奪えないもの
「ねえ、桐生先生」
眠っていると思っていた、輝元碧が目を閉じたまま、小さな声をこぼした。
「どうした」
「私、去年この病院に入院したときにね、あのときの個室部屋の窓から桜が見えたんだよ。ソメイヨシノ、白っぽいやつ。ことしは病棟を移ったから見られなかった。花瓶に挿したかった……」
「桜の枝は折ったら駄目なんだ……来年──俺が病院以外の桜を見に連れてってやる。どこか探しておくよ」
「ほんとう? でも桐生先生、研修三年目になったから、前よりもっと忙しいよね……先生、婦人科のローテートが終わっても、ずっと碧の様子見に来てくれてたけど……あ、先生確か三月生まれだから、先月二十六歳になったばかりだよね? 私は二月で十七歳になったよ、今よりもっと忙しくなっても……またこの病棟に来てくれる?」
研修の年数まで把握している、碧の痩せた頬を見た。
「同じ院内だから、碧が呼んでくれたら直ぐに来るよ」
「二月八日の誕生日にね、極夜を見たよ」
「極夜? ……その日がきみの誕生日だったの?」
「うん、今年は雪がたくさん積もったでしょう? 私が生まれた時刻が夜中だったから、外を見てたんだ。三時くらい」
「三時……」
「先生、極夜って知ってる? 中学のとき、ⅭSのナショナルジオグラフィックで観たんだ。高緯度の南極圏や北極圏では、いちにち中太陽が昇らない日があるんだって。太陽の現れない夜が続くんだって。昼なのに空が薄暗くて薄紫色だったり、ピンク色みたいなんだよ。でも私たち日本人は、中緯度に住んでるから『太陽が現れない夜』っていわれてもピンとこないよね」
碧が窺うように、桐生に視線を向けた。
「桐生先生、雪が積もるとどうして空がピンク色っぽくなると思う?」
「どうしてだろう、分からない……」
「夜の街の人工の光が全部混ざると、オレンジ色系になるからだよ。だって、街灯も車のライトも赤やオレンジっぽいでしょう? 氷の色は青い光だから、オレンジ色と青い光を混ぜると光の三原色の法則で〝ピンク色〟になるのです」
おどけた口調で碧が話しを続ける。
「雪が積もってると人工の光を反射して空に向かっていくから、空が明るいピンクや薄紫色になるんだよ。お誕生日の夜中の空があんまり綺麗で、朝まで眠れなかったよ。だからお昼にたくさん寝ちゃった。普通だったら、夜中の三時なんて真っ暗だもん。ナショジオで観た、日中の極夜みたいに幻想的だったんだ。積もった雪と空が、互いに色を分け合ってるみたいだった。次の日の九日はどうだったのかなあ」
窓辺に佇んでいる、返事のない桐生の姿をベッドから覗くように見上げた。
「なんだか桐生先生──この前出会ったときより、だいぶ痩せた? そういえば顔色も悪い……」
「そうかな……そうでもないよ」
「新人外科医になったんだから、しっかりしないと」
桐生が苦笑った。
「よく知ってるね」
「先生、髪の毛短くしたんだね。長めも似合ってたのに。しかも直毛だったの?」
「うん、仕事で邪魔になるから。極夜か。子どもの頃、俺もテレビで見たことがあるよ。碧はなんでもよく知ってるね。学校では、どんな科目が得意だったの?」
「高校の学科がね、生命科学だったんだ」
「──え?」
「いまお医者さんだったら、桐生先生の体調を診てあげられたのにな……あと九年早く生まれたかった。そうしたら頑張って煌大の医学科に入って、先生と同期になれたのに」
ベッドに近づいた。碧が桐生に手を伸ばした。
骨と皮だけだった。そっと握った。話しがしやすいように電動ベッドのボタンを押して、リクライニングを上げた。
「桐生先生って、好きなひと……いる?」
「──うん、いるよ……」
「そっかあ……それは残念、だから一年越しで頑張ってるのに、振り向いてもくれないのかあ」
桐生が躊躇いがちな笑みを見せたあとで、呟いた。
「でも、もう会えないんだ」
「え? どうして? 好きなひとなのに?」
「好きだから、お願いしたんだ」
「もう会えないってお願いしたの? 好きなのに? それが先生の願いだったの? そのひとは――先生の願いを叶えたの?」
「そうだよ──」
色素の薄い瞳が桐生を追いかける。
桐生の境界線を碧が見据えるように、無意識にできた境界壁に――優しく触れるように、静かにいった。
「……理由があるんでしょうね、訊きませんけど」
桐生が思わず頬を緩ませた。
「余計なことばかり覚えてるんだな、きみって」
「先生が最初、あんまりツンデレだったから。出会ったころのインパクトが強かったんだよ」
碧が弱々しく笑みを浮かべた。
「先生、わたし、誰かのいちばんになったことがないんだ──」
「いちばん?」
「そう、いちばんだよ……なってみたかった……でも自分にはそんな資格が無いんだ……わたしね、私……小さいときに今のお父さんじゃない、違うお父さんにね」
碧が瞼に力を入れて下を向いた。滴り落ちた雫が、白いシーツに円の染みを描いた。
「そのひとにね……」
「言わなくていいよ……誰も……碧からなにも奪えない……碧からたいせつなものを奪おうとするものなんか、もうどこにも存在しない。大丈夫だ」
桐生がベッドの横の椅子に腰を下ろした。
碧が長い腕を伸ばして、両手を桐生の肩に乗せた。鼻の酸素チューブと点滴の管に気を付けながら、ゆっくりと背中に手を廻した。
病院着からの背中は骨ばっていた──もう骨だけだった。
弱い力で抱き締めた。肩に顔を埋めた碧の涙が、桐生の白衣を濡らした。
「先生の好きなひとに悪いかな、彼女さんごめんなさい……少しだけ、こうやっててもいいかなあ……あと少しだけ……」
「いいよ──碧を」
「ど……したの」
「碧の……いちばんにしてくれる? 俺のこと──」
「ほ……んとう? 桐生先生、碧のいちばんに……なってくれるの」
「そうだよ……だから安心して……桜、観にいくんだろう? 約束忘れるなよ、覚えてて」
「忘れないよ……先生と桜……先生の家のそばの湖も、月の海も見たかった……でもそこに行けば、桐生先生にいつでも会えるんだね。わたしをずっと覚えていてくれる?」
「覚えてるよ──碧をずっと覚えてる」
「碧のいちばんにならなくてもいいよ、その代わり桐生先生にとって、いちばんのひとを大切にして『好きだから会えない』なんて、その先生の願いを叶えさせるなんて、可哀そうだよ……きっとそのひと待ってるよ、そんなもの叶えたくないって思ってるよ。早くいかないと」
かつて桐生の血が滲んだ場所に、碧の涙が重なった。まだ、たったの十七歳だった──。
緩い力で抱き締めながら、髪に頬を寄せた。力を入れたら折れてしまいそうだった。碧の肩を起こして顔を真っ直ぐに見た。密度の低い陶磁器のような白さだった。緩和ケアで生えてきた髪の毛を撫でた。
碧が閉じたまつ毛の無くなった瞼から、涙が筋をつくり頬を伝った。
濡れた白い唇に静かにそっと、桐生が指先で触れた。
いつも読んでくださりありがとうございます。はじめて[日間]推理[文芸]連載中でランクインしました、感謝の念で溢れています。
第二章はあと一話で終結します。第三章から展開していきます。
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