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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
三章 終の棲家とひとつめの月
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供述と事実の解釈【甘美】

 妙な声だった。

 ナイフを握った指に力が入る。また、くぐもった声が聞こえた。


 ジーンがソファから転がるように落ちてきた。四つん這いの姿勢で喉を押さえ、激しく咳込んだ。直ぐに這うようにして近付き、桐生の手に触れた。


「はなして、早く、離っ……」

 持ったナイフの腕をジーンが掴んだ弾みで、身体が傾いた。ジーンが支えるように、二人で腰から倒れた。


 桐生はまだ天井が渦を巻いているようで、動けなかった。ジーンが引っ張り、上半身を起こし上げた。

「レン……ううっ、離して……これ」


 ジーンさんが泣くのは嫌だ──。自分が不慥かであるばかりに、いつだって護ってやることが出来ない。 


「ね、離して、レンっ……」

 嗚咽をあげながら、桐生の手からナイフを必死で取り出そうとしている。


 震えは突然やってきた。身体中から冷たい汗が噴き出し、末端まで浸透すると、全身がガタガタと小刻みに震えだした。


「レン!」

 ジーンが桐生を抱きしめた。震えはとどまらなかった。


「大丈夫、大丈夫だよっ」

 細い腕を回し、横から桐生を強く抱きしめた。強く懇願する。


「ちから抜いて、ね、ほら」

「指が……動かないんです、なんでだろう……」


 桐生の手を包むように、小さな手が覆った。指を一本一本、開いていった。果物ナイフが床に落ちて、音を立てて転がった。


 未だわななく桐生の身体を、ジーンがもう一度抱きしめた。

「大丈夫だよ、刺してない、何もなかったんだよ!」


 ソファに突っ伏した握世はピクリとも動かなかった。震える手でジーンの涙を拭おうと、桐生が見た先にあった指はグレーに染まり、有彩色は奪われたままだった。


 朦朧とした意識の中で、空っぽの手のひらをじっと見下ろす。ジーンをぼんやり見つめながら、ゆっくりと手を伸ばしてみた。


 ジーンが桐生の指を掴み、頬に擦り寄せ嗚咽(おえつ)を洩らした。

「分かる? レンっ」


 むせび泣く華奢な肩を左手で抱きしめ、柔らかい髪に右頬を埋めた。どれくらいの間そうしていたのだろう──。時系列に沿って震えが治まっていった。


 桐生はふらつく脚で立ち上がった。ジーンの声が遠ざかっていく。ソファカバーに顔を埋めた握世に近付いた。


 右眼で瞬きを繰り返すと、()がれたカラーが蘇る。手首を掴んで脈を確認する。卓上の時計を見た。再度脈拍を計る。即座に上半身を抱えた。


「レンっ」

「すみません、ここを持って」


 ジーンに指示をすると、身体を仰向けにする。指で瞼を開いた。

 顔周りに吐瀉物(としゃぶつ)、意識障害。桐生の所見(しょけん)でも右眼は瞳孔不同、左眼の瞳孔が完全に開いていることが分かる。


 急性(きゅうせい)硬膜外(こうまくがい)血腫(けっしゅ)の可能性があった。頭部CTで診なければ確証は得られないが、放置すれば血腫が増大して確実に死ぬ。おそらく、最後の転倒時の後頭部の強打が原因だ。僅かに意識晴明(せいめい)期が(うかが)えた。


 直後の意識レベル低下の所見で、脳表の動脈からの出血なのか、架橋静脈(かせいじょうみゃく)からの出血なのかは判らないが、出血の増大に伴い脳が圧排(あっぱい)され歪んでいる可能性が高い。


 猶予などない、先にすべきことを果たさなければならない。


「ジーンさん、いま歩いて帰れますか? 雪が膝下くらいまである。市道脇の歩道なら多少は」


「どうして……帰るわけないよ……」

「帰ってください」


 ジーンが顔を歪めた。

「なに言ってるの? そんな……嫌だよっ」

「駄目だ、帰るんだ」


「これは、自分と継父との問題だから……レン、お父さんもお医者さんだよね? きみこそ実家に帰って、怪我の手当てをしてもらって、どんどん腫れてる、早くしないとレンがっ」


 桐生が潰れていない方の眼で、咽び泣くジーンを見る。両手で、赤紫に腫れた頬を撫でた。伝う涙と、乾いた鼻血を親指で拭う。切れた唇に指先で触れた。


「痛かったですよね……怪我をさせてすみません……首も苦しかったですよね、辛い思いをさせてしまって本当に……いま平気ですか……触った感じでは骨に異常は無いけど……大丈夫ですか、酷く痛むとこはない?」


 ジーンの首筋を、桐生の指がそっと撫でた。

「だいじょ……うぶだよ……レン、そんなことより早く実家か病院に……」


 桐生がジーンの頬から手を離すと、口角を上げた。

「俺は大丈夫です。自分がやったことだ、ぜんぶ俺の意思でやったんです。今夜のことはあなたの人生の一部じゃない、心配しないで」


 ジーンが血濡れた顔を上げた。傷を負った桐生の瞼の下の真っ黒な瞳が水を湛えたように潤み、揺れ動いた。

「だから──忘れてください」

「忘れるって……なにを」

「きょう目にした、ぜんぶです」


 上げた口角が震える。俯くと伸びた前髪がこめかみから垂れた。

「俺と会ったこともです」


「きょうの、こと……」

「駅のホームからです」


 静謐(せいひつ)を保つリビングの空間と、ジーンの咽びが()い交じった。

「手を……放すの……」

「そうです」

「どうして、そんなことが簡単に……言えるの、面倒に……なったの」

「──そうです」

「ひっ、ひどいよ……どんな……思いでっ、今までっ」


 桐生がジーンの両肩を強く掴んだ。

「そうだ、こんなに酷くてむごいことはない。十三ねんぶん根こそぎ、いっさいを終わらせるんだ。もう忘れろ、二度と思い出すな。もう二度と苦しむな。約束してください──」


 掴んだ指が肩に痛かった。それは力強く、ひどいくらいに優しかった。

「大丈夫だ、俺がずっとあなたを覚えてるから。ジーンさんが忘れても無くならない……そうですよね?」

 桐生の潰れた瞳から血とともに溢れた涙が、頬に跡を残しながら伝った。


「忘れられるわけ……ないでしょう。自分のせいでこんなことに……いま、きみを……助けたい……助けてあげられないのならせめて、レンの苦しみが欲しい、その苦しみを返してよ、ねえお願いだからっ」

 肩を掴む手に触れた。病院のアルコールでかさつき荒れた、愛してくれた大きな手の平を握った。


「ジーンさんが見つけてくれたんだ……子どもの頃からだったんです。前が灰色で、何層にも見えることがあって……父に連れられてなんども病院で検査したけど、眼底も脳にも異常が無いんです。追い越しもしない癖に、闇雲に走った……後ろから逃げたかった。でも、それが本当の自分だって気付いて。あなたが灯りを持ってない俺を赦してくれたから。このまま前が暗くてもいいんだなって──ジーンさん、とっくに助けてもらってるんですよ」


 瞼から滴る血と涙が、桐生の裸足の爪の上に落ちた。


「苦しみはあげられない、だって持ってないんです。俺からもお願いがあります。ここから出たら、しっかり見てください。外に出たらきっと世界は綺麗です。目を逸らさなくても大丈夫だ、ジーンさんはやっていけます。それが自分の願いです。叶えてくれますか?」


 ジーンと見た湖上の茜色の空が、母を彷彿(ほうふつ)とさせた宍道湖の嫁が島が、瞼の奥に浮かび上がった。ふたりではもう目にすることのない、湖上に現れたあの月も同様に。


「大丈夫、半ドアと同じレベルです。窓から見てるから。見えなくなってもずっと覚えてるよ……行って──。知武」


 ジーンが目を見開いた。熱くなった瞼に力を入れた。下を向くと床のフローリングに涙が滴り落ちた。


「叶えない、ふたりで行くんだっ、ずっと一緒にいたいよ……きみと出会ったころ割れたガラスのうえを歩いてた……前にも後ろにも行けないのに、好都合だと思ってた。だって痛くないと、フラフラじゃないと、普通でなくならないと、もう生きていけなかった……半ドアは三回目にきみが閉めたんだ。あの日レンの世界に入ったんだ。きみと出会ってやっとヒトになれたんだよ……世俗的に言えば、俺もきみが好きだよ……」


 血と涙の跡を頬に残した、椿知武が笑みを溢した。琥珀色の濡れそぼる瞳の奥に、確かに桐生が映り込んでいた。


 二人で激しく抱きしめ合った。痛みなど、なにも感じなかった。


 絡め合った舌先から互いの血の味が広がり、身体中を満たした。それは凝血(ぎょうけつ)することなく果てしなく(みなぎ)り、肉の下の心奥(しんおう)にある精神にまで達した。


 そして一対の介在を(はじ)いた境界壁を無限に流れゆくかのような、錯覚を呼び起こした。離れることがただ、怖かった。


 その、この上なく甘美なキスが、桐生とジーンの最後の交わりだった。





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