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四葩 (よひら) の月  作者: 八興 心湖翔
三章 終の棲家とひとつめの月
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馳せる白雁山


 駐車場に停止すると、ステアリング横のシフトボタン押してパーキングに入れた。


 一一〇番通報直後に電源をオフにしたスマートフォンを、助手席に放り投げる。ドライバーを使いネジを緩めると、銃身からランヤードを外した。


 運転席で上着を脱いだ。半袖Tシャツを捲り上げ、ジーパンと腹の間に拳銃を押し込んで差し入れる。脱いだ服を掴むと、ドアを開けて車外に出た。


 ベビーカーを押す若い夫婦連れが、直ぐそばを横切った。慌てて背を向けながら、手に持った黒いシャツを羽織った。辺りを見渡した。


 二年ぶりだった。医師免許を取得したときに、いちど此処(ここ)に来たからだ。


 勤務は一週間前から欠勤していた。やり残した仕事が山積みだった。しかし本来であれば、先にやらねばならないことが随分と後回しになった。


 桐生蓮(きりゅうれん)は公園の入り口に踏み込んだ。


 全うしてきた志しなんかより、ずっとたいせつなものがあった。うえをいくものがあった。だから導かれるように、此の場を選んだ。


 新緑に囲まれた橋を渡ると、池の上に東屋(あずまや)が見える。水面には、反映した橋と空と雲が映り込んでいた。しばらく進むと、ハス池が見える。クランク状の遊歩道に突き当たり立ち止まると、大きな森が見えた。


 補正された階段が終わりを告げると、入り組んだ山道を歩いていった。野鳥たちの(さえず)りが聴こえる。落ち葉や枝で土の見えない柔らかな森の中を、足早に過ぎる。木の根につまづきながら、駆け足になった。鬱蒼と生い茂る、美しい緑の木立ちの間を潜り抜けた。なにかに追われているようで、追い抜いてもらいたくて、走った。


 追いつかれたくないばかりに、学生時分からがむしゃらに走ってきた。高みにのぼりたいなんて、露ほども考えなかった。追従も追随も望まなかった。物心がついたときから、医業が眼前にそびえていた。見せてくれたのは、唯一自分にそぐわない二つを、遥かに(しの)ぐものだった。


 これは果報だ──ついでに二十六年ぶんの報酬を支払わなければ、割に合わない。俺という人生のおまけ付きだ──。


 こめかみから汗が伝った。助手席に放り投げたスマートフォンの電源を入れた。GPSの《緊急位置情報サービス》の通知をオンに戻す。一八四で一一〇番通報した時点で電話番号はおろか、おおよその位置情報も周知のうえだろう。しかし敢えて、公衆電話ではなく携帯電話から通報する必要性があった。


 早く来い──もう走る意味もない。追いつかれたくなかった自分が、足を止めた。拳銃を奪う為に殴って失神させた警察官の脈拍を、咄嗟に測ったことに自嘲する。


 自分はなんだろう──俺はなにものだ? 


 振り返った。自分がなにものかを教えてくれる筈だった、あのひとの姿は永遠に失われた。桐生の足元の後ろには、木々と平坦な森の地面だけが存在した。


 別れ際に見た、あの華奢な背中を脳裡に浮かべたかった。()せたかった。でも駄目だった。いまジーンを取り込んだら、それは桐生にとって大罪を上回る悪事だった。頭を振って削ぎ落とした。


 全てが俺を追い越せばいい。(はし)るのはもうやめだ。深潭(しんたん)沈吟(ちんぎん)したって構わない、当然だ。なぜなら自分はもう、いち犯罪者であるからだ。ひと一人を死に追いやった殺人者だからだ。挙句には派出所で銃を奪い、警察官を負傷させた。


 嘲笑に身を(ゆだ)ねた。医業に携わり、善悪問わずひとの命を救うのではなかったか。患者という患部に向き合うのではなかったか。


 研修医生活は、学生時代の勉学では想像もつかない場だった。メスで開いた患部は、人間の脈絡(みゃくらく)を学ぶところだった。


 そこは、個々のものを順序立てて並べ、全体をひと繋がりにして機能すべき場所だった。一連の配列と融合だった。『正と知』に属性し『生と死』という表裏一体にして、対極方面に位置づけられていた。


 死は生に追いやられる、脇役でなければならなかった。生が(つかさど)るのが死であるはずだった。脇目など振る間もない、一直線だった。


 それが見ての通りだ──と、誰かに揶揄(やゆ)して貰えるのならばありがたい。自らで脇道に入り、沿っただけだ。選んだのは紛れもなく俺だった。逸脱(いつだつ)したのではない、自分の意思で自分と取引きしたのだ。


 腹部から拳銃を取り出した。卒業旅行でいった、ロサンゼルスの射撃場を彷彿(ほうふつ)とした。まさか日本で手にするとは思わなかった。


 激鉄(ハンマー)を起こした。両手で空に向けて一発、発砲した。手首に衝撃が走り、硝煙(しょうえん)の匂いに包まれる。


 始まりに決まってつきまとう、終わりというやつに鳥と木々がざわめきだった。銃身が手のひらに(まと)わりつくような錯覚が生じた。さっきから一歩足りとも進んでもないのに、息切れがした。


 ふと、ローテートの患者だった輝元碧(てるもとあおい)を思い出した。色素の薄い瞳は健在していた。無意識に重ね合わせると同時に、瞼の裏にまた想いを馳せた。


 桐生は思惑を振り解くように、続く山道に踏み出した。

 頭上を見上げた。新緑の隙間から、幾重にも重なった厚い雲と白い月が見えた。






第二章のエピソード20に◇登場人物一覧◇を提示しています。

長編なのでぜひ閲覧頂けたら幸いです。ストーリーが読み進めやすいです。


拙著を読んでくださる皆さま、いつも本当にありがとうございます。

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