歪曲
渡した二本目のペットボトルの水を喉を動かし煽ると、椿知武は袖で口を拭った。
予想を超えた想定外の事実に唖然としながら、椿の顔を凝視する。
いや、まだだ。まだ話し足りないことがあるはずだ。そうだろう──桐生蓮。
「無理やり自宅に侵入し、グローブまで使い争ったということですか」
「……そうです」
正気の沙汰ではない。己の加虐から、義理の息子を庇う男を揶揄し、暴力で動きを封じる。目の前でターゲットを暴行し、それを桐生に見せる。そんな稚拙なことが目的だったのか。そんなことのために、握世のおそろしく下らない倒錯的な快楽のために、椿知武の半生は弄ばれ、助けようとした桐生は医師の道を絶たれた。
若い二人のいきついた先は、闇よりも暗い、渇いた夜の深潭だった。
強者が弱者だとみくびった男に返り討ちにあい、死者となった。しかしなぜ、あれ程までの惨い殺し方をせねばならなかったのか。
「どうしてそんなものを」
「継父は若い頃、ボクシングジムの練習生だったと聞いています。社宅でも構え方を見て、レンをしきりに煽っていました」
「構え方? 桐生はボクシングに精通していたのですか?」
「医学部に入って、体力作りのために始めたと言っていました。七年近く通っていると」
「スポーツジムのことですか?」
「いえ、ボクシングジムだったと思います」
「ジムの名前と場所は、分かりますか?」
「名前は訊いたことがなくて、場所は確かレンの自宅近くの……宍道湖の国道沿いにあったかと」
──千鳥町の豊静ジムだ。
二月三日に開催されたスパーリング大会で、左顔面に怪我を負った〝立待陽色〟の所属する、日本プロボクシング協会加盟ジムだ──。
遮断されそうな思考を、辛うじて繋ぎ止めた。耳栓でもしてるかのように音が不明瞭だった。
豊静ジムのリング上でミット打ちをしていた立待陽色と、桐生蓮の姿がダブった。
七年もの間、会員として通っていたというのか。プロ、練習生を含め、全ての会員名簿に星野と目を通した。ジムの許可を取り会員名簿をUSBに落とし、県警のデータベースの前科者ファイルと照合し調査したが、被疑者に該当するような人物は、犯行時刻前に左顔面を負傷した立待陽色以外には浮上しなかった。そして、会員名簿の職業欄に『医学部の生徒』『医師』はひとりも存在しなかった。しかし退会後であれば当然、会員名簿からは抹消される。
「桐生はその争いの際に、怪我を負いませんでしたか?」
「かなりの怪我でした」
「どのあたりに?」
「最後の一発が左の顔面に当たって、瞼が切れたんです……左側が凄く腫れて、頬骨も折れてるんじゃないかと思うくらいで」
「争ったというのは、ボクシングでだったのか……最後に優位に立ったのが握世だったんですね」
「二人とも凄い勢いでした。以前にテレビで見たボクシングの試合のようで、ことばも出ませんでした」
「桐生が敗けて、刃物を持ち出し握世を刺したときの状況を詳しく覚えていますか」
椿知武は、切れ長な眼の奥にある視線を横に動かした。なにかに躊躇い、迷っているようにも見えた。指の関節を唇に当てると、噛むような仕草で言い放った。
「刺していません」
「え?」
「レンは僕を助けようとナイフを持ち出しましたが、刺してはいません」
「どういうことでしょうか? 遺体には頭部内の出血を含め、全身で十三箇所も鋭利な刃物による刺し傷がありました。庇いたい気持ちは分かりますが」
「僕の首を絞めながら──。いつも継父が、その後で行為に及んでいたので……」
水草の握った拳に、爪が食い込んだ。
「でも、直ぐに倒れ込んで来たので、咄嗟に避けてソファから転がって落ちました。見るとおかしな声というかイビキというか、音を立てながらうつ伏せになって動かなくなったんです」
椿は宙を見据えたまま、記憶の糸を手繰り寄せた。
「目の前にレンがいました。動かない継父に気づいて、彼は思いとどまったんです。握ったナイフを取り上げようとしたんですが、指が強張って離れなくて……時間をかけて取り出しました」
糸が絡まないように、椿は呼気に抗わなかった。
「ナイフを取り上げようとしたとき二人で転倒したんですが、レンが起き上がれないので、僕が引っ張り起こしました。何かこう、ぼうっとして放心していました。怪我のせいかもしれません」
「そのあと、どう対処しましたか」
「しばらくして、動けるようになったレンが継父に近づいたので、また危害を加えられるのではと不安になり彼を呼びました。でもレンが、継父の手を掴んだり時計を見たり……握世の身体の向きを変えるのに、僕も手伝いました」
「桐生はそのとき、あなたに何か伝えましたか」
「いえ、なにも……しきりに意識の無い継父の顔を覗きこんでいました。指で瞼を構ったり……」
胸につかえた溜飲が込み上げてきそうだった。
医師である桐生が脈拍を確認し、意識障害をきたした握世の瞳孔を確認している姿が、水草の眼前に投影された。
「そのあと僕に社宅に帰れと……信じられなくて、口論になりました」
肩をわななかせ、胸中を吐露する椿が真っ直ぐに顔を上げた。
「水草さん」
「なんでしょう」
「さっき僕に、レンと関係を持ったかと訊きましたよね?」
「はい──」
「僕は……穢れた人間です。不幸を一身に背負ったふりをして、その実人に何かを与えたこともありません。ヒトの美しい部分が解りません。あれが代価だというのならば……でも払っても払っても、解りませんでした。自分は取るに足らない人間です」
「そんなことはない、あなたがそう思うのは椿さんの育ってきた環境が大いに関係している」
「僕は──虐待を受けるような人間なんです、ヒトの間に入り……人間になりたかったなんて……苦しかったなんて詭弁だっ、懊悩を抱えている人間なんてこの世に溢れてる、ただ……」
涕泣しながら訴えるように、椿知武は精神を解き放った。
「レンと関係を持ちました、なんどもです──。なぜかと言われたら、もうそれはひとつしかない……僕を人間として扱い享受した彼の喜びや苦しみを、自分のものとして受け入れたかったからだ……彼の生と自分を同時に捉えたかった、僕の中に入り込んだレンの全てを感じ取りひとつになってしまいたかった、けっきょく僕はっ」
凄まじい果敢なさに、水草は声を呑んだ。
椿知武の震える顎から雫が滴り落ち、重みで水の粒子が飛散した。水面に出来た大きな波紋は、水草をも取り込んだ。
「レンの苦しみを、僕の歪んだ苦しみと共に消化したかった。僕はしたたかで狡い人間です。レンを犯罪者にしたのは紛れもなく、僕自身です──」




