ジーンの優越
桐生蓮の第一回目の取り調べが終わり、直ちに留置している椿知武の聴取のため、水草は捜査本部に戻った。
「おあいこですから、お互い、もう嘘はなしでやりましょう」
水草は少し大袈裟に両手を上げて、椿に手のひらを見せた。
「椿さん、羽澄彩音に対する二月九日のアリバイ偽装の理由はなんですか?」
「──通常通りの生活をしなければ、レンに不利益が生じるかもしれない──そう思いました。出勤すると、奥さんがインフルエンザでしばらくの間欠勤すると同僚から聞きました。二人が事件に関与したに違いないと……新年会を企て、自分の所在を用意する必要がありました。僕に関わった二人に、もはや詫びることもできません──病欠明けに奥さんを問い質した僕に、インフルエンザは事実だと……間接的に二人を助けたかった。水草さんが初めて会社に取調べに来たあと、奥さんに警察からもしまた連絡があったら、必ず僕に教えてくれと頼みました。二回目の取調べに警察が来ることを知り、奥さんに口裏合わせをするように、僕が指示したんです。アリバイ偽装は僕のひとり芝居です」
事件──やはり自分のアリバイを作り、桐生蓮と羽澄彩音の犯行時刻の明瞭さを欠くために、準備立てしたのか──。
「アリバイ偽装以外に嘘はありません。ただ、まだ水草さんに訊かれていないことがあります。でも偽りは述べません、確かなことです。僕は握世の死体を無人家屋に運搬した人物が誰なのかが、はっきりとわからないんです──」
「では、率直に伺います」
椿が真っ直ぐに首を伸ばした。
「椿さん、殺したのは桐生ですか?」
「違います」
「桐生が逃げ込んだ白雁山公園に、椿さんと羽澄彩音が共に居合わせたのは、なぜですか」
「奥さんから、携帯に連絡がありました。ニュースを観たかって……慌ててテレビを点けたら、速報が飛び込んできて……奥さんが、桐生くんかもしれないって……」
「椿さんは桐生が交番巡査から拳銃を奪って逃亡したことを、羽澄彩音から聞かされたんですね?」
「そうです……そんなはずがないと……でも奥さんが言ったんです」
水草から視線を逸らさず、椿は供述した。
「自分が犯人だと、明かす為の行動だって……」
匿名電話が、桐生本人の虚偽通報だったことは周知のことだ──しかしなぜだ。交番巡査から拳銃を奪うなど、命がけの彷徨ではないか。
「どうして、羽澄彩音は白雁山公園だと分かったんだ。あれは警察内部だけの極秘情報です。一般人に分かるはずが」
「僕にも分からないんです。奥さんの車に同乗して行った先が、あの公園だったんです」
「椿さん、あなたは殺した犯人が誰なのか、知っていますか──」
椿知武の顔が、大きく歪んだ。伏せた瞼からは、なにも伝うことなく雫が滴り落ち、机から弾き飛んだ。
「あの日、奥さんがレンの家に行ってからどうしても眠れず、一時間くらいしてから、レンのマンションに戻ったんです。レンは、奥さんは、僕の為に罪を……罪禍を、背負ったのですから。マンションのエントランスホールで、僕がもっと周囲に気を配っていたらこんな事件は起こらなかった……深夜の三時過ぎにレンの部屋の鍵を開けて室内に入ったときには、暗い部屋の中にレンも奥さんも、居ませんでした」
「すでに、握世実を何処かに運搬していたということでしょうか」
「違います……」
「じゃあ、二人はどこに?」
「分かりません」
「椿さん、そのとき、なにを見たんですか?」
「僕は……あ……僕が、苦しみをレンに強請ったばかりにこんなことに……すべては、僕がやったも同然です」
「馬鹿な……苦しみ欲する人間など、この世に存在しません。椿さん、あなたは間違っている。桐生が例え苦悩を抱えていたとしても、あなたには持っていないと伝えるはずだ。そうでしょう?」
うつむく椿の頬はこけ、一層の翳りが見えた。
「水草さん……レンの部屋に握世がいました。僕がレンの家に保管していた、キャンプシートの上に」
「救急搬送の要請は、虚偽だったんですね」
「違います……僕は……そのひとの条件を満たす、約束をしました……レンに背負わせた僕の罪禍をせめて……少しでも担い、償いたかったんです。その為になら犯罪に加担することも、厭わなかった」
「そのひと? 桐生の部屋に居た人物ですか、誰ですか? 椿さん、あなたに条件を提示したのは、誰ですか?」
「〝四つの約束〟をいまここに明かし、告白します……存在しなかった自分は、そのときに死にました……」
「なにを……落ち着いてください」
「ろ、して……」
それは叫びだった。水草が今まで取り調べた、事情聴取のどれよりも侘しく、悵然とした叫喚だった。
「ころして……ください……僕を……お願いですっ、日本の法律で、どうか僕を殺してくださいっ」
息が上がり、吐露した言葉が行き場を失っていた。虚無に押し潰されそうだった。椿の身体が波打った。
「驕らないでください」
深く頭を垂れる椿に、ことばを投げつけた。
「思い上がらないでください」
椿は動かなかった。小刻みに震える肩の線に向かって、水草が言い放った。
「あなたを信じ、死の淵から目覚めた桐生にも同じことを言えますか? 椿さん、哀しみに優越を抱いては駄目だ。生死を彷徨った桐生がICUで抜管した際にも、あなたの名を開口一番に呼んだそうです。なぜだか解りますか?」
椿がゆっくりと泣き腫らした顔をあげた。
「桐生があなたを感じたからです。意識の無いあいだ、ずっとあなたを馳せて感じていたからです。人間は感情で生きてはいませんか? 朝起きて夜寝るまでのあいだ、いつだってなにかを選んではいませんか? 感じて、選ぶ。苦悩を感じ、死を選ぶ。では、あなたを感じて待って、求めている人間はどうなりますか? 思い上がりです、驕り高ぶらないでください。椿さん、後ろを振り返り前を見据えることのできるあなたが、死を請うなど、傲慢な所業です」
椿知武は握り合わせた両の拳で口を覆いながら、身体を傾けた。華奢な肩を震わせた若い男は、ひれ伏すように慟哭した。
*
リビングドアの向こうに握世がいた。何か、床に敷かれたシートのようなものの上で、仰向けになっている。まるで棺に入る前のような、直立不動な体制だった。
暗がりから、ひとりの人物が現れる。
「きみは誰だ。なぜ鍵を持っている」
慄いた椿は、思わず後退った。
闇の隙間に目を凝らす。人物は、藍色のスーツを身に纏っていた。
「自分は……桐生くんの親しい友人です。そこの人は、どうなりましたか? 桐生くんが救急搬送すると……桐生くんはどこに」
「この男は死にました。きみ、名前は? 息子とは、どういう関係ですか?」
椿は吃驚した。暗い部屋を見渡した。数時間前まで、確かに桐生と一緒に此処にいたのだ。
暗闇から出てきた人物は、椿とは面識が無かった。蓮の実父である、桐生勝哉だった。
勝哉は椿に問い質した。
「死んだ男について、息子は知らない人物だと言っています。施錠し忘れた玄関から入ってきた、押入り強盗だと。争っている最中に、自分が殴った弾みで床に倒れ、動かなくなったと言っています」
「違います! この男は僕の継父なんです……桐生くんは僕を助けようと……殴って気絶した継父を救急搬送するから、僕に自宅に帰れと……」
一歩踏み出し、握世に近づく。椿は驚愕のあまり、その場に沈み込むように座り込んだ。恐怖で膝が震えた。
「きみの名前は?」
「ツバキ……トモムです……桐生くんとは一年半くらい前に知り合い、友人として親しくさせてもらっていました……」
「身分を証明出来るものを、お持ちですか?」
椿は慌てて、コートのポケットの財布からマイナンバーカードを取り出し、勝哉に手渡した。
「知武ではなく、トモムとお読みするんですね?」
「はい……」
「ツバキくん、あなたを信じます。時間に限りがあるので、端的に述べます。私は事情があり、いま、此処を離れなければならない。息子の居所はきみには明かせない、私は蓮を護りたい。ツバキくんはどうですか?」
身分証を受け取った椿の聴覚に、低い声音が入ってくる。
「勿論、同じです……僕の為にこんなことになったんです。言ってください……彼を護る為なら、なんだってやります」
「では約束を四つ、お願いしたい。まず一つ、いまきみがこの場に存在したことは、生涯誰にも明かさないでください。二つ、いまからきみに提示する条件も同様に、ツバキくんの今後の人生に亘って、いっさい口外しない、勿論、息子にもです。三つめは、終わったら私が戻るまで、この家から一歩も出ないでもらいたい」
「……分かりました、約束します」
「きみには死体に触れないよう、後始末をしてもらいたい」
「後始末……なにを、どうしたら……」
「簡単です、部屋を元通りにしてもらいたいんです。死体には触れずに」
薄闇の部屋に、勝哉の姿が浮かびあがった。ワイシャツの襟に僅かな血痕があるのが、椿の目からでも明瞭だった。
「血溜まり、おそらく息子のものですが。あとはその他に付着した、血痕。要は血の拭き取りです。毛髪や皮脂も落ちているだろうから……できますか?」
「や……やります……当然のことです」
「私が戻ったら、帰って頂いて結構です」
「──え?」
「約束を、ひとつ言い忘れました」
「なんでしょうか……」
「ツバキくんの生涯に亘り、息子とはいっさいに於いて交流しないでください。先ほども言いましたが、あなたはいま、此処に存在していないのですから。解りますよね?」
「……わかりました……条件も約束も、果たします……」
「簡単です。あなたは此処にいま、存在していないのです。存在したといえば〝大いなる嘘〟となります。忘れないでください。それから」
思い出したような口振りだった。
「これを見えないように梱包してもらいたい。この部屋のことは私より、きみの方が詳しそうだ」
薄闇の部屋に、鈍く反射した。桐生の手から椿が取り出した、果物ナイフだった。




