錠し忘れて……金品目当てに押し込んできたので……揉み合ってるうちに殴り合いになり、後ろに転倒した後に動かなくなりました……」


「診たのか?」

「……はい」

 勝哉が握世に近づき、外表所見を診る。


「転倒直後には意識清明期(せいめいき)(うかが)えました。しばらくして意識レベルが下がって……近づくと吐瀉(としゃ)物があり、片目の瞳孔(どうこう)が開いていました。出血が無いので脳挫傷ではなく、頭蓋骨骨折で生じた急性(きゅうせい)硬膜外(こうまくがい)血腫(けっしゅ)による脳への圧迫が原因かと……」


「髪をかき分けたか? これは脳挫傷(のうざしょう)からの出血と脳浮腫(のうふしゅ)で圧が高まる、頭蓋内圧(ずがいないあつ)亢進(こうしん)による意識障害かもしれない。けいれん発作はあったか?」


 ことばが出てこなかった。後頭部を強打した後に、あれだけの打撃を食らい自分は身動きできなくなったのだ。その後にジーンを引きずり──脳挫傷は、見極めることができなかった。


「いえ……気づきませんでした」

外傷性(がいしょうせい)硬膜下(こうまくか)血腫の可能性がある。脳浮腫による圧迫で脳ヘルニアに進行することも考慮すると」


 桐生は言下にことばを発した。

「大学に要請して救急搬送します」


 また右手から携帯電話が滑り落ちた。慌てて拾い、勝哉に告げる。

「──要請します」


「待て、やめろ」

「なぜですか?」


「おまえ、こいつは押し込み強盗だと言ったがそれは本当か」

「こんなことで嘘をついて何になるんです、早くしないと」


 スマートフォンを握った桐生に、声が投げられる。

「こんな男のために、人生を台無しにするのか」


 思いがけないことばに目を見張り、父を一瞥(いちべつ)した。

「俺が殴って、意識を消失させたのは事実です」


「生き延びたとしても、こいつには重い後遺症が残る」

「治療してみなければ分かりません」


「価値があるのか?」

「価値? なにを言ってるんですか? 価値もへったくれもない、助けないと」


「治療の挙句に死んだとしたら、おまえはその時点で過失致死の殺人者だ」

「なにを言って──」


「安易に判断するな。こいつが重度の後遺症で生き延びたとしても、治療の甲斐無く死んだとしても、医師免許は剥奪(はくだつ)され、おまえはもう終わりだ。仮に裁判を想定したとしてもだ。過剰防衛(かじょうぼうえい)ということばを知っているか? 無罪放免という訳にはいかない」


「──それは」

「こいつに生きる価値はあるのか? 蓮」

「生きる価値の無い人間なんて、いない……」


「押し込み強盗? 玄関の施錠をし忘れた? おまえがか?」

「疲れてたんです……エントランスホールには住人がロックを解除したときに、紛れて入りこんだんだと」


「じゃあ警察か救急車を呼べばいいだろう。なぜ煌大に要請するんだ。この雪で、県を(また)いだ救急搬送が来ると思うか? もっと頭を使え──俺に噓をつくにしてもだ」


 核心をついていた。一一九番通報すれば、近隣の総合病院に搬送され早急に適切な治療が受けられる。しかし、警察に通報される。調べれば、押し込み強盗の虚偽など直ぐに知る所となるだろう。


 因果関係が明るみになれば、ジーンが浮上する。ぜったいに避けねばならない。勤務先の大学病院とて、同じことだった。たったひとつの理由を除けば──。


 勤務先の大学病院の院長は、眼前に居る理由の張本人の実兄である。桐生は、ますます口を噤んだ。

「おまえ、誰かを介してこいつと面識があるんじゃないのか」


 はっ──。無益な言葉が衝いて出た。「あるわけないでしょう」


「蓮、こいつに生きる価値はあるのか? こいつがこれからも生き続け、記憶障害、運動麻痺、高次機能障害でおまえの人生もろとも引きずり奪い去る、その価値がこいつに」


 桐生は一点を見据えながら、口籠った。

「こいつに、おまえの人生を奪う価値が?」


「そんな──俺は相手の人格で人間の生死に値打ちなどつけません、そんな権利は自分には無い」


「俺がおまえに、その権利とやらを与えてやる」

「あんた一体さっきからなにを言って──」桐生は言い淀み、干上がった喉をゴクリと鳴らした。


「こいつは放置すれば確実に死ぬだろう、どう長く見積もっても明日の昼くらいまでだ。血腫の致死量は、当然熟知しているな。おまえに権利をやる。まずは桐生の家に帰り、その顔の怪我の手当をしてもらえ」


 眉を歪めた桐生が、顔を伏せる。何さまのつもりだ──。


「あんたはいつもそうだ。いつだって意のままにならない人間は、切り捨てじゃないですか。俺はもうガキじゃない、やりたいことをやる。俺には護りたい人がいるんだ……護るためなら、傷害や殺人者の肩書きだろうが喜んで所望します。でも、こいつをいま死なせたらあの人は護れない。こいつを生かさないと」


「大した詭弁(きべん)だ。護る相手が、こいつの生を喜ぶのか? おまえの護りたい相手はこの男を欲し、必要とし求めているのか?」


「黙れっ」

 桐生が勝哉の胸ぐら掴む。潰れた左眼に映る父の姿が霞んで揺らいだ。


「それ以上言うな、知りもしないその口であの人を──」

 振り解くように父を離した。


「蓮、こいつは『悪』か? それとも『善』か?」

 勝哉の顔を凝視した。眼鏡の奥の眼差しは、あの頃と何ひとつ変わらない。


「おまえが決めろ。いま、ここでだ」


 桐生は床に(ひざまず)き、両膝を握り締めた。握世の善悪を決めろというのか。握世に価値はないだと? ならば自分のした行為はどうだ。結果的に、白日(はくじつ)にジーンを晒す羽目になりかけてはいないか。


 価値のない握世に、価値の無い自分の行為。しかし、あの状況での無為(むい)は到底考えられなかった。


「誤るなよ、蓮。俺はおまえの『悪』ではない」

 桐生は答えない。沿う返事は皆無だ。代わりに吐き出した。


「見殺しにしろと──そういうことですか……死ぬのに? 確実な死を目前に? 俺は医師です……どんなに残忍な凶悪犯でも、治療を施し、救い、罪を償わせる。善悪を問わず命を救うことが、この仕事の所以(ゆえん)ではないんですか?」


「蓮、おまえは『悪』か? 鏡を覗け。いま、おまえの顔はこいつと同じだ」

「なんだと──」


 桐生はふらつく脚で立ち上がり、勝哉の目の前に立った。

「おとうさん」

「なんだ、覗かないのか」


「俺は『悪』だ。それでいい。しかし悪だろうが善だろうが、(はな)から悪人が存在しますか? 殺人者だって赤ん坊のころは善だろう? 違いますか? 手段や目的が入れ変わって『悪』になったんだろう? 環境も然りだろう、なりたくてなったわけでは」


「この男を庇うのか?」


「違う!」桐生が顔を覆う。「こいつを許せなかった……殺してやりたいくらいだ、いまだって!」震わせた右拳で、もたれかかったキッチンカウンターを叩いた。


「殺そうとしたんだ、ナイフを握った瞬間、もう殺してた……こいつに意識があれば、俺は確実に殺しました。ジーン……いえ、俺は、俺だけのために、もうこいつをやったも同然なんです」


「ならば、おまえもこの死にかけている男も『悪』だ。見誤るなと言ったはずだ。俺も悪だが、おまえの『悪』ではない。運転はできるか」


「──俺は帰りません」

「おまえ、殴って転倒させたのは何時だ」


 桐生が咄嗟に壁の時計を見た。ジーンを返したのは十時過ぎだ。ここに着いたのが八時頃だった。

「わからない……九時頃だったかと」


「今、十一時を回っている。二時間だ」

「なにをしようとしてるんですか、まさかここでオペを始めるとでも?」


 桐生の嘲笑が、瞬時に固まった。

「そうだな。悪くない提案だが却下だ。俺とおまえとこいつは諸悪(しょあく)権化(ごんげ)だ。蓮、いま俺たち三人に必要なものはなんだと思う」


 ──あの眼だ。前に見たのは、ずいぶん昔のことだ。あのときから、全てが変わった。一桁の年端も行かない自分でも、変化がわかった。空っぽの自分に降り注いだ。


「……わかりません」

 勝哉が握世に近寄り、見下ろした。

「変化だよ──それには役割り分担が必要だ」


 桐生の背筋に戦慄が走った。

「言ってる意味が……」


「こいつは虫の息で口が利けない。おまえは冷静さを欠いて判断が鈍っている。変化を興すにはなにが必要なんだ、蓮」


 勝哉の表情が緩んだ。捉えた桐生が(いぶか)し気に父を見た。


「きっかけだ。俺から始める。いいか、これは変化だ。おまえ『善』に戻りたくはないのか? 戻りたくないと言えば、それは偽善になる。悪より厄介な二枚舌だ」


「俺にどうしろというんですか」

「始めるのは俺からだ。直ぐ桐生の家に帰り、連絡を待て。おまえの役割はあとで果たしてもらうから、首でも洗っておけ」


「あなただけ、ここに残してですか?」

「そうだ」


「あり得ない……あんたの代わりになんで俺が帰るんだ」

「役割りだ」

「嘘だ!」

 奥歯を噛み締めると、鉄の味が広がった。


「まさかとは思うが、心配でもしてるのか?」


「この状況で? あんたを残して帰れるわけが……企みを教えてください。なんで、いつもそうなんだ……独り善がりで出し抜けで、相手の気持ちを汲んだことなんておよそ無い。そんなに俺のことが……嫌いなんですか──」


 勝哉の座った膝を掴み、桐生がわななく。

「嫌いなら、切って捨てればいい! ずっとおとうさんがそうやってきたようにっ、なんで今になって手を貸そうとするんだ!」


 息巻くと、頭上を見上げた。また天井が回り出す。疲弊(ひへい)しきり傾いた身体から、勝哉が腕を掴んだ。


「おい、おまえ運転はやめておけ、迎えを寄越す」

「よしてください……知れたことだ。帰らない、帰ればあんたの家族に……めい」


 朦朧(もうろう)とする桐生の背中を抱えながら、携帯を取り出した。


「俺だ。悪いが一台寄越してくれないか。いや、息子だ。ああ、頼む。左顔面に皮下出血と左瞼に裂創、おそらく口腔内部もだ。脳震盪による目まい、ふらつきの症状がある。治療は外部には……それでお願いしたい、急いでくれ。ああ、メロペネム0・5グラムを三回に分けて点滴静注してくれ。場合によってはアセトアミノフェンの投与──」


 意識を失った桐生がひざまずいた姿勢で、勝哉の膝に頭を乗せている。

「おい、蓮っ」


 返事の無い桐生の肩を叩く。口元に耳を当てると、呼吸音がした。背中が規則的に上下している。

 

 勝哉がククっと鼻で笑う。

「嫌いか──そうか。おまえは相変わらず食えない奴だ」







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