嫁が島
県立美術館のロビー横のガラス張りからの入り日に、彼女が目を輝かせた。ガラスに張り付いたまま、動かない。
葵月の生まれは関東だと言っていた。オランダ人の父親と死別後は、母親に連れられて日本各地を転々と移り住んだらしい。
島根に生まれ育って自分にとっては、珍しくも可笑しくもない光景だ。
「白潟公園に行きたい、行ってみようよ」
深代葵月がパンフレットを握りながら、子どもみたいに無垢な表情を見せた。
「えっと、ハイ……目の前だからいいですよ」
味気ない返事で応えた。
美術館から少し車を走らせ、パーキングに停める。
白潟公園は、宍道湖大橋南側にあり、松が多く植えられた和風調の公園と、県道をはさんで東側の芝生の広場と多様な植栽を保っている。宍道湖との親水護岸も整備され、ドラマのロケに使われたこともある。
しかし自分にとっては見慣れた光景だ。落日の残光に照らされる葵月に斜影が落ち、その方がよほど魅力的だった。
「嫁が島の話しって実話なの?」
「あんなの、作り話しですよ」
「どーしてそんなに冷めてるの。パンフレットで読んでから、見るたびに泣けちゃうんだけど」
親水護岸を歩きながら、九月の宍道湖の晩照に浮かび上がる嫁が島を見た。夕映えの空の下に黒く佇む島が、嫌いだった。見る度に、まるで憶えのない幼少期が垣間見えるからだ。話しの由来も苦手だった。あの島を見るのが嫌いだ──。
「ねえ、凄いよ、これなに?」
青柳楼の大燈籠を指差し騒ぐ葵月に、観光者か地元民なのか、知らない奴らが視線を向ける。透けた髪と日本人離れした面貌は、嫌でも人目をひいた。
「もう帰りましょう」
「いやだ」
「どうして」
「宍道湖が嫌いなの?」
思わず口籠った。
「いえ……でも、もう帰りましょう」
葵月が心配気に、見つめてくる。すっかり日が落ちていた。太陽と月が入れ替わり、太陽に照らされた月が皓々と輝く番が回ってきた。
「こんや、泊まっていきます?」
「でも、あした仕事だから……」
「俺も仕事ですよ」
「だって……なんていうか」
「なんですか」
俯く横顔を見たら、少し構ってみたくなった。
「適度に切り上げます」
「別に、そういう意味じゃ……」
赤みを帯びた耳の傍に口を寄せた。
「あなたが適材適所を与えてくれたら、ちゃんと見極めますから……ね?」
ますます朱赤に染まる耳が愛おしくて、宍道湖だの嫁が島だの、とうに自分の脳裡から薄らいでいた。
この街が嫌いだった。なぜ、ここにとどまっているのかが解らない。いっそ彼女を連れてどこかに──。
自分の手に触れた指を強く握り返した。残光は消え去り、円光を纏う月明りが湖を照らしていた。
照らし、反射する。月と太陽の関係は平等なのか。昼と夜ならば、太陽の方が遥かに地位が高いのではないか。特別な人種でない限りは、人間は昼を好み、夜を好まない。いつだって明るさや煌めきを、ねだってやまないじゃないか。
ならば月は脇役なのか。月は自ら光を発することは出来ない。太陽に全てを委ねている。しかし地球の影に月が隠れる夜もある。そのときは太陽が脇役に周り、この星に隠された月が赤く煌めき、主役になる。
月の価値はあるのか、月に意味はあるのか。
「……どうしたの」
我に返った。
「さっきの話しの続きは、俺の部屋で」
繋いだ彼女の手を引っ張り、駐車場へと向かった。




